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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたの欠如のかたちのお菓子

 そんなふうにいろんな女の人のあいだをふらふらしたってものごとは解決しないんじゃないの、と私は言う。あなたが失ってきつい気持ちになっているのは、恋の様式だけを引き写した気楽な関係ではないし、穏当で安定したパートナーシップでもない。以前の恋人とのあいだにあったずぶずぶの理解と誤解と無理解っていうか、執着と二人の歴史なしに生まれない、ひたすら濃い感情のやりとりでしょう。そういうのってそこいらへんに落ちてるものじゃないし、そもそも自分がそれを欲しているかすら、実際のところわからないんでしょう。あなたと前の彼女の別れにはそこからの逃避という側面もあったんでしょう。
 ずぶずぶがほしいんじゃない、と彼はこたえる。ぜんぜんほしくない。まったくもってうんざりしている。でも彼女と別れて欠けたのはそれだから、たしかにそのかたちの穴が俺には空いてるんだろうね。だからいやなところだけを抜いたそれが俺はほしいんだと思う。漂白したきれいなそれが。言いよどんだ彼に私は助け船を出す。だから執着の少ない、あっけない愛をあなたは手放す。あなたがいればうれしい、いなくてもそれなりに楽しくすごしている、そういう健やかな人に、自分の愛を手向けることができない。自分がいなかったら飢えて苦しんでほしい、ただし適度に。冷たくしたら泣いてほしい、ただし自分が引かない程度に。ときにはだだをこねてほしい、ただし自分がそれを望むあいだだけ。
 どうせ俺はそういう卑しい人間ですよと彼は言ってことのほか下卑た笑いを笑う。必要とされたいのが卑しいんじゃないと私は言う。他人をコントロールして自分を必要とさせようとする心性が卑しいんだ。必要とされたい気持ちをそんなに悪く言わないでほしいよ。ただ相手を意図的にその気にさせるのがあんまり上手いのはやっぱり邪悪だと私は思う。
 彼は不意に声色を変える。だってそうでもしないと誰も残らないじゃないか。どんな手を遣っても誰かを、ずっとそばにいたいと思わせなくちゃ。ちょっと気に入った相手はとりあえずそんなふうにして、いくつかそろえて、それから選ぶ、選ぶ立場に、俺は絶対にいなくちゃいけない。もう時間がないんだ。もう三十六だ。いま下手を打ったら一生ひとりだ。寄ってくる女がブスとばばあばっかりになる、そんなのもうすぐだ。
 私は彼を嘲笑する。ブスを一元的に定義できると思うなんてあなたはほんとうに愚かだねと言う。誰が見てもブスなんて生き物がこの世に存在するはずがないじゃないか。あなたの友だちがみんなブスだと言ってもあなたが美しいと思う人がこの世にはきっといるのに。ばばあにしか相手にされないじじいになるのが怖いなんてさらに愚かだね。生きていれば年を取るので、生きていて三十六にもなって、それまで死ななかったんだから、良かったじゃないか。とてもおめでたいことだよ。お誕生日が来たらハッピーバースデーを歌ってろうそくを吹き消してケーキを食べるんだよ、これから先ずっと。
 なんだそのポリティカリ・コレクトネス、と彼は吐き捨てる。マキノは女なんだから俺よりもっと怖がるべきだ、じじいよりばばあのほうが侮蔑の語彙として強いんだからマキノのほうがでかいダメージを受けてなくちゃおかしいだろ。芝居がかって眉を上げ、澄ました声で私はこたえる。育ちがちがいますので。私は私を、そのような下賤な価値観に染まらないよう、だいじにだいじに育ててまいりましたので、その無価値な場所から無意味な妄想を捏ねてつくった弾丸を撃たれても、まったくの無効ですことよ。
 嘘だ、と彼はつぶやく。そんなのは嘘だ。いけ好かない虚勢だ。うらやましいですかと私は問う。冗談じゃないと彼は即答する。そんなのは、誰にも選ばれなかった人間が張る最後の見栄にすぎない、あるいははじめから価値がなかったから価値の目減りがないことを幸福と表現するような倒錯にすぎない。私は笑ってそうかもねとこたえる。彼にはきっとわからないのだろうと思う。それに、ほんとうに倒錯なのかもしれないと思う。
 ねえいっそ頼んでみたらどうかな、と私は提案する。誰か、女の人に。自分はこのような人間なので、どうか自分のために、適度に苦しんだり嫉妬したりわがまま言ったりしてくださいって。あなたが満足するスペックの、つまり顔とか年齢とか頭とかがあなたにとってオーケーで、しかもそれができる人、いるんじゃないかな。あなたみたいな人って、いっそのこと掌で転がされてしまえばいいと思う。私はとてもまじめに話したのに、彼はひどく可笑しがり、それから小さい声で、そんな親切な人はいないよと言った。