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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

残弾処理場の述懐

 新しいアカウントが出てきて、思い出すのに三秒かかった。本名なら高校の同級生だ。新しく登録したのだろう。このアプリはアドレス帳と連携して知人を割り出す。そう思っていると吹き出しがぽこりと出た。もしかして槙野さん?私はちょっとびっくりして返信する。うん、槙野です、寺嶋さんだよね、ていうか今は、香西さん。メッセージが出現する。寺嶋でいいよ、あちこちで旧姓のまま通してるの。
 私は彼女と親しかったことはないけれども、彼女と結婚した相手とは集団で会うことがあるので、近況は聞いていた。彼らは高校のころからつきあっていて、大学の後半から一緒に住んでいる。彼女は高校を出て入った大学を二年で辞めて医大に入り直し、彼女の夫いわく「今は日々、切ったり貼ったりしている、とてもこまかく」ということだった。彼女は夫にやさしく、夫はそれを私たちに誇った。だから私は彼女に対して好ましい印象を持っていた。有能で意志が強くて手先が器用で愛情深い女のひと。
 通話ボタンをタップする。はい、と声が聞こえる。わあ、寺嶋さんだ。はい、寺嶋です。ひさしぶりだねえ、なんだかちょっとうれしくなっちゃった。は?
 その一文字にひやりとする。聞き間違いだと判断する。職場でなにごとかがあり、腹立たしくて目が冴えてしまったのでスマートフォンをいじっていたとのことだった。仕事してるといろいろあるよね、うんうん、と私も言った。思い出した、と彼女は言った。明るい可愛い声だった。槙野さんはそういう、いいかげんな「うんうん」がすごく得意な子だった。
 私は凍りつく。その声の持ち主の、現在の顔を私は知らない。空想上の白抜きの顔に線で引いた笑顔が浮かぶ。この人は、楽しんでいる、と私は思う。はずんだ声は途切れない。槙野さんはだから、いろんな人に話をされていたよね、槙野さんは上手に相槌を打って、人の話を聞いている自分が誰より大好きみたいだった。自分を特別な人間だと思ってた。でもそんなのゴミ箱なのにね、みんながもてあました何かを投げこむ空洞なのに。
 寺嶋さんの言うとおりだね、と私はこたえる。そうやって怒りにまかせて人の欠点をあげつらうの、よくないと思うよ。道ばたで昔の知人に遭ったらいきなり殴られたみたいな気持ちする。寺嶋さんはすっかりリラックスした、甘やかな声でこたえる。だって事実じゃない。事実だからいけない、と私は言う。私たちを殴るのはいつだって事実だよ、嘘ではない。なんだってそんな辻斬りみたいな真似するかなあ。しかもえらく楽しそうに。完全に八つ当たりだし、意味がわからない。
 楽しいのよ。彼女の声は不意に硬化する。私は何年かに一度、ちょっとした知り合いにそういうことをするの。相手の言われたくない事実がぱっとわかって、それを振りかざしてしまうの。そのときはすごく高揚して愉快なの。でも後悔する。自分はなんて卑しいんだろうと思う。なるほど、と私は、意味のない合いの手を入れる。この発言も寺嶋さんにはゴミ箱的なふるまいとして認識されているんだろうなと思う。
 人生は順調ですかと私は尋ねる。笑っちゃうくらい、と彼女はこたえる。医者って仕事してるだけでお礼言われるんだから、ほんと得だよね、営業が販売目標を達成しても、経営が中期経営計画をクリアしても、企画がコンペティションに勝っても、お礼なんか言われないのにね。感謝の山と、たいしたことないけど昇格と昇給と、優秀な同僚たちの好意と、湯水みたいな夫の愛情にどっぷりつかって暮らしてる。
 だから大切な人たちにはいい顔をする、と私は言う。大切な患者さんや同僚や家族には、凶暴な側面を決して見せることがない。でもあなたはほんとうは凶暴だ。どうしようもなく。だから辻斬りをする。継続的な関係のない相手を選んで、する。それはとても楽しいんだろうね、後腐れのないアフェアというところだね。
 彼女は少し黙って、ごめんなさい、とつぶやいた。謝るくらいなら言わなきゃいいのに。私はそのように彼女をなじり、ちょっと泣きそうになる。いい大人がさあ。凶暴なのがいけないんじゃないよ、そのエネルギーの質量があなたにいろんなものをもたらしてもいるんだろうから、でも公に発射できない弾丸が残るからってそれを暗闇で善良な第三者向けるような真似はどうかやめてほしいよ、何かほかに方法があるはずだよ。てのひらの機械の中で彼女はうなずく。私もうなずく。彼女が私のために、ほんとうは私にだって思いつきもしない「ほかの方法」とやらがあるふりをしてくれたので、なんとなく私はもう、あんまり怒っていないのだった。

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