傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼らのアイスランドの城

 彼とは久しぶりだったので、どうしてたと訊いた。稼いでたと彼はこたえた。相変わらずだねと私は言った。相変わらずじゃないと彼は言った。常に右肩上がり。じゃんじゃん稼いでる。
 彼は彼自身の自己紹介を借りれば「稼ぐほうの弁護士」で、稼がないほうというのがどんなものか私は知らないけれども、とにかくよく働いていた。彼の恋人は私の友だちで、彼らは司法試験の受験仲間だった。彼女は彼の言うところの「国家権力の犬」になって、彼と暮らしていた。彼は華やかで少し不安定で、どことなく過剰で、美しいものと力のあるものが好きで、やけに正確な文法を使って滝のように話すのだった。その量と速度が圧倒的なので、何度か会っただけなのにひどく親しい間柄のような気になってしまう。
 そんなに稼いでどうするのと訊くと彼は花火のように笑って、アイスランドに城を建てる、とこたえる。私はその文句を気に入って、すてき、と言う。すてき、でもアイスランドはきっととても寒いよ。
 サヤカはわかってないなと彼は言う。寒いから城の中のあたたかさが特権的なものになるんだ。きみはせいぜい合板のこたつで満足していたまえ。彼と前に顔を合わせたのは今からひとつ前の冬で、そのとき私はこたつのすばらしさについて力説して彼をさんざん笑わせた。彼はそういうことをみんな覚えているのだ。だから私も笑って、こたつは引越しで処分したよとこたえた。今の部屋はコインロッカーみたいに狭いから。会社まで歩いて行けるんだよ。いいでしょう。
 コインロッカー・ルーム、と彼は口にし、しばらくその響きを点検してから、悪くない、と認めた。なかなか悪くない。コインロッカー・ルームはきっと清潔できわめて安全なんだろう。安全な家、と私は言う。セーフ・ハウス、と彼は言う。でもそれはコインロッカーみたいな意味じゃないよ、秘密基地のこと、ちょっとした人物が自分の精神の安寧のために持つ煩雑なものごとに干渉されないための場所だとか。そういうの詳しいねと私は言う。
 彼の恋人は彼について話すとき、「私のかわいい俗物さん」と言った。彼女は十四歳の少女のように生真面目で、薄いファンデーションとマスカラだけのお化粧の、その使用量が常に同じであるように見える人だった。職に就いたお祝いの食事で、私は正義のために働くの、と言ってにっこりと笑った。
 アイスランドのお城は安全なのと私はたずねる。もちろん、と彼はこたえる。僕は日本で働いているから、一年の大半のあいだ、城には留守番の管理人しかいない。管理人は僕の従妹だ。従妹に城の話をしたら管理人に雇ってと言うから雇うと約束した。従妹はきれいで、だけど無力なんだ。雑誌に出てるけどそれは仕事じゃなくて、読者モデルというやつで、先輩がみんな二十代のうちに結婚して退職するような職場に勤めている。そういう無力な女の子がひとりで留守を守るんだから城はなんとしても安全じゃなくちゃいけない。そんなわけで従妹がせっせと暖炉の手入れをしておくから、サヤカも滞在するといい。白夜を見せよう。
 観たい、でもオーロラのほうが観たい、と私はこたえる。それじゃあ冬夫人にしてあげよう、と彼は言う。なに、夫人らしいことはとくにしなくていいんだ。冬夫人の仕事はオーロラを観測してそれについて来客たちに話をすることだからね。冬夫人はオーロラに関する学術研究をひととおり押さえ、オーロラが登場するさまざまな物語の場面を一字一句たがわず記憶している。そして来客それぞれの嗜好にあわせてオーロラの話をする。
 きっといい仕事をするよと私は約束する。彼は満足そうにうなずく。それから私たちはにしんとサーモンについて話す。彼は憂い顔で、問題は肉だ、という。アイスランド人は肉といえば羊だと思っているらしい。なにしろ寒いからもこもこしたけものしかいないのかもしれない。牛肉の調達について今から検討しておく必要がある。彼女そういうの得意そうだよと私は言う。確実に手に入れてきそう。彼はひっそりと笑って、彼女は来ない、と言う。彼女はね、人々の罪を申告するのに忙しいから、アイスランドには行かないって、そう言う。
 私はうつむく。彼は平坦な声で言う。僕が彼女と同じ職を選んでいたら、僕のアイスランドの城を気に入ってくれたかな。それともアイスランドの城について考えること自体がいやなのかな。きっとそうなんだろう。私は彼に彼女がつけた渾名を教えようと思って口をひらきかけ、それから、そっとそれを閉じる。人々の罪を申告するために遅刻した彼女が、扉をひらいて入ってきた。