傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

自分を探せない

 はあ?もう一回説明してくんない?は?それ本気で言ってんの?違う?違うって何が?
 部下を問い詰めるときの渡辺さんの物言いにはある種の人間に共通する特徴があった。まず蔑みの感情をこめたメッセージを発する。「はあ?」というのがその代表だ。私の席からは見えないけれども、表情もきっとそれに類するものになっている。それから相手に何かを言わせる。その後、それに含まれる誤りを相手自身に指摘させる。さらにその理由を尋ねる。再度「はあ?」が繰りかえされる。「私がバカだからです」とでも言わせたいのかと思う。
 それは少なくとも問題の改善のための会話のようには聞こえない。作業中に耳に入るからひどく気になって、でも私は渡辺さんにそれを言えない。渡辺さんは私の会社の人ではない。三ヶ月前にチームを率いて来て、業務用のシステムを構築している。渡辺さん、と誰かが言う。
 渡辺さんこれ食べてください。娘が台湾に行ってねえ、学校でね、修学旅行、ちかごろは外国行くんだって、まあ生意気なもんですよ。お茶もどうぞ、これも中国の、中国じゃねえや台湾のお茶です。
 驚いてあからさまにそちらを見ると、渡辺さんのデスクの横に木島さんが立っていた。木島さんは渡辺さんとは別の会社、木島さん自身が作ったエンジニアの派遣会社からひとりで来ている。長いことこの会社のネットワークを担当している。鷹揚で話しやすくて、機嫌のいい人だ。
 渡辺さんはできますねえと木島さんは言う。ぶっちぎりだ。俺も技術屋のはしくれだから、ちょっと聞いてればわかります。だから苛々するのもわかりますよ。みんなついていかれないからさ。うん、でもねえ、部下の子らだってがんばってるじゃねえかと、そう思うわけですよ。渡辺さん、ここ、嫌ですか。みんなが渡辺さんみたいなとこじゃなきゃ、苛々してつらいですか。ここもいいところあるな、楽しくやろうって、そういうの、だめですかねえ。

 先日は失礼しましたと、あらたまった口調で木島さんが言う。あれから一週間が経ったお昼休みで、私たちはフロアの隅の自動販売機の前で顔を合わせたところだった。
 木島さんは今度はいつもの口調ですいませんでしたとパラフレーズし、ありがとうございましたと私は言う。どうにかうまく言えないものかと思っていました。渡辺さんはあれからああいう口調でお話していないようで、よかったです。
 まだわかんないですがねと木島さんはこたえる。渡辺さん言ってたんです前に、こんなところに来るはずじゃなかったって。それで苛々して下の子を苛めてさ、そんなのだめでしょうよ、せっかく若くて頭いいのに。俺そういうの見ると昔っからむずむずしてなんか言いたくなってしょうがない。昔からって、と水を向けると木島さんはちょっとはずかしそうに笑う。
 木島さんは服飾の専門学校を出て、衣料品メーカに就職した。そうしたらその会社が潰れた。それで国の職業訓練を受け、今ほどは一般的でなかったコンピュータ・ネットワークの技術を身につけた。国が金くれて勉強できるなんていいじゃねえかと木島さんは思った。
 その学校の人たちはたいてい意気消沈していた。失業者なのに意気消沈していない木島さんほうが珍しいのだった。彼らはそれぞれに言った。自分はこんなことがやりたかったんじゃない。どうして自分がこんな目に遭わなくてはならない。こんなところ、自分がいるところじゃない。
 そんなもんしょうがねえだろ、と若き日の木島さんは思った。失業は現実なんだから、「そうか」と思えよ。コンピュータだってけっこうおもしろいじゃねえか。失業した人間の集まりにいるのがそんなに嫌か。俺も失業してるよ、だから、同じ教室にいたら、嫌か。
 俺は嫌じゃないと木島さんは思った。俺は俺やほかの人のことぜんぜん嫌じゃない。みんなは間違ってる。そう思った。うまく言えなくてかなしかった。
 若い子がたまに、ほら、自分を探しちゃうじゃないですか、と木島さんは言う。自分探しって、ありゃ妙なことばですね、自分はここのほかのどこにもいやしねえでしょうよ。でも自分はもっといいもんだと思ってるんだね。いいもんになりたいのは当たり前だ、いっぱいがんばっていいもんになればいい。でも自分探しっていうのは、どっかに自分がいるべき場所があってそこに行けば自動的にいいもんになれるって、そういう考えでしょう。
 コークの缶を急角度で傾けたあとに、木島さんは言う。
 能力に見合わない場にいる人は、そりゃいるでしょう。でもそこが今の「自分がいるところ」なんだ。今の自分が自分なんだ。それがわかんないやつは、俺は、嫌ですよ、気持ち悪い。

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