傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

悲鳴として悪は成される

 喉の詰まる感覚をおぼえて自席を離れた。なにかがときどき彼の喉に発生するようになって数ヶ月が経つ。何を飲んでも流れないけれども儀式めいてなにかを飲む。自動販売機の前で彼は立ち止まる。梅雨冷えの空気に肌が薄く粟立ち、よく冷えた缶が飲み物に見えなかった。
 コーヒーを飲もうと思う。管理職が私物のコーヒーメーカを持ちこんでいる部署がある。顔を出すと当の管理職である加賀さんだけがいて彼はひどくうろたえる。コーヒー淹れましょうかあと言われて、なんだか逃げ場がなかった。時間を考慮せず申し訳ございませんと彼は言う。加賀さんはへんな顔をして、僕が淹れるコーヒーが飲めねえかあ、と芝居がかった口調をつくる。
 ああ中堀さんコーヒーですかと声が聞こえて彼はびくりと振り返る。加賀さん唐揚げ弁当ありましたよ。わあい。槙野さんは何たべるの。豆サラダとおにぎりです。ダイエットお?やだねえ。ダイエットがいやなのは加賀さんです。私ではありません。
 彼は彼らの会話になぜか不快感を覚える。でもコーヒーを飲むまで出られないと思う。それから自分がひどく切羽詰まっていることに気づく。槙野さん聞いてよこの人コーヒー淹れるのが僕だからがっかりしてるんだよ、ひどくない。まあひどい。いくら加賀さんが毛沢東に似てるからって。
 カップがわずかな音を立てて置かれ彼ははっとする。どうしましたと加賀さんが訊く。彼は小さい声を出す。仲、いいんですね。槙野さんが笑って、うちはみんなこんなですとこたえる。加賀さんはこういう方なので。僕威厳ほしい、と加賀さんが深刻な口調をつくり、彼らは笑う。コークが、と彼は言う。自販機のコークが、なんか、飲み物じゃなく見えて、オブジェみたいな、そういうの、ありましたっけ。口にしてから自分は少しおかしいと思う。ポップアートっぽかった、と槙野さんが語尾を上げる。そういうジャンルはありますよ、興味なくてそう感じたならいい発想ですね。
 どっかで聞いて忘れたんだと思いますと彼は言う。発想とか俺、ないんで。彼らは顔を見合わせ、彼はせりふを誤ったと思って動揺する。誰がそんなこと言ったのと加賀さんが訊く。中堀さんが子どもだったころの美術教師、それとも親、それとも上司。彼は十秒後に彼の筋肉が不随意に収縮したことを知覚する。なにか聞いてるんですかとつぶやく。喉がほとんど塞がっている。加賀さんの声が聞こえる。うん、そういうのって隠しきれるものじゃないから。行為がというより、する人の感情が。生産の現場において感情は適切にマネジメントされなければならないよ、押し殺すってことじゃなくて誰もが感情的にケアされなければならないんだよ。ああ槙野さん待って。槙野さんがいてもいいかな中堀さん。彼は囚人のように従順に諾う。
 彼の上長が彼の仕事を否定しはじめたのがいつからかはわからない。少しずつだったと思う。今でもすべてを否定されているのではないと思う。修正に修正を重ねれば了解されることもある。上長は懇切な指導をしているともいえた。彼はいまや彼の劣悪な部分を百でも挙げることができた。そして上長のすぐれたところを同じ数だけ挙げることができた。
 加賀さんは彼のまとまらない話を聞きながら唐揚げ弁当をもりもり食べて自分のコーヒーを淹れ、彼におかわりをくれた。そして異常異常と遠慮なく言った。上司の美点がばんばん出てくるなんて異常。それ教育の成果。そんでその教育をするのはだめ。だってそれ生産のためじゃなくて自分の感情のためだから。彼は漠然とそのせりふを聞く。なんだかとてもぼんやりする。でも僕はその感情の正体も原因もわかんないんだよねえ。加賀さんが槙野さんに言う。尊敬への欲望だと思いますと槙野さんがこたえる。
 ある種の人間はそのように尊敬を渇望し得られなければ無理にでももぎとるんだと思います。なにそれえぐい。はい。でもわりとあちこちに転がってます。中堀さんの上司は中堀さんに尊敬されたかったんだと思います。中堀さんが好きで、目をかけていたんでしょう。でも中堀さんはただの上司としか思ってなかったんでしょう。
 怖いようと加賀さんはつぶやく。だってそんなのぜったい上司のほうが悪いじゃん。なんでそんなことしちゃうかなあ。悪事の大部分は悲鳴なんだと思いますと槙野さんがこたえる。その人の中にそうせざるをえない理由があるんだと。だからといってもちろん許す必要はないんです、あいつが悪いと指をさしたらいいんです。でも効果的に指をさすのに理解が必要なことがあるんです。私のは理解というか、想像というか、妄想ですけど。