傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

境界を監視する

 私たちは落ちこんでいた。早く介入していればと私は言った。それは無理でしたよと林さんが言った。もっと遅れていたかもしれないんですからと石塚さんが言った。これでよかったんですと橋本さんが言った。そうしてうつむいた。私たちは誰も、いいことをした気分になんかなれなかった。
 七ヶ月前に、林さんは言った。何もしなくても何も起きない確率はとても高い。でも手近な窓口があることでその確率はさらに低下する。抑止力というやつだね。
 林さんはそのように説明し、私と、それから石塚さん、橋本さんがあいまいにうなずいた。私たちはいずれも入社十数年の中堅どころだった。林さんは私たちより上の職位で、本務のほかにコンプライアンス遵守のための活動を取り仕切る役割を担っており、私たち三名の社員はその権限でもって林さんに呼びだされたのだった。
 三名に割りふられた役割は、ベテランと若手の社員がペアになって動くある業務の「監視」だった。私たちにはそれぞれペアが割り当てられ、ペアのいずれかからの求めがあった際に、あるいは正当な(あいまいな語だ)第三者が求めた際に、担当のペアがその業務で利用しているすべてのアカウントのログを閲覧する権限が与えられるというのだった。何かあったら社内で把握できる情報はぜんぶ見られるということだ。そうして「監視」対象にもそのことはあらかじめ明示される。
 ふつうは人目があるから、と林さんは言う。社内の人間関係には細かな修正が加えられる。なんというか、適切な態度を、自然にとるようになる。でもあれは二人きりでいるみたいな仕事だ。そうすると問題が起きてもわからない。
 何かあったんだなと私は思った。組織は前例で動く。前例によってはずいぶんと変わったことをする。えっと、うん、槙野さん、と林さんが言った。パワハラはどうして起きると思う。
 こないだ全社員メーリングリストで回ってきたパワハラ防止なんとかのテストだろうか。まずい。ぜんぜん覚えてない。私はそう思いながら澄ました顔をつくり、加害者の人権意識の不足によるものでしょうか、とこたえる。林さんは破顔してつまらないなあと言った。残りのふたりが少し笑うのがわかった。申し訳ござませんと言って私も笑った。
 パワハラが起きるのはパワーがあるからですと林さんは言った。私は首をかしげた。林さんは自分の前に並んだ三つの顔を順繰りに見て、それから言う。
 権力があって、振るってもいい状況なら、たいていの人は振るう。僕はそう思います。残酷な人間だから、ずるい人間だから、立場を利用して他人を苦しめるのではない。それができる力があるからそうするんだ。そしてそのときは相手が苦しんでいることになんか気づかない。僕らは自分より弱い立場の人が押し隠した苦しみになんか気づかない。悪いことをしようと思うのではなくて、そうしてもいいと、それが当然だと、意識の表層にものぼらないところでそう思って、それをするんだ。そうじゃないですか。だから僕らはすべての人に「あなたを見ている」と言うべきなんです。

 わずか半年で、それは発覚した。私が割り当てられたペアの新人が私にメールをくれた。申請理由が不適切であるとして有給休暇の取得を差し止められたけれども、どうしても取得しなければならない事情があるので説得してくれという。そんなものを申請するほうがおかしいと言われたのだという。
 有給休暇は理由なく取得できることを法律で保証されており、理由を尋ねること自体がイレギュラーだ、会社は申請者に時期をずらす相談ができるだけなのだと説明すると、彼はどこかぼんやりした顔で、よくわかりませんと言った。それから、こんなことを言うからくびになりますかと訊いた。彼はあきらかに判断力をうしなっていた。彼は土日もろくに休んでいなかった。石塚さんと橋本さんと私は手分けして彼のペアのログをあたった。
 その若手社員は休職を申請した。具合が悪くなりました病気になりました体調管理が不足していて申し訳ありませんと、そう言っていたのだそうだ。
 境目がないから難しいんですよねと石塚さんは言った。私たちは丹念にそのペアのやりとりを見た。けれどもそこには明確な境目がなかった。ただベテランがしだいに若手を自分の一部のように、新人がベテランの考えていることを先回りするようになっていった。それは少しずつ、なめらかに進行していた。私たちは正常と異常のあいだに明確な線を引くことができなかった。
 私がそう言うと、うん、その境目でもあるけど、と石塚さんがこたえる。私が言いたかったのは、彼らのあいだの、境目のこと。