傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

くらげカーテン

僕と彼女は週末になると一緒に夕食をとり、彼女は僕の部屋に泊まる。僕と彼女は翌日、にぎやかな街に出る。僕は彼女を駅まで送り、笑顔で別れる。それがしばらく続く。
彼はそう話し、歌みたいだねと私は言った。彼が首をかしげるので、あー、きみとずっと眠りたい、とうたって、カフェのテーブルの端をたんたんと叩いてみせる。彼は私よりずっと上手に裏拍をとって爪でちいさな音をたて、きみとどっか出かけたい、とうたって、話を続ける。
そのうち、僕の部屋にものが増える。メイク落としとかヘアワックスとか。置いていってもいいって訊かれて、いいよって僕は言う。でもひとりで部屋に戻るとそれはなんだか異様なものに見える。なんでこんなものがここにあるんだろうって思う。いや、それが彼女が身支度を調えるのに必要なものだっていうのはわかってる。そんなのべつに邪魔にならないはずだって思う。でもそいつらはいやでも目につく。いつのまにか部屋に入ってきた動きの鈍い小さくない虫みたいに。
それで、と私は尋ねる。だめになる、と彼は端的にこたえる。彼は要約がうまい。彼女たちは、えっと、つまり、そのときどきの彼女はってことだけど、時がたてばたつほどたくさんのものを僕の部屋に置き去りにしたがる。そのことは話題にしない、でも僕はそのものたちを好きになれない、そうして、しばらくすると彼女たちは言う、なんだかすごく怒った様子で言う、あなたは結局のところ私がいてもいなくてもとくに問題はないんだよね、いれば楽しいけど、それだけ、私は、そういうのじゃないのがいい。
実際のところ、いてもいなくても問題ないのかしら、と私は訊く。僕はそのときどきの彼女をとても好きだよと彼は言う。誰かと仲良くなれるなんて滅多にないことだし、それぞれかわいいし、魅力的だから。
でもあなたはあなたの世界を侵略されたくない、あなたの何かが彼女たちの存在で変わることはない、彼女たちがあなたにもたらすのは楽しいひとときだけ。私がそう確かめると彼は何度か眉を上下させ、それからこたえる。そうかもしれない。
土曜日の娯楽に限定した関係ってそう長く続くものじゃないと思う、と私は言う。誰かに対する好意は、しばしば相手を変化させたいという欲望を含むものだよ。それだから、相手がひとかけらも変化しなかったらそりゃあ失望するし、自分がかかわれる範囲がごく狭くてそこから出られないってわかったら破局する。相手を自分の都合の良いように変えたいとかそういう意味じゃなくって、相手に影響を与えることができるっていうのが「親密な他者」というものの存在意義だからだよ。
そう話して、思慮深い人なのにどうしてそのことを思いつかなかったのかしらと私は思う。思って、でも少し納得もする。この人の身のまわりには何匹かの広い長い尾を持つくらげが泳いでいるような感じがして、私のことばの届く範囲はその外側に限られているのではないかと、そういう印象があったからだ。それは礼儀正しさや公正さに結びつくものでもあって、だから他人である私にとっては美点ですらあるのだけれど。
僕は少しおかしいんだと思う、と彼は言う。僕は自分ひとりの生活を完璧に作りこんで、とても健康で、毎日楽しくて、異常だと思う、だって僕の生活は、会社と自分の部屋とそのほかいくつかの場所があれば成立してしまう、それさえあれば、他人は、ほんとうは、要らないんだ、そんなの異常じゃないか、こんなに年をとったのに、特定の他者なしに成立して完結しているなんて、そんなのおかしいよ。
いいんじゃないのと私は言う。異常かどうかは知らないけど、あなたはからだの周りに何匹かのくらげを泳がせて、そのカーテンでいろいろな良くないものを防いでいる。それでうまくいくこともいっぱいあるんだろうから、彼女が居つかないくらい、まあいいんじゃないかな。いつか誰かと完全な恋に落ちなきゃいけないなんて決まりはないし。
くらげ、と彼は言う。くらげ、と私は言う。そういう感じする、半透明で優雅で奇矯で九十八パーセント水分の。
くらげなんて、そんなの、くぐったらすぐ内側じゃないか、と彼は言う。勝手にくぐる人はいないよと私は言う。くらげカーテンにはノックするためのドアがついていないからね、入れないよ。でも、ずっとくらげカーテンの向こうにいても平気な人だっているかもしれないから、そういう人を探してみたら。