傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

土曜の朝の子守歌

時計を見るととふだん起きる時刻だった。今日は休日だと思いながら布団のなかでにこにこしていると、携帯電話が鳴った。
私はそれを取り、ベッドから半身を乗りだしてカーテンをひらく。朝の習慣だ。おはようと私は言う。さわやかな朝だね。日光をあびると良いよ、バイオリズムが整う。僕はまだ夜の続きなんだと彼は言う。彼は私と同じ業界のやや異なる職に就いている。彼はいつだったか、僕らはいわば精神的な同期だねと言った。私たちは同い年だ。
彼の長い夜の内訳を問うと、空が白むまでが仕事で、そのあとがお酒だという。ばかだねと私は言う。終わったらさっさと寝たらいいのに。それで、いいだけ眠ったらブランチにするの。やわらかなオムレツと、口の中が切れそうなバゲット、とかね。そしてお散歩をする。夜になったら小説を読んで眠る。アモンティリャードはなし、ボンベイサファイアもなし、グレンリヴェットもなし。誰かとひとびんのハートランドを分けあうくらいはOK。それが正解だよ。
正解だと彼は言う。マキノが全面的に正しい。でも僕は正解を選べる状態じゃなかった。頭をめいっぱい使った直後って眠れないんだ、なんか、止まらなくって、頭が。空回りしてる、だから帰れない。わかるよと私はこたえる。でもそこできついアルコールを注入しないと頭がゆるまないのはまずい。実にまずい。お酒が頭を停める道具になるとね、
依存症まで一直線、と彼は言った。わかってるじゃんと私はこたえた。彼はため息をついて、なんでこんなにさみしいのかなと問う。毎日毎日死ぬほどさみしいのなんでかな。大人になったらさみしくないと思ったのに。生きてるからだよと私はこたえる。死ぬまでさみしいよ。うん、彼女つくればちょっとは気が紛れるかもね。もちろん恋人はさみしさのごみ箱じゃないから、さみしさの総量は減らないけど、耐えやすくはなる。がんばれ。
私は電話を耳に当てたまま台所に行き、片手でコーヒーの支度をした。誰ともつきあいたくない、と彼は言う。たとえばマキノだったらまあそうだね、テンポラリな、ちょっとした楽しみの相手にはいいなって思う、でもつきあうのはいやだ。愛してないから。
私はあきれて忠告する。あのさ、そういう、あわよくば系の願望をばらしちゃだめだよ。「このひと私のこと好きなのかしら」くらい思わせておいたほうが絶対うまいことやれるよ。私はお断りしますけど。
彼はちいさく笑い、同じくらいちいさくせきこむ。それが終わると話しだす。僕だって都合の良い女の子がほしかったらちゃんと体裁をとり繕う、いい気分にしてあげる、嘘だってつく、でも今はそれどころじゃないんだ。どうでもいい女の子に服を脱いでもらうための労力なんて残ってない。疲れると正直になる。今は労力かけて女の子を自分の都合のいいようにあつかうより、正直な話を友だちに聞いてもらうほうがいい。
どうでもいいっていうのもたいがいだけど、女の子はないでしょう、と私は言う。私たちがいくつだと思ってるの。関係ないと彼は笑う。僕にとってそういう対象になるかもねって思う相手はみんな女の子だよ、たとえ孫がいても。それが男の子というものです。
ばかだねと私は言う。そしてコーヒーをカップに注ぐ。いいにおいだ。私は台所に香りを残すために豆殻の入ったフィルタをシンクに置いたままにしておく。彼の声音の温度をはかり、もう少しかなと思う。ぐずる子が寝つくまで、絵本をあと一冊。やれやれ。
命令の声をつくって私は告げる。いまベッドでしょう、足のほうにからだを下げて。耳に腕をつけるみたいにして。肩胛骨のあいだを伸ばすの。あとね、加湿器をつけて。音楽はだめだよ、音の出るものはだめ。彼はそのようにした。たぶん。
レーコはどうしてるかなと彼はつぶやく。それは彼が二年前にふられた「女の子」の名だ。彼らは同じ部屋に住んでいた。起きたらメール書きなよと私は言う。重苦しいのはだめだよ、レイちゃんが今どんな生活してるかわからないんだから。うん、と彼はこたえる。
私は電話を切る。心やさしい自分に満足し、それから、朝ごはんは何にしましょう、と思う。和食がいいな、梅干しを鰹節でたたいて、だし巻き卵を焼いて、首のところを残しておいた大根をおろして、お味噌汁はわかめと、冷凍庫の中の油揚げ。