傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

悪いことしてみたかった

とってもいらいらして、と彼女は言った。しかたないよと私はこたえた。毎日まいにち警報が鳴って地面がぐらぐら揺れてるんだから。落ちこむというより、なんかもう、じっとしていられないの、だから悪いことしようと思った。生真面目に筋をとおしてやってきたのがばかみたいだと思ったから。彼女は話し、私はうなずく。彼女はいつだって無駄なくらい真面目で、だから、少し、かわいそうだった。
彼女はまず昼酒をのんでみた。すぐ眠くなって寝ちゃったと彼女は言った。休日の昼酒はいいものだよと私は言った。ちっとも悪いことじゃない。そうなのよねえと彼女はこたえて、ため息をついた。悪い感じしなかった、なんだか暢気だった。それで次は欲しいものかたっぱしから買ってやろうと思って、それで。
それで、と訊くと彼女はさっきより深いため息をついた。欲しいものそんなになかった。よく考えてみたら私、ボーナスのたびに計画的に買い物をしてるから、がまんしてたものってないの。
私は繁華街で不安な顔をして欲しいものを探す彼女を想像する。財布の中にはぴかぴかのクレジットカード。彼女は人々の手元を見る。あの包みはなんだろう。あんなにうれしそうな顔になれる買い物はなんだろう。私もそれがほしい。
かわいそうだ。私はちょっと泣きそうになって彼女に話の続きをうながす。それでね、お酒のみに行ったの、ひとりで、と彼女は言う。
珍しいねと私は言う。彼女は見ているとぼうっとするような顔だちなので、私といてもときどき声がかかる。そんなとき、彼女は相手を冷たくあしらう。私はほほうと思ってそれを見ている。
あしらわれた男性が感じの良い人だったとき、代わりに私のメールアドレスを差しあげましょうか、と言ってみたことがある(笑って受けとってくれた)。彼女はその人がいなくなってから怒った。アドレスをあげるなら自分に声をかけた人にしなさい、プライドってものがないの。
あるよと私はこたえた。あなたにはたくさん声がかかる、私には、えっと、少し。あなたを見て来た人でも、もしかすると私を気に入るかもしれない。声をかけるにはけっこうなエネルギーが必要と推察するよ、だから無駄にしないように、必要に応じて再利用するといいと思う。そういうのはプライドとは関係ないと思う。関係性のない相手が原因でプライドが傷つくのは侮辱や暴力があったときだけだよ。
私がそう言うと彼女はひっそりと笑い、サヤカは勇敢だねと言った。私は、侮辱や暴力の可能性をつねに考える、私は背景の見えない人がみんな怖い、だからみんなに冷たくするの。私の心は腐っているからそんなのに寄ってくるのは蠅みたいな男で蠅は私に卵を生んで破壊するんだって思うの。
私はそのせりふを覚えていたので、珍しいねと言ったのだった。だって話しかけられるでしょう。あなたはそれがきらいでしょう。きらいなんじゃなくて怖いのと彼女は言った。でも自分で悪いことができないなら悪いことをしそうな人についていくしかないでしょう。
そうして彼女はついていった。声をかけてきた男は友だちと三人で飲んでいた。あとのふたりは夫婦だった。私たち席を外しますねと女性が言い、そしたら帰っちゃいますよと彼女は言った。夫妻は笑い、どうしてこの人に声をかけたのと彼に尋ねた。ジュリエット・ビノシュみたいだからと彼はこたえた。『存在の耐えられない軽さ』のときの。そして彼らは映画の話をし、夫婦はうちで飲み直すからおいでよと言った。
彼女はついていった。彼らはリビングで話題にのぼった映画を再生した。医者の家に行く場面が最高なんだと彼は言ってそれを見せ、彼らはげらげら笑った。四人もいて色気がないねと夫婦の夫のほうが言った。ふたりならこの映画みたいに可笑しくて劇的なのに。もっと劇的かもしれませんと彼女は言った。みなさんが快楽殺人者の集団じゃないってどうして私にわかるでしょう。もう少ししたら飲みものに入っている薬が回って私は生きながら首を切断されるかもしれません。
彼らはもっと笑った。夜が明けて彼女は帰った。首を切断されることもなく、と私は訊いた。胸の肉を切りとられることもなく、と彼女はこたえた。悪いことが見つからなくて残念だねと私は言った。まったく、と彼女はこたえ、これさっき買ってきたの、と煙草の箱を取りだした。悪い子の感じするじゃない、試す価値があると思わない。好きにするといいよと私はこたえた。でもそういうのは癖になるまでやらないとまずいだけだから、あなた悪いことした気になれる前にやめちゃうと思うな。