傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

聖なる標準家庭の祝日

 なるほど、あんたのおばあちゃんが地元の霊能力者を呼んだと。そしてあんたにお嫁さんが来て子どもを産んでくれますようにという内容の祈祷を上げてもらったと。あんたは正座して神妙な顔してその祈祷を承っていたと。そりゃしんどいね。田舎ではカムアウトしない予定だもんね。もうさあ、きょう東京に帰ってきちゃえばいいのに。東京で年越しすればいいじゃん。だいじょうぶだよ、そんな人いっぱいいるよ。

 そうですか、今年からお子さんとお父さんだけで帰省することにしたんですか。そりゃあいいですね。だって、お正月あけ、いつもげんなりした顔で出勤していらしたもの。ええ、毎年そうでしたよ。さぞかしストレスフルな「義実家」ってやつなんだろうなと、そう思っていました。そこまででもない? そこまででもないからよけいに疲れる? ああ、そういうこともあるかもしれませんねえ。

 おうち帰らなくていいの? いいんだ。そっか。妹さんももう大学生になったんだものね。お友だちと夜更かししたりするよね。へえ、お母さんもお出かけするんだ。そりゃあよかった。みんな好きにすればいいよね。お母さんとあなたと妹さんと、女ばかり三人で、長いことよくがんばったよ。ああ、そう、「いったんチームを解散する」、いいせりふだ。だからそれぞれで楽しい大晦日を過ごすんだね。

 そうですか、年末年始はどこへも帰らない。東京のご出身だからですか。ああ、そうですか、もともとご家族と折り合いがよくないと。なるほど。いいじゃないですか。気の合わない人たちと無理に過ごすことないです。ひとりで年末年始を過ごして何がいけないんですか。私なんかずっとそうですよ。さみしくないかって。自分を害するような人たちと一緒にいるほうがよほどさみしいですよ。

 私は思うんですけど、日本には直系親族ベースの「家族」信仰があるんです。「標準世帯」って言葉があるんですけど、知ってますか。むかし役所が使ってた用語でね、お父さんがお金を稼いでお母さんが専業主婦で子どもがいる世帯のことです。ええ、そんなのぜんぜん「標準」じゃないし、多数派だった時期さえ二十年かそこいらの短期間なんですけど、でも「これが正しい家族だ」という思いが、日本ではいまだにめちゃくちゃ強いと思うんですよ。ふだんは平気な顔して「よそはよそ、うちはうち」と思えるような人たちでも、年末年始は「標準」にあてはまらないことが、ちょっとさみしくなったりするんです。

 年末年始は「標準家族」信仰が強まる時期なんです。ええ、もはや信仰といっていいんじゃないですか。ほぼ宗教ですよ、あれは。それで私は年末年始を「日本の聖なる家族の祝日」って呼んでます。血族と法律婚と嫡出子の祭典。稼ぐ男と家事する女が国家に届け出した上で子どもを作った「正しい家族」の祭典。

 私はその祭典に与しない。ずっと前からそう決めています。彼らは彼らの祭りを執り行えばいい。でも私みたいな極端な人間ばかりでこの世ができているのではないです。もちろん。

 祭りは言祝がれぬ者を排除し、「正しい」者を選別する装置です。だから「標準家族」教の祭典の中にあって、定型とされる家族に属さない者はえらく消耗します。属しながらその役割に疲弊する人もたくさんいます。割を食って消耗しながら「標準家族」をやる。そういう人もいっぱいいます。私みたいな極端な思想を持つ人間が簡単に「やめちまえ」と言えない事情を、みんな抱えている。

 日本におけるクリスマスが恋人たちの祭典として受容され需要されたのも、時期がよかったからじゃないかと私は思っているんですよね。その後の年末年始が象徴する直系血族の準備段階としての若き異性愛カップルを称揚するわけですよ。ちょうどいいでしょ。恋愛を選別して再生産体制である婚姻に結びつけるタイミングとして12月25日は最適です。欧米では家族の行事だったクリスマスが日本に来て恋人たちの行事に変更されたのはそういうことだろうと、私は思うんですよね。

 そんなわけでみんな疲れていると思うので、私は私の知っている人たちだけにでも、年末年始には「いいじゃん」って言い続けるつもりです。帰省がいやになったら帰ってくればいいじゃん、家族がばらばらに年末年始を過ごしたっていいじゃん、そもそも家族がいなくたっていいじゃん。そう言いつづけるつもりです。

 それでは楽しい休暇をお過ごしくださいね。ええ、私はいつもここにいます。ここであなたに「いいじゃん」って言います。だからだいじょうぶ。良いお年をお迎えください。

僕らは世界をハックする 二人目

 シンガポールのオフィスははじめからすぐにたたむつもりだったから一年間使い切りの契約にしていた。学生時代のやんちゃが思ったより早く飛び火したので海外にまで出るはめになった。正直なところ、計算違いをした。

 個人で使うカネなんかたかが知れている。俺ははじめから大それた資産は望んでいなかった。そんなに野心的なたちじゃないんだ。大富豪になりたいんじゃなかった。巨大な権力(カネは一定量を超えると権力になる)は巨大な責任を生じさせる。俺はそんなものはほしくなかった。

 ほどよくアッパーで、ちょうどいい余裕があって、人よりも優雅だけれど、抜きん出すぎて孤独になることなく、上等な連中とつるんでいられること。そして誰も知らない資産を持っていること。それが俺の好みだった。どうして誰も知らない資産が必要かというと、不安や不確定要素を抱えているとQOLをそこなうので、一般人の範疇で人のうらやむ暮らしをしながら社会の変動にそなえるためだ。そう、俺は根っからの小物、ただし優秀な小物なのだ。

 最初は、ただのゲームめいたベンチャー経営だった。でも俺のアイデアはあきらかにそれ以上の利益をもたらすものだった。ただしそれは長期的なビジネスではなく、短期的な荒稼ぎだった。そして確実に世間の非難を浴びるものだった。非難はごめんだ。俺の人生には必要ない。

 俺は「相棒」を探した。つまり犠牲者を。俺に全幅の信頼を置いて危ない橋を渡り、どんな方法を用いても漉せなかった泥を最終的にすべてかぶってくれる相手を。

 同級生に適任者がいた。あらかじめ彼の好みを調べてから近づくと彼はあっという間に俺になついた。犬みたいに。彼はものすごくプライドが高く、たかが東大に入ったくらいで鼻高々になるほど世間知らずで、自分はもっと評価されるべきだと感じていた。特別扱いしてくれ。特別扱いしてくれ。そういう声が全身から漏れているような男だった。

 そして彼には友人がいなかった。まわりにいつも人がいるように振る舞っていたけれど、それは単に何らかの手続きをして複数のコミュニティに属しているというだけの話で、友人がいるのではなかった。彼はそのことをどこかで自覚しているようにも見えた。彼女という名称の女ができてもそれは単に自分のスペックでどこかのスペック好きを引っぱってきているのであって、なんていうか、物々交換みたいなものだった。

 こういう情愛に恵まれない男は「友情」にハマる。俺はそう予感した。そしてその三年後、予感は確信に変わった。日本で受託した仕事の結果、元請けが新聞沙汰になって自分たちの会社をあわてて畳むに至ったというのに、彼は俺をつゆほども疑っていない。書面上、人から非難されるような仕事の元締めは自分だけになっている、そのことにまったく気づいていない。この先に追徴課税を要求されるのが自分だけだと気づいていない。シンガポールのオフィスでする仕事なんか存在しないことに気づいていない。

 書類だけ見れば、俺は大学生の一時期ダークな同級生と連絡をとりあったことのあるクリーンな青年にすぎない。彼とのビジネスもアルバイト程度しかしていない。別のベンチャーを経営していたことになっている。シンガポールにも移住していない。観光旅行で来てすぐに帰る、そういう身分である。

 この世のしくみに愚直にしたがうのは奴隷のすることだ。しかしそれを破壊しようとするのは愚か者のすることだ。技術系の連中の言う「ハック」ということばが、俺は嫌いじゃなかった。素敵に滑稽だからだ。要するに「ちょっとした裏道を見つけてこずるくやろうぜ」ってことだろ? わかるよ、俺もそういうの好きだよ。

 そういうわけで俺は三月のうちに「観光旅行」を終えて日本に戻る。日本には尊敬すべき両親、かわいい妹、大切な恋人、そして多くの友人たちが俺の帰りを待っている。三月三十一日までの俺の肩書きは修士課程の大学院生、四月一日からは大企業の新入社員である。ただの新入社員ではない。俺の犠牲になった「相棒」が絡んでいない、隅から隅までクリーンな学生ベンチャーでの実績をひっさげた期待の新人だ。ただでさえ裕福な側の人間なのに、両親も恋人も知らない隠し財産をたっぷり抱え、そして二十四歳の若さ。

 なあ、こういう状態を「ハックした」というんだろ。俺は何も法をおかしていないし、誰のことも騙していない。泥をかぶってくれる「相棒」? ああ、あいつは勝手に勘違いしたんだよ。俺が騙したんじゃない。だって、証拠なんかひとつもないんだぜ。

僕らは世界をハックする 一人目

 自分の頭の良いのは知っていた。僕には兄がいて、両親は兄にも僕にも熱心に時間とカネをかけたけれど、僕のほうがはるかに勉強がよくできたし、習い事やスポーツのたぐいもそつなくこなし、人間関係上も強者だった。兄はべつに落伍者なのではない。平均よりはずっといい。僕があまりにすぐれているのだ。

 そんなわけで、僕は天性の才覚を前提として、じゅうぶんに資本を投下され、必要な時に必要なコストをかける(勉強するとか、見た目を整えるとか)手間暇も惜しまなかったので、現役で東京大学に入った。そうして、地頭、コミュニケーション能力、外見、生まれ育ちなどにおいても、自分が同級生の中で上位クラスに入ることを確認した。その年のうちに彼女を三人取り替え、学生サークル四つに顔を出してばかばかしくなってやめた。三年生になったころにはベンチャー企業を立ち上げていた。

 ベンチャー経営自体はたいしておもしろくなかった。せいぜい大企業に買ってもらえば大成功なのだ。しょぼい。しょぼいなあと僕が言うと、まあね、と相棒は言った。相棒は僕が知るかぎり僕と同じくらい頭の良いただひとりの同級生だった。僕が手加減なく口をきける唯一の相手。相手の知的レベルや知識の範囲に合わせてやるストレスがない、たったひとりの対等な友人。

 俺たちの会社は、と彼は言った。しょぼくないことをするための皮にすぎない。いいか、俺たちはこれから世界をハックする。

 僕らはまず、いわゆるバイラルメディアで一発あてた。まあまあの資金がころがりこんできた。世間がそれを非難しはじめたころ、僕らはすでにそこから手を引いていた。僕らはイメージが悪い事業の矢面に立つほど愚かではなかった。現代においてイメージ戦略はカネよりはるかに重要だ。僕らが世界をハックするとき、その行為の最終責任をとるのは別の人間でなければならない。そのためなら儲けを半分他人にくれてやってもよかった。

 次に僕らは独自の「SEO戦略」を大企業に売り込んだ。簡単にいうと、Google検索結果の上位に来ることだけをめざしたマニュアルをもとに安いライターに大量の作文を書かせてアクセスを稼ぐという手法だ。だいたいの人間は愚かで弱いから、たとえばガンかもしれないと思ったら「ガン」と検索する。そのときに上位に来るページがカネを生む。だったら検索結果上位に置かれるページを作ればいい。内容はどうでもいい。クリックさえされればいい。そんなものはGoogleアルゴリズムリバースエンジニアリングすれば大量生産できる。

 そのころ僕らはすでに大学を卒業し、大学院生の肩書きを得ていた。研究なんてしょぼい行為に興味はなかった。教員もほとんど全員がしょぼくてコネクション上もまったく意味がなかった。それでも大学院進学をしたのは「学生ベンチャー」を継続させるためだった。

 大企業は僕らの「SEO戦略」を買った。そしてそれは驚くほどの利益をもたらした。僕らは「SEO戦略」の洗練に夢中になった。たかが作文の条件を工夫してマニュアル化してそれを回すシステムを作るだけでカネがごろごろ入ってくる。大企業が実質たった二人の僕らの会社に慇懃に依頼してくる。木っ端ライターどもが僕らの作ったマニュアルを必死に守って最低賃金以下の報酬で無内容な記事を大量生産する。相棒は僕にささやいた。なあ、こんなに愉快なことがあるか。ないね、と僕はこたえた。

 やがて僕らはその仕事から手を引いた。体調不良を心配している人間に「先祖の霊のたたりです」と書かれたページを見せるようなしくみを世間が長く許しておくはずがないからだ。もう少しやればもっと儲かっただろうが、僕らは金銭欲や物欲などという低俗な欲求の奴隷ではない。僕らは世界をハックしたいのだ。そしてそれができるのだ。そういう人間が世間の非難を浴びる必要はない。

 非難を浴びたのはだから、僕らに仕事を委託した大企業だった。ふだんは見ないテレビをつけると、黒い服を着た大企業の役員連中がマスコミ各社のカメラのフラッシュを浴びて頭を下げていた。「見たか」とメッセージが入った。もちろん相棒からだ。いま見てた、と僕は返した。痛快だよね。

 相棒のメッセージは続いた。どうやらあの委託を請けたのは誰かという話にまでなっているみたいだ。そろそろ海外でやらないか。

 僕はますます愉快になった。それでこそ僕の相棒だ。僕らは早々に当該ベンチャーを畳み(僕らはそのころすでに複数の会社の名義を持っていた)完璧なタイミングで大学院を修了し、クリーンな「学生起業家」の顔を保ったまま、シンガポールに新しいオフィスをかまえた。

学歴ロンダリング成功したんですね

 あ、じゃあ学歴ロンダリング成功したんすね。

 誰かが私の背後でそう言った。その発言の直後、聞き覚えのある声がこたえた。は? ロンダリング? それって不正なカネの洗浄を指すことばですよね? わたしが不正な学歴を洗浄したとでも?

 振り返ると聞き覚えのある声の主は私の顔見知りの他部署の後輩なのだった。私の勤務先では昼休みの時間は比較的フレキシブルで、「だいたい十二時から二時くらいの間に一時間とってね」という感じなのだけれど、そのどまんなかの十三時に社員食堂に行くと、たいてい知っている人がいる。

 すげえ、と私は思った。「学歴ロンダリング」という物言いもなんだかすごいが、言い返した後輩のせりふはもっとすごい。よくもまあ咄嗟にそこまで言えるものである。口調もいい。「おまえはばかか」とゴシック体で書かれているみたいな完璧な軽蔑のトーンで、ほとんど平坦ながら声はきれいに通り、役者がせりふを読んだようだった。わたしは野次馬根性を全開にして振り返った姿勢のまま彼らを見ていた。後輩が言い返した相手はよくわからないことを言いながら食べかけの皿を持っていなくなった。

 マキノさん、と後輩が言った。すごくいい笑顔ですね。マキノさんってほんと他人のけんかが好きですよね。基本的に下世話なんですよね。こっち来ますか。

 私はその誘いに乗り、食事の盆を持って移動した。あの人、知り合いなの、と訊くと、いえ、よく知らないですけど、なぜかわたしの出身校を知ってたみたいで、話しかけてきたんで、こたえただけです。後輩はそのように言い、それから、かつ丼をむっしゃむっしゃ食べた。いい食べっぷりだねえと言うと箸を止め、若いんで、とこたえ、またかつ丼に戻った。

 はっきりものを言う女性だということは知っていたが、あれだけの言い返し能力があるとは思わなかった。私はそのことを褒めた。けんかは最初の一発が肝心なんだよ、さっきのは実によかった、ほんとうにすばらしい。ところで学歴ロンダリングってなんだい。

 後輩はたっぷり十秒かけてかつ丼の最後の一切れを飲みくだし、それから言った。マキノさんはものを知らないですね。そうなんだよと私はこたえた。後輩は背筋をぴんと伸ばして食堂の安っぽい茶碗を胸の前にかかげるように持ち、そのままの姿勢で説明をはじめた。

 あのね、わたし、北海道出身で、北海道大学に行って、そのあと京都大学修士を出たんです。さっきの人が学歴を聞いてきたから、そのとおりにこたえたんです。で、そういうのを一部の人は「学歴ロンダリング」って呼ぶんです。そういう俗語があるんです。わたし、就職してそのせりふ言われるの、今日で二回目なんで、言い返すシミュレーションが済んでたんですよ。初回のときなにも言えなくて、くやしかったんで。二度目はねえぞと思って。

 なるほどねえ、と私はこたえた。さっきの人は京都大学北海道大学よりえらいと思っているから、そういう失礼な言い方をするんだね。そうですと彼女はこたえる。入試用の偏差値でしか学校を見ることができないんです。つまり、あんまりものを考えていないんです。

 ねえ、マキノさん、わたしは思うんですけど、いい年して「偏差値が高い学校が偉い」と思いこんで、人の母校を「ロンダリングした」なんて言う連中はね、たぶん、ものを考えるのが好きじゃないですよ。もの考えてたらそういうせりふはぜったい出てこないですよ。彼らの内面って、ヤンキー的な反知性主義に近いとわたしは思うんですよ。いっけん逆ですけど、十五だか十八だかのときに入学試験の便宜のためだけにつけた数字をやたら広範囲に適用しようとする姿勢は一緒じゃないですか。

 なるほど、と私は言う。つまり、考えていないという意味で。

 そう、と彼女は言う。入学試験のための便宜的な数値を大人になっても延々と使い続けてるのはいっしょじゃないですか。その数値を低く算出されて対象を憎めば「勉強ができるからってなんだ」「大学なんかろくなもんじゃない」という反知性主義。その数値を高く算出されて、高く算出されたという事実をアイデンティティに組み込み続けないと自我が保たないのがさっきみたいな人。そういう人間が、人の出た学校を「ロンダリング」とか言う。

 彼女はお茶をのむ。そして宣言する。だいたいねえ、地元じゃ北大より偉い学校とか、存在しませんよ。北の大地に来たら、あいつ袋だたきにあいますよ。いもの袋に入れて道ばたに捨ててやる。

いつも死にたい一族

 知人のお祝いに出かけた。役職が上がると聞いているので、そのお祝いである。今年から娘さんが私立中学に上がったので、遅ればせながらそのお祝いもかねるということで、四年ぶりにご自宅にお邪魔する運びになった。

 冬の街をデコレーションするのは寒いからである。私はそう思う。クリスマスとかお正月とかのせいではない。寒くてやってられないからクリスマスとかお正月とかを言い訳にして飾りつけをするのだと思う。だって五月や十月ならきらきらさせなくても楽しいもの。世界がいつも五月と十月ならいいのにと言ったのは誰だっけ。

 小学校で受験する人は半分以上が親の受験みたいなものらしいですけど、と彼女は言った。高校だとほぼ本人の受験ですよね。お金だとか環境だとか、間接的なものは、親が整えるので、スタートラインの段階でハンディがある子はいっぱいいますけど、受けるのは本人です。中学受験は、その中間くらいでしょうかねえ。

 じゃあますます二人ともお祝いじゃないですかと私は言う。彼女たちは笑う。久しぶりに会った娘さんはもう私に飛びつかず、私の膝に乗ろうともしないのだった。当たり前だ、もう思春期である。他人の子はあっという間に大きくなる。

 私はリビングルームを見渡す。趣味のよいインテリアの、ちょっと広めの家である。場所はすこぶる評判のよい住宅地で、派手ではないがしっかりしたマンションだ。

 私にはわかる。彼女が当然のような顔をして仕事をし、責任ある立場に立ち、夫とよい関係を築き、子を育て、教育を受けさせ、こんなに優雅なリビングルームをつくっているのは、当然のことではない。

 日本の社会にはあちこちに罠がある。まじめにやっていても落ちるような罠がある。結婚したとき、子どもをもうけたとき、突然、よくわからない罠がふってきて、たとえば職場で「もうお母さんなんだから」と言われる。もうお母さんであることと仕事の内容には何の関係もないのに。「もうお父さんなんだから」とは誰も言わないのに。そんなのは結婚せず子を持っていない私にもわかりきったことだ。

 結婚してもしなくても、子を持っても持たなくても、罠はある。よほどのこと注意深く罠をかいくぐり、手持ちのカードをアクロバティックに使って、人の見ていないところで歯を食いしばって努力し、なおかつ賭けに勝ち続けなければ、キャリアと家庭とちょっとした裕福さのすべてが手に入ることはない。

 私は個人的な好みと思想上の問題で早々に「家庭」という選択肢を捨ててそれ以外にベットした。それでもけっこうたいへんだった。彼女は涼しい顔で「ぜんぶいただくわ」と言って、ほんとうにぜんぶ取った。ものすごいことである。裏でどれだけの冷や汗の流れる賭けに勝ってきたのか。

 ねえ、マキノさんは、いつも死にたい人だと思うんですけど、ちがいますか。彼女は不意にそのように言う。賭けに勝ってぜんぶを手に入れた人が、うつくしいリビングで、そのように言う。

 違わない。私はいつも死にたい。私は、好きなことをして生きて、ほしいものはだいたい手に入れていて、いろんな人にかまってもらって、とても幸せだけれど、そんなこととは関係なく、いつも、死にたい。

 知人はもう一度、口の端を上げる。彼女の家庭は円満、キャリアは充実、収入は夫婦ともに多めで、繁閑の差は大きいが仕事に生活が潰されることはない。いくつもの趣味を持っていて、大勢の人に好かれ、いつも自分に似合った服を着ていて、大病もしたことがない。

 築いてきた人生や今の幸福に関係なく、いつも、死にたいんですよね。私は言う。それが今回みたいな節目でばーっておもてに出てくるんですよね。わかります。私は、フィクションを書くときには「いつもさみしい」というようなあいまいな物言いをしているけれど、はっきり言って、さみしいなんていうのは、要するにオブラートで、ほんとうは、私たちは、いつも死にたいんですよ。

 それがわからない連中はたくさんいます、たとえ一緒に暮らしていても、わからない、愛情の問題じゃなくて、私たちの一族でないから、わからない。私たちが、ほんとはいつも、ずっと、死にたいってこと、わからない人には、ぜったいにわからないんです。だから一族同士でたまにごまかしあって、それで長生きするのが、いいと思いますよ。長生きしましょうよ。たまに悪い人間に行き会ったらアドレナリン出して潰す方向で行きましょうよ、静かにしすぎていると、わたしたち、うっかり死んじゃいますからね。

だからその上に薔薇を

 1992年11月26日、14歳の少女Aさんが実父Bさんを椅子で殴打した。Bさんは脳震盪により一時意識を失い、軽傷を負った。Bさんが倒れた直後、Aさんの実母CさんがAさんの後頭部を掴み顔を壁に複数回たたきつけた。Aさんは前歯8本を損傷、その他の軽傷を負った。Aさんは直後に110番通報、「実父からの性的加害を防止するために椅子で殴った」「実母は実父に逆らった自分に激高して自分の顔面その他を壁にたたきつけた」と供述した。AさんBさんの双方に殺人の意思はなかったとされている。

 「ありふれたニュースだよ」。のちの元少女Aさんは言った。「だから誰も覚えていないでしょう」。 

 わたしたちの平和な大学で、彼女はものすごく目立っていた。髪はまだらな坊主、前歯がなく、左頬に大きな傷があった。それから頻繁に顔や首に蕁麻疹を浮き立たせ、まぶたや手足をしょちゅう痙攣させていた。教員は全員その状態をきれいに無視ししていた。

 ねえ、先週のノート見せてよ。英語の授業のあとで、彼女はわたしにそう言った。わたしたちは英語のクラスが一緒だった。わたしが彼女を見ていたことを、彼女は知っていたのだと思う。

 わたしはノートを見せてあげた。ありがとう、と彼女は言った。そしてにっと笑った。前歯がなかった。彼女は机に肘をつき、その肘に顎を寄せて、ねえ、と言った。あなた、わたしの顔、好きなの。

 好きだよ、とわたしはこたえた。こたえてからびっくりした。びっくりして、それから、でも、悪意がなくて見てしまうのは好きということだから、合っている、と思った。好きだよ。でも歯は作ったほうがいいと思うよ。髪はきれいに剃ったほうが、もっといいんじゃないかな。

 彼女は笑って、歯は保護されていたときに一度作って貰ったんだ、と言った。ああ、わたしね、未成年で保護者がいないんで、福祉で暮らしてたのね。作って貰った歯、ぼろぼろ取れちゃうんだ、でも、わたし、もう勤労学生で、福祉、切れてるから、歯医者のお金、作らないといけなくてさあ。

 わたし、夕方から工場で働いてるの。生まれたとこの近所の町工場で。友だちのバングラディシュ人の職人が辞めるっていうから、二人で「ぜひ後釜に」って工場主にめちゃくちゃ売り込んで雇ってもらった。配線の仕事。わたしさあ、配線の才能、けっこうあるんだ、バングラデシュ人が保証してくれたもん。寮費も安いし、大学の学費免除も通ったし、だから歯はすぐ作るよ。

 髪はねえ、無意識に自分で抜いちゃうの。1ミリでも生えると抜いちゃう。そういう種類の神経の病気なの。いつも、半分くらい、髪、ないから、残ったとこ、剃ってるんだけど、下手で、まだらになっちゃう。

 わたしは大学入学と同時に一人暮らしをしていた。それで彼女を自分のアパートに連れて行って、髪をきれいに剃ってあげた。

 そのようにしてわたしは彼女と友だちになった。彼女は町工場で配線に関する奇怪な才覚を発揮し、大学三年生になるとウィッグをつけ善良な笑顔で就職活動をし、組み込み系エンジニアとして職を得た。そのころにはもう歯はすべてできあがっていたし、強力な化粧品を買う経済力も得ていた。だから彼女は単にウィッグをつけ頬に隠しきれない傷があってたまに手足が変な動きをするだけの新卒の女性になっていた。

 就職が決まったから記念にお金を使う、と彼女は言った。何をするのかと思っていたら、いつも髪を引き抜いてしまう頭部左半分にタトゥーを入れるのだと言った。できあがったところでウィッグを外して、彼女はそれをわたしに見せた。大きくてすばらしい薔薇のタトゥーだった。いいだろう、と彼女は言った。いいね、とわたしはこたえた。

 それから二十年が経った。彼女は何度か転職し、今では組み込み系エンジニアリング大手に所属して、年間の半分はアメリカで仕事をしている。「二十代半ばからだいたい頭全体に髪が生えてるけど、ときどき気晴らしにぜんぶ剃る」と言う。同僚に手の甲までタトゥーのある人物もいるので問題ないのだそうだ(結構な社風である)。

 わたしは今でも衝動的だ、と彼女は言う。わたしはまた誰かを椅子で殴るかもしれない。今度こそ殺すかもしれない。でもそれはわたしが「子どものころに虐待されたかわいそうな人だから」ではない。「虐待されたから人を殺した」というせりふは、それを聞いた被虐待児全員へのナイフだ。「おまえも殺すんだ」という脅迫のナイフだ。わたしはそんなのは、死んでもいやなんだ。わたしはだから、わたしのこの、わたしだけの脳みその上に、消えない薔薇を彫ったんだ。

大伯母の淑子さんの話

 大正生まれのわたしの祖母は、零落した「いいおうち」のお嬢さんで、たいそうな美人であった。目鼻の配置がよく、皺の入り方が上品で、いつも姿勢がよかった。それでわたしは老婆にも美人がいることを子どものころから知っていた。

 その祖母は、自分より姉のほうがもっと美しかったと言っていた。近所の写真学校の学生が拝み倒して撮ったという写真が一枚だけ残っていた。一人暮らしの祖母の部屋の本棚の隅に、その写真はあった。わたしはその話を聞くまで、昔の映画スターか何かだと思っていた。彼女は若くして亡くなったのだと祖母は言っていた。若いうちに、結婚もせずに亡くなって、だから子どももいなかったのだそうだ。

 一方、祖母は祖父と結婚した。祖父は「山師」だったという。あやしげな商売でひと財産つくり、いいところの(しかし世の変化でカネは尽きていた)お嬢さんとの見合いにこぎつけた、という寸法だったようだ。成金だったその男を、祖母は嫌いではなかったという。男ぶりも威勢も悪くなかったらしい。しかしその威勢は長く保たなかった。商売に失敗したのである。

 祖父は荒れて暴力を振るうようになり、祖母は三行半をたたきつけて家を出た。当時の女としてはやたらと判断が早い。祖父は高等教育を受けておらず、女学校出の祖母を迎えてたいそう喜んでいたらしい。それから十年もしないうちにふられたのだから、自業自得とはいえ、あわれな男である。気落ちしたのかそのあと長く生きなかったらしい。離婚後、祖母は他家の住み込みの家政婦として生計を立てた。他家の子どもたちに行儀を仕込み、家庭教師のようなこともした。

 祖母は意思が強く聡明だった。だからわたしは祖母を好きだった。しかしその娘である母のことはぜんぜん好きになれなかった。母はとにかく無難であること、「普通」であることを志向する人であった。「当たり前」「常識」とよく口にするが、実はそれは世間の多数派という意味でさえない。何が現代の多数派かなんて彼女は把握していなかった。それが証拠に母は判断ということをまったくしなかった。ルーティン以外のことはぜんぶ「お父さんに聞きましょう」と言った。父の下女みたいにへこへこして、親戚が集まる場では顔に卑屈な愛想笑いをはりつけ、全員から顎で使われていた。そしてわたしにも同じように振る舞うよう言い聞かせた。

 わたしはそんなのまっぴらごめんだった。わたしは母を愛さず、母もまたわたしを「わたしの子じゃないみたい」と嫌った。だからわたしは生家から通える範囲の大学に進学したのに早々に家を出て、自分の好きな男と住み、その男と別れてまた別の男と住み、就職し、子どもを産み、その間ずっと母とは没交渉だった。わたしはぜったいに母のようにはなりたくなかった。わたしの夫はだから、わたしの母に会ったことがない。

 わたしの娘が十歳になったとき、うっすらと連絡をとっていた従姉妹から、祖母がいよいよ危ないという知らせが入った。教わった病院に行くと祖母はすっかり縮んでいた。わたしは自分の娘、祖母の曾孫をベッドサイドに連れて行って見せた。すると祖母はことのほか喜んだ。ああ、ああ、よかった、よかったわねえ、淑子ちゃん。

 わたしは「淑子ちゃん」ではない。「淑子ちゃん」は祖母のアパートの写真立ての中の、映画女優みたいな顔した祖母の姉である。わたしとはぜんぜん似ていない。祖母は言う。よかったわねえ、お嫁に行けてほんとうによかったわ、淑子ちゃん。

 祖母はもうすっかり認知症が進んで、わたしのことを若くして亡くなった姉とまちがっていたのだった。自分の姉が結婚して子どもをさずかったと思って、それで喜んでいたのだった。祖母は自分の意思で離婚し、その後も頑として再婚せず、孫であるわたしにはさんざん(年のわりに)リベラルなことを言っていた。そんな人でも記憶が混濁したら「お姉ちゃんがお嫁に行けてよかった」と泣くんだな、と思った。わたしはさみしかった。

 やがて祖母は亡くなった。わたしはあの本棚の写真を取ってきて祖母の棺に入れた。すると年老いた親戚が言った。この人、淑子さんでしょ、ものすごい美人だったのに、なにしろ気が強くて、家出して、ろくでもない男をわたり歩いて、あげくに死んじゃったのよ、自分で。

 自分で、とわたしは繰り返した。自分で、と親戚はささやいた。あの頃は珍しい女子大学生で、大学で男つかまえて、身を持ち崩したんですってよ。親戚はそれから、わたしの顔をつくづく見て、似てないねえ、とつぶやいた。でも、声はもう生き写しみたいにそっくりだわよ、あんたと。