傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

いつも死にたい一族

 知人のお祝いに出かけた。役職が上がると聞いているので、そのお祝いである。今年から娘さんが私立中学に上がったので、遅ればせながらそのお祝いもかねるということで、四年ぶりにご自宅にお邪魔する運びになった。

 冬の街をデコレーションするのは寒いからである。私はそう思う。クリスマスとかお正月とかのせいではない。寒くてやってられないからクリスマスとかお正月とかを言い訳にして飾りつけをするのだと思う。だって五月や十月ならきらきらさせなくても楽しいもの。世界がいつも五月と十月ならいいのにと言ったのは誰だっけ。

 小学校で受験する人は半分以上が親の受験みたいなものらしいですけど、と彼女は言った。高校だとほぼ本人の受験ですよね。お金だとか環境だとか、間接的なものは、親が整えるので、スタートラインの段階でハンディがある子はいっぱいいますけど、受けるのは本人です。中学受験は、その中間くらいでしょうかねえ。

 じゃあますます二人ともお祝いじゃないですかと私は言う。彼女たちは笑う。久しぶりに会った娘さんはもう私に飛びつかず、私の膝に乗ろうともしないのだった。当たり前だ、もう思春期である。他人の子はあっという間に大きくなる。

 私はリビングルームを見渡す。趣味のよいインテリアの、ちょっと広めの家である。場所はすこぶる評判のよい住宅地で、派手ではないがしっかりしたマンションだ。

 私にはわかる。彼女が当然のような顔をして仕事をし、責任ある立場に立ち、夫とよい関係を築き、子を育て、教育を受けさせ、こんなに優雅なリビングルームをつくっているのは、当然のことではない。

 日本の社会にはあちこちに罠がある。まじめにやっていても落ちるような罠がある。結婚したとき、子どもをもうけたとき、突然、よくわからない罠がふってきて、たとえば職場で「もうお母さんなんだから」と言われる。もうお母さんであることと仕事の内容には何の関係もないのに。「もうお父さんなんだから」とは誰も言わないのに。そんなのは結婚せず子を持っていない私にもわかりきったことだ。

 結婚してもしなくても、子を持っても持たなくても、罠はある。よほどのこと注意深く罠をかいくぐり、手持ちのカードをアクロバティックに使って、人の見ていないところで歯を食いしばって努力し、なおかつ賭けに勝ち続けなければ、キャリアと家庭とちょっとした裕福さのすべてが手に入ることはない。

 私は個人的な好みと思想上の問題で早々に「家庭」という選択肢を捨ててそれ以外にベットした。それでもけっこうたいへんだった。彼女は涼しい顔で「ぜんぶいただくわ」と言って、ほんとうにぜんぶ取った。ものすごいことである。裏でどれだけの冷や汗の流れる賭けに勝ってきたのか。

 ねえ、マキノさんは、いつも死にたい人だと思うんですけど、ちがいますか。彼女は不意にそのように言う。賭けに勝ってぜんぶを手に入れた人が、うつくしいリビングで、そのように言う。

 違わない。私はいつも死にたい。私は、好きなことをして生きて、ほしいものはだいたい手に入れていて、いろんな人にかまってもらって、とても幸せだけれど、そんなこととは関係なく、いつも、死にたい。

 知人はもう一度、口の端を上げる。彼女の家庭は円満、キャリアは充実、収入は夫婦ともに多めで、繁閑の差は大きいが仕事に生活が潰されることはない。いくつもの趣味を持っていて、大勢の人に好かれ、いつも自分に似合った服を着ていて、大病もしたことがない。

 築いてきた人生や今の幸福に関係なく、いつも、死にたいんですよね。私は言う。それが今回みたいな節目でばーっておもてに出てくるんですよね。わかります。私は、フィクションを書くときには「いつもさみしい」というようなあいまいな物言いをしているけれど、はっきり言って、さみしいなんていうのは、要するにオブラートで、ほんとうは、私たちは、いつも死にたいんですよ。

 それがわからない連中はたくさんいます、たとえ一緒に暮らしていても、わからない、愛情の問題じゃなくて、私たちの一族でないから、わからない。私たちが、ほんとはいつも、ずっと、死にたいってこと、わからない人には、ぜったいにわからないんです。だから一族同士でたまにごまかしあって、それで長生きするのが、いいと思いますよ。長生きしましょうよ。たまに悪い人間に行き会ったらアドレナリン出して潰す方向で行きましょうよ、静かにしすぎていると、わたしたち、うっかり死んじゃいますからね。