傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

被差別売ります

 もてるよねえと女たちは言う。可愛いものねえと私も言う。そんなことないですよおと彼女はこたえる。その回答はありふれているのにとても愛らしく、ちょうどいいタイミングで、ちょうどいい視線とともに発せられる。私は感心して、それから、言う。ねえ、もう会社辞めるんだし、いま利害関係のある人は残っていないでしょう。もてる秘訣でも教えて頂戴よ。なにしろ今日は女子送別会。あなたが女性ばかりで行きたいと言ったときにはちょっとびっくりしたけど、まあ、わかるよ、あなたはもてるから、退職ともなると男どもがいつにもましてうるさくて、そしてあなたがうるさくしてほしい人はうちの会社にはもういないってことだよね。

 彼女はうふふと笑う。ワイン、もう一本、ボトルで取っちゃおうか、と私はけしかける。いいですよ、私は先輩だから、リストのこのあたりまでならご馳走できますよ。彼女は絶妙なタイミングで顔の前に手をあげてそれを動かし、否定とも肯定ともつかないしぐさをした。じゃあ次のワインはこれでー。まったく退職の予定のない別の後輩がリストを指さして宣言し、私たちはみんなで笑う。

 そこまでがたぶん一連の芝居なのだ、と私は思う。芝居というほど意図に満ちてはいないのだろうけれども、あうんの呼吸でそれぞれの役割を果たす、彼女たちのおなじみのやりとり。場をつかむことに長けて、指示することなく誰かに何かを言わせて、そうしてなんとなくいい気分にさせる。彼女は、そういう人だ。だからもてるのだと、私は思っていた。いくら私がぼんやりした人間だからといって容姿や仕草が愛らしいだけで飛び抜けて異性の人気を獲得するなんて思っていない。人間は、中身だ。正確には、他者に提供する「この人間の中身である性格や感情」を示す表現だ。外見なんて試験でいえば脚切りにすぎない。好意を持つ人間の量を稼ぐには、圧倒的な造形美はむしろ不利にさえなる。適度に整い、適度に時流を押さえ、路線が自分と大幅に異なるものではない。そのような条件をおおむね満たしている相手なら、なにしろ「中身」が重要なのだ。

 マキノさん、わたしがそれを解説できる程度には作為をもってやってるってわかってるからそう言うんでしょ。彼女はそう指摘し、さっきよりすこしだけふてぶてしい仕草でグラスをかたむける。そうだよと私はこたえる。あなたが比較的親しい女ばかりの場をリクエストしたんだから、たまにはモテ服を脱いで話しても楽しいんじゃないかしら、という提案ですよ。彼女はやはりいつもよりすこしだけ力強い笑いを笑って、それから、マキノさん、後悔しますよ、と言った。瞳孔が一瞬にして鏡のようにきらめき、同じくらいすばやく、暗い穴になった。

 好きっていろいろあるんですけど、たとえばマキノさんは、純情可憐な十二歳みたいなところがあるから、尊敬できる人とか、好きでしょう。そうして自分にも敬意をもってほしいなんて思ってるでしょう。あのね、それ、いちばんもてないんですよ。

 多くの男たちが女に求めるもっとも大きなものはね、差別して、それを許されることです。気持ちよく当然のように、ときにお膳立てして円滑に、差別させてくれてくれる女。あ、マキノさん、そんな人は少数だって言いたいんだ。それならどうしてわたしがこんなにもてるのかって話です。あのね、わたしはずっと、いかにやさしく自然に自分を見下させるか、いかに自分を格下と感じさせるか、狙った相手にいかにして「こいつは差別してもいい」と思わせるか、その戦術ばかりを練ってきたの。だからばかみたいにもてるんです。

 ねえ、マキノさん、尊敬しあって愛しあう人なんか、いやしませんよ。どこかにはいるんでしょうけど、すっごく少ない。だからマキノさんはもてなくて、わたしはもてるの。

 みんな差別したいんです。差別できる相手を内心必死で探している。わたしはそれを供給してあげてるんです。差別はいけませんねという建前が行き渡ったこの世の中で他人に指さされない程度にマイルドな、でも満足感の高い差別対象を。人権意識の網の目が取りこぼす愛の巣の中でなら、もっともっと満足できることが増えます。そうしてもいいのよというサインを上手に出してやる。わたしが持っているのはそのための技術と、そんな気持ちいい相手をなくすのが怖いから暴力を振るったりはしないでおこうという危機感を持たせる技術です。「女のくせに」と言いたくてたまらない連中に「あなたの割り当ての『女』はこれですよ」というふうに差し出してやるんです。そうすれば、マキノさんも明日から、ばかみたいにもてますよ。わたしが保証します。

信じてなかった。愛してた。

 信じてたのに。隣の部署で働いている社員が悲痛な顔をし、ため息をつく。その発言により、会社の飲み会の一角が「妻に裏切られた彼をなぐさめる会」としてセッティングされてしまい、私はどうやって離脱しようかと思案する。

 妻は家事をするもの。育休中ならなおのこと。子育て中だからといって自分をないがしろにするなんて裏切りだ。それを諭してやったら実家に帰った。電話にも出やしないで、親が出てきて離婚しろと言う。

 彼が悲痛な顔でつむぐストーリーはそのようなもので、なんの予備知識もなければ彼はその場にいた誰かに叱られていたと思う。いくらなんでも妻に多くを求めすぎだからだ(「床に靴下が落ちている、信じられない」という発言から、彼が家庭にあってはそこいらに衣服を脱ぎ、奥さんがそれを拾って歩いていたことがあきらかになった)。けれどもその場に居合わせた人々はたがいに顔を見あわせ、そうか、うん、そうか、とあいまいに言いながら、どうにかしてその場を離脱しようともくろんでいた。

 なぜなら彼の妻は彼と交際しはじめたことから、徐々に彼をそのような人物に育てあげてきたからだ。つきあいはじめたころ、彼は料理をつくってもらうたびに恐縮していた。せめて洗い物は僕がするんだけどね、などと言っていた。やがて彼女は皿も洗うようになり、何くれとなく彼の世話を焼き、そうして彼は、それに安住した。彼女の意図は私にはわからない。彼はたったの数年で完全にスポイルされた。そうして毎日もらっていた甘い飴を突然取り上げられるかのように、彼女をうしなったのだ。

 信じてたのに。信じてたのに。彼はそう繰り返し、私はその場をそっと抜け出す。いつも斜め向かいの席で仕事をしている同僚も一緒に抜けてきて、そうして、言う。あいつの奥さんは、あいつのこと愛してたからあんなに甘やかしたんだと思うんだよ。他に動機、ないじゃん。あいつも奥さんのこと愛してたわけだよね、まちがった愛ではあるけど、奥さんがまちがいを誘導したみたいな気もするし、なんかもう、俺は、愛とか、わかんねえよ。

 そうだねえと私はこたえる。自分と他人の区別があいまいになって、もう好きとか嫌いとかですらなくて、相手が痛ければ自分も痛いし、お互いの感覚や考えは一致するものだと思いこんでいる、そういう心もちを、私だって知らないのではない。それは子どもの心だ。かぼそい腕で誰かに全力でしがみついている、小さい子の心。それは愛ではない、とまでは、私には言えない。正しい愛だとは言わない。彼に、あるいは彼ら夫妻に何があったのかも知らない。ただ、そのような愛があってはいけないとは、私には言えない。湯水のように甘やかされなければ治らない種類の傷だってある。人間はいつも時系列に成長するのではない。内側に子どもの部分を持ったまま大きくなる。そうして子どもの部分に穴があいている人もいる。大人になってから子どものように愛されて、それで生き延びる人だっているのだ。彼がそうじゃなかったとは断定できない。単なる甘えた男かもしれないけど。

 しかし「信じていたのに」という彼のせりふだけは確実に不当だと私は思う。甘やかされてそれを当然だと思って同じような日々が続くと考えるのは期待だ。期待は信頼と顔だちだけ似ているけれど、もっとも遠く離れた感情だ。彼は妻を信頼していたのではない。妻に期待していたのだ。ずっとずっと甘やかしてくれるものだと。

 つまりさ、大人は期待だけじゃだめなんだよ。大人が大人を愛するには期待じゃなくて信頼がなくちゃいけないんだよ、彼の「信じていた」というせりふとはぜんぜんちがうやつが。私がそのように話すと、マキノにとって、信頼するって、どういうこと、と同僚は尋ねる。

 誰をどんなふうに好きになっても、どんな関係であっても、相手はまったき他者なんだから、中身をぜんぶ把握することなんかできないよね。私たちは他者を、ほんとうには理解することができない。まして自分にとっていいように動いてくれる人なんかいない。信頼しているっていうのは、そのことをよくわかっていて、それでも相手が自分にとってよいものだと思っていることだよ。相手にしがみいていなくって、手を離していて、でも視線はこまめに向けていて、変化する他者としての相手を、きちんと見ていることだよ。相手の変化を無視せず、自分の思考を停止せず、他者の意味のわからなさ、自分にとっての都合の悪さも受け入れて、それでも「あの人は私の特別な人だ、あの人は私にとってすてきな人だ」と思っていることだよ。

頭のなかの寄生虫

 おめでたー?ね、そうでしょ、おなかちょっと大きくなってきたわね?はじめは辛いわよねー。気をつけなきゃいけないことも多いし!
 テーブルをはさんで対面している取引先から裏返った声が浴びせられて私はとっさに当たり障りのない表情をつくる。いいえ、と言おうとして彼女の視線が私から逸れていることに気づく。取引先の女性は私の隣の同僚をまっすぐに見ていた。同僚はほほえみ、取引先がまくしたてるせりふの息継ぎを狙ったように、いえ、と言った。妊娠していません。声がかぶせられる。わたしそういうのわかっちゃうんです、よく不思議がられるんですけど、見ればわかるっていうか、みんながわからないのがわからないって感じで。
 取引先の担当は今の今まで、仕事について少々の無茶を言うことはあっても、それほどおかしな人物ではなかった。仕事中、唐突に、ひゅっと化け物があらわれたように感じられた。ゲームの画面でお化けが出てくるみたいに。その人は自分の出産体験を語りながら、妊娠初期の注意事項について述べつづけた。同僚は端的なせりふを繰りかえし差し挟んだ。わたしは妊娠していません。おなかが大きく見えるとしたらただの肥満です。わたしは妊娠していません。ただの肥満です。
 こんなにも何度も同じことを言わせる人間を私ははじめて見た。取引先の女性はとても陽気に、楽しそうに見えた。上機嫌に見えた。親切な人みたいに見えた。それが私には怖かった。表情、口調、姿勢、目つき、そのひとつひとつに、異常がなかった。私は怖かった。おかしいことを言う人にはどこかがおかしくあってほしかった。
 同僚は私より年かさだ。私にはいつもどおりに見えたけれども、目立っておなかが大きくなったとしても、即「おめでた」と連想するような年齢ではない。そもそも本人が言わなければ友人だって話題にすることではない。ああ、それに、百歩譲ってそれがありうるとして、五回も六回も否定されて元気にはね返しつづけ、笑顔で話しつづけるなんて、何があったら、そんなふるまいができるんだ?
 私は知っている。同僚が結婚して二十年近くになることを知っている。夫婦とも長いあいだ子どもを望んでいたことを知っている。そうして子どもがいないことを知っている。同僚は表情を変えない。儀礼的なほほえみのまま、言いつづける。わたしは妊娠していません。ただの肥満です。
 ごめんね、と同僚が言った。私が口を挟もうとしたのを目で制し、相手が飽きるまで発言させてから、仕事を済ませて帰る途中だった。
 ごめんね、マキノさん。あなたは、あの人のことがまったく理解できなくて、誰かに抗議されるべきだと思ったのでしょう。わたしたちの少なくともどちらかが相手に抗議すべきだと思っているのでしょう。わたしが何か辛辣なことを言って、相手をやりこめるところが見たかったのでしょう。でもね、わたしも自分がかわいいの。仕事上のつきあいで相手のほうが立場が強ければ、確実に勝てて損をしない喧嘩しかしないの。がっかりした?ごめんね。
 私は泣きそうになった。そのとおりだったからだ。同僚ははっきりとものを言う明晰な人で、私はかねがね尊敬していた。少々の損になるとわかっていても戦うほうの人だと勝手に思っていた。でもいつもそんなふうにふるまうわけじゃないのだ。私は言った。ごめんなさい。たしかにそう思ってました。私は悔しかった。それに怖かったんです。あの人のこと。
 怖がる必要はないよ、と同僚は言った。特定の話題でだけスイッチが入ったみたいにおかしくなっちゃう人って、いるから。そしてその底には悪意や怒りが隠されていたりする。あれね、たぶん、ほんとうに自覚がないの。ほんとうにわたしが妊婦だと思っていると、自分では思っているの。そうして親切に妊婦の心得について教えてくれようとしていたの。だからあんなにいい人みたいな顔をしていたの。
 悪意がないんじゃない。おそらく、抑圧されて、本人にも把握されていない悪意がある。だってあのようす、どう考えてもおかしいでしょう。わたし、ああいうの、見覚えがある。ふたを閉じて見ないふりをしている感情があって、その操り人形になっているの。ふたがあまりに重いから、本人に指摘してもわからない。おかしな行動が重なって生活や仕事に支障が出てようやく何かに気づく。感情って、隠すとろくなことにならないよ、どんなに醜くても自分で責任をとって面倒見なくちゃいけないよ、見なかったふりばかりしていると悪意は、脳に巣くった寄生虫みたいに人を操るんだよ。

あなたに話しかける資格

 これは、仕事ですか。

 いい質問ですね。僕は仕事ではないと思っています。あなたは?

 わたしはわかりませんでした。言わずもがなでなんとなくお酒の席にいるのもいやでした。だから訊きました。

 当然の質問です、「このあと時間ありますか」って訊いたの、僕なんだから。先に言わなくてごめんなさい。

 そうでしたっけ?

 そうでしたよ。僕が言い出したんじゃなければ都合が悪い。なぜなら業務上、僕はあなたの発注する仕事が欲しいので、つまり、あなたの側に権力があるからです。権力がある側が誘ったら仕事になりやすい。そして僕は今のこの場が仕事でないほうがいい。あなたのグラスの中身をみて「次、何がいいですか」とか訊くのも接待になっちゃったら最悪だ。次、何がいいですか。

 あのですね、それもこれもが、わたしに対する、もってまわった接待だという可能性もあるじゃないですか。接待はしばしば接待と明言されません。好意のように示されるのです。もちろん「好意らしきもの」だってありがたくいただこうと思ってますけど。

 何を言い出すんですか。仕事にかこつけて色気を出してくる連中なんかまとめて捨ててください。

 もちろんたいていの場合は捨てています。わたしだって相手は選んでいます。誰の好意または好意らしき接待でもにこにこ笑って受け取ってるわけじゃありません。安心してください。あなたは特別です。

 とても安心しました。それでは、仕事ではない話をしましょう。

 いいですよ。どんなのがいいかしら。そうねえ、「ご趣味は?」

 それ、見合いという制度を知っていて、なおかつそのステレオタイプを認識していて、そのうえで自分の下心を自覚して恥じている人間にしか、通じないジョークですよ。

 じゃあ、笑ったら、だめじゃないですか。

 笑いました。ご覧になったでしょう。さあ、これで相互の意思の確認は終わりました。

 ええ、終わりました。しっかりした確認なので感心しました。ねえ、ちょっと下心を持った女と飲む時に、いつもこんな手順を踏むんですか。

 質問への回答のまえに言っておきますが、僕はしょっちゅう、そういう意味で女性を誘っているのではありません。信じようが信じまいが勝手ですが。嘘です、信じてほしいですが。えっと、質問に答えます。いつもこういう手順を踏みます。相手に合わせて言い回しは変えるけど、確認する内容は同じ。「あなたに個人としての関心を持って近づいてもいいですか」と訊きます。当たり前ですよ、そんなこと。

 当たり前じゃないんです。わたしは当たり前だと思ってますけど、そうじゃない人のほうが多いんです。なんとなくなだれこんでなんとなく親しくなろうとするんです。仕事中にいきなり境界をあいまいにしようとするんです。わたしはそれがものすごくいやなんです。あのね、「好意のようなものを示してもいいか」という了解すら取らないんですよ、たいていの男どもは。仕事中にいきなり色気だしてきやがるんですよ。

 わかります。世の中には無礼な人間がいっぱいいいる。僕も少しはそういう目に遭ったことがあります。僕は思うんだけど、「個人としてあなたと親しくなろうとしてもいいですか」という確認もろくにできない人間は、形式化されていない関係を築こうとする資格なんかないんだ。色気のある関係に限ったことじゃないです。友だちだってそうです。個人が個人に近づくときには、個別具体的な場面を読み取りながら自分の欲望と感情を言語化しなければならないんです。そしてそれは最初だけじゃない。関係がつづく限り必要なことなんです。その能力がないボンクラはおとなしく社会的役割だけ果たしてろ。蟻みたく。

 ねえ、ほんとうに、ねえ。仕事中に突然色気だしやがって、わたしがそれをありがたがるとでも思ってるのか。ばーかばーか。

 ばかと言ってやる価値もない。燃やせ。ああ、ライターがないんですね。セクハラ野郎がいても仕事とか利害関係とか考えて右から左に流しちゃうんだ。だめですよライターくらい持ち歩いてないと。僕ちょっとそこのコンビニで買ってきてあげますね。でもほんとうは火炎放射器くらい持ってなきゃだめですよ。それで、たとえば僕のことだって、腹が立ったら燃やせばいいんですよ。ばーって。そうじゃないと僕も踏み込みにくいから。傷つける力は相互に持っていないと。

 ずいぶん自信家なんですね。わたしだってあなたにガソリンをぶっかけることくらい、できるかもしれないのに。

 さあ、どうでしょう。できるんですか。そして、やるんですか。

 どうでしょうね。もう一杯、飲みませんか?

邪悪

 子の保護者と思われる女性が子の髪をつかみ強く揺さぶった。あんたは、あんたは、と女性は叫んだ。比較的すいた、平日昼間の電車のなかでのことだった。車内には私をふくめ、仕事中の移動と思われる格好をした大人、学生らしき若者、老夫婦などがいた。全員が一斉に、女性と子を見た。女性は子の前に立っていた。子の隣の席に座っていた私には、髪の抜ける音が聞こえた。その音に被せるように女性は叫んだ。親に向かって、親に向かって、親に向かって。
 子への暴力が見受けられ、保護者の精神の不安定さが推察され、しかも駅員を呼ぶ時間はない。したがって赤の他人である私が介入することはやむを得ない。そう判断して母子の間に割って入ろうと立ち上がると、私の足に、足が当たった。子の髪をつかんでいる女性の足ではない。子の足だ。私は子を見た。女の子だ。十歳か、十一歳くらい。きれいな身なりをしてスマートフォンを持っている。冷静な顔でうっすらと笑っている。髪を掴まれ怒鳴られているというのに。
 子は私を蹴ろうとしたのではなかった。私の脚には一度しか当たらなかった。その女の子は、母親の脛の同じ場所ばかりを、繰り返し蹴っていた。私はぞっとした。この女の子は、慣れているのだ。髪を掴まれ引き倒させることに慣れているのだ。自分に暴力を振るう母親は自分の目の前に立つから、だから、脚なら蹴ることができる。そして、母親は、自分が反撃さえできないほどの圧倒的な暴力を振るうことは、ない。この女の子はおそらく、そのことを知っているのだ。そうしていちばん痛いところを狙ってためらいなく蹴っているのだ。興奮も怖れも憎しみさえも感じさせない、「いつものルーティン」みたいな顔で。
 大人と子どもが双方暴力を振るっている場合、止めるべきは大人だ。私はむりやり間に入ったために妙に距離が近いところにある母親の顔を見て、話しかけた。失礼いたします、ご事情はわかりませんが、そのようななさりようは、
 私の台詞の終わりを待たず、女性は私を睨んだ。そして存外冷静な声で言った。この子がわたしを蹴ったんです、親のわたしを蹴ったんです。この子が先にやったんです。そうですね、と私は言った。蹴られて、痛かったですよね。人を蹴るのはいけないことですね。しかしやり返すというのは、
 私のせりふはほとんど聞いてもらえなかった。女性は私への関心を失ったかのように完全に無視し、ボクサーのようにからだの位置をずらして子にふたたび向かい、髪を掴んで揺さぶり、言いつのった。あんたって子は、あんたって子は、電車の中で、やめろって言うのに、スマホなんかいじって、足ぶらぶらさせて、何も言うこと聞かないで、親に向かって、親を馬鹿にして、いつも馬鹿にして。謝りなさい。謝りなさい。
 女の子が言った。お母さんが言うことはいつもおかしい。ぜんぜん理屈が通ってない。乗り換えをスマホで調べることの何がいけないの。電車の席で座って足を動かすことの何がおかしいの。お母さんはおかしい。お母さんは理屈が通じないんだから蹴るしかないじゃん。
 その母親の一瞬の動きに、私は出遅れた。よりひどい暴力が想像され、おそらく私は、それに怯えたのだ。私が停止しているあいだに、学生らしい若者が親子の間に入った。無言だった。親子は動きを止めた。そのおかげでか、何も起きずに済んだ。
 気がつくと向かいの席に座っていた老夫婦が立ち上がっていた。目をそらさずこちらをじっと見ていた。母親はそれにたじろぎ、子から手を離した。老夫婦の隣のスーツ姿の男性が私を見て一度うなずき、移動した。単にかかわりたくなかったのかもしれない。けれども私は、車掌に知らせようとしてくれたのではないかと思った。
 私はその数分の出来事で、たぶんひどく弱っていた。私はおそらく、同じ車両に乗り合わせたすべての人が母子の間の暴力を問題視し、各自の善意をもって対応していると思いたがっていた。目の前の暴力と悪感情の表出は異常事態であって、誰もがそれを止めようとしてくれる。ここはそういう世界だ、暴力が当たり前の世界なんかじゃないんだ。そう思いたがっていた。おそらく。
 ドアが開いた。母親はしばらく身じろぎせず、ドアが閉じる直前に唐突に子の手を引いて降りた。子は平気な顔をしてついていった。とくに抵抗も、反抗もしなかった。追って降りようとした私の目の前で扉が閉じた。閉じたのだからよほどの音声でなければ聞こえないはずだ。それでも、絶叫が聞こえた。親に向かって、親に向かって。謝りなさい。謝りなさい。謝れ、今すぐ謝れ。

琥珀を削る仕事

 学生時代にときどき、出版前の原稿に赤ペンを入れるアルバイトをしていた。最初は誤字脱字の修正を頼まれて、そのうち用語の統一や読みやすさに関する提案も入れるようになった。自分の専門に近い(いかにも売れなさそうな)書籍について、誤字脱字の修正をし、あるいは助詞や時制の訂正提案をおこない、文章のうつくしいところにコメントを入れてそれを損なう要素を削る。それをなんと呼ぶのか私は知らない。校正というのはもっと厳密で隙のないものだろう。読みやすさのためのコメントなんかしないだろう。専門用語の統一なんかは校閲といってもいいのかもしれないけれども、その適切さを担保する資格は私にはなかった。だって、ただの大学生だ。

 あなたは安いから、と、そのアルバイトを回してくれる会社の人が言っていた。あなたはね、日本語がなかなかおできになる、そうして学生さんだから安くて便利です。ありがとう。お金を払いましょう。

 私はうれしかった。私が安くて、便利であることが。だって、私の仕事が発注者にとって安いのは、私にととって苦ではないことがお金になって、同じ時間で他の人よりたくさんできるということだから。

 学生時代の私は、始終いろんなアルバイトをして、手を伸ばせば天井に届くトタン屋根の納屋に住み、野菜が高騰したら川の上流に出かけて野草を摘み、そうしてとても、贅沢な若者だった。生きて学ぶお金だけが欲しかったのではなかった。服とか買うのだし、それでもってちゃらちゃらと着飾ってデートをするのだし、年に一度は古着を駆使した完全なフォーマルでクラシックのコンサートに行くのだった。ちょっと元気がなくなると、鏡を見て、綺麗だね、と自分に言ってあげた。綺麗だね、可愛いね、とても素敵だね。もちろん、特別に綺麗でも素敵でもなかった。そんなことは知っていた。知っていて言うのだ。

 友だちや恋人や、そのほかさまざまに親しくしたい人との時間にも、不自由は感じなかった。コンビニエンスストアで缶ビールを調達して大学の隅で乾杯するのもいい。河原でワインボトルをあけるのもいい。たまには張り込んで大人たちのいるお店に行くのもいい。誰かの家でもいい。私の住んでいた納屋でさえ、親しい人たちは誰も悪く言わなかった。私が網戸の穴を縫って塞いだのに気づいて指でなぞり、いいね、と言ってくれた人もいた。縫い目がちゃんと四角形をしている、と。私はうれしかった。

 あのさあ、恥ずかしくないの。そう訊かれたことがあった。私の経済状況や生活ぶりを恥ずかしいと定義する人のいることを、二十一の私だって、いくらなんでも知らないのではなかった。知っていて、けれども、理解する気がなかった。そんな質問で傷がつくプライドが、もしも自分にあるとしたら、今すぐドブに捨ててやる。そう思った。

 珍しいですね。

 恥ずかしくないのかと訊かれた話をすると、仕事をくれる会社の人はつぶやいた。マキノさんは要らない部分を一瞬で削るから安くて早くて上手いのに。あのね、削りなさい、そんな質問をする人間に関する記憶は。

 私、もしかして、必要なものも、削っていやしませんか。たとえば、健常なプライドとか。そのように尋ねると彼は鼻で笑った。彼がどういう人かはほとんど知らなかった。文章の仕事をくれる会社の「嘱託の年寄り」と名乗っていた。カタカナ語の発音がカタカナではなしに綺麗な英単語であって、おそろしく痩せた、指の長い人だった。

 ええ。マキノさんはときどき、必要な部分まで削っていますよ。そんなのはわたしが、あなたの赤ペンの跡を消せば済むので、問題はない。彼はそう言い、そうですか、と私はこたえた。

 彼が納品のときにいつも出してくれるコーヒーは美味しくなかった。コーヒーという体裁だけを整えたような代物だった。私は贅沢な若者であったから、まともなコーヒーがどんなものか知っていた。私のアルバイト発注者はそのコーヒーもどきの入った、古くて大きい、どこかの遺跡から出土したのじゃないかと私がいつも思う、こまかい罅模様の入ったみどりいろのカップを持ち上げて、言った。

 削りどころをちょっとでも間違ったら大損するような、ダイヤモンドみたいな人生なんか、目指すものじゃありませんよ。マキノさんはね、その中に含まれる傷や不純物がうつくしく見えるような、趣味よく削られた琥珀みたいな、そういう成果を出してくれたから、わたしたちの会社は、安いなりにあなたにお金を払ったんだ。できればこれからもそのような仕事をしてください。あなたがもうすぐ学生でなくなって、文章の仕事をしなくなったあとでも。

大人になれば世界は

 目を閉じて、ひらいて、そうして同じものが見えることを、いつも不思議に思っていた。世界がなくなっていない。それはとてもおかしなことであるように思われた。私にとって世界は、またたきのあいだに反転していてもおかしくはないような、あやういものだった。目の前の世界はあまりにあやうく、本に書かれたお話は紙の中に区切られているから安全に感じられた。それだから私は世界から隠れるように、暗いところで字ばかり読んでいた。

 高校生にもなるとしかたなく「世界は明日も同じようにある」と仮定して行動するようになった。そういう素振りをしないと不快なことや不便なことが多すぎるからだ。私は一晩寝て起きたあとにも物理法則が変化しないと確信しているふりをした。私は自分のことばが人に通じていると思い込んでいるふりをした。それらはあくまで芝居だった。いくら芝居をしてもほんとうにはならない。芝居が上手くなるだけだ。

 将来なりたいものなんかなかった。将来なんてものがあることが理解できなかった。どうしてみんなそんなものがあると頭から信じられるのだろうと思った。例によって芝居をして進路というやつを決めたけれども、入学式が始まっても自分が大学生になると思えなかった。自分が連続した主体として存在していること自体に納得していないのだから、他者や組織から、たとえば「大学生」と名付けられるなんて、ブラックホールの中に関する想定と同じくらいに不確かなことだった。実は今までも高校生じゃなかったんですよと言われたら「そうか」と思ったことだろう。

 大人になれば世界は確固とするのだと思っていた。私はきっと精神が幼くて、だからいろんなことに確信を持てないのだと思っていた。大人になれば私は、帰宅して扉をひらいたら奈落に落ちる可能性について考えたりしなくなるのだと思っていた。十九の私にとって、それは突飛な空想なんかじゃなかった。扉をひらいたら玄関があるのと同じくらい「起こりうること」だった。明日になれば東京のあちらこちらの中空に丸い穴があいて、そこに人がどんどん吸いこまれていくかもしれない。五秒後になれば新しい法律によって死刑を宣告されるかもしれない。振りかえれば私とそっくりな人がいて、「この私」はまったく違う存在になっているのかもしれない。

 それらは空想ではなかった。懸念だった。交通事故と同じレベルの想定だった。どうしてみんなにとっては(たぶん)そうじゃないのか、実は少しもわからなかった。世界は私が受け止めきれない多様な残忍と美に満ちていて、そのいずれもが私を怯えさせた。残忍なことだけでなく、美しいことだって、私はとても、怖かった。何もかもが脅威であり驚異だった。だからいつも、とても疲れていた。

 それから二十年を経て、私はようよう理解した。大人になっても世界は変わらない。私は腕時計の螺旋を巻きながら、時間軸が反転して時計の針が巻き戻り誰との約束も果たすことができなくなることを考える。待ち合わせのレストランはきっともう潰れてないのだと思う。食事の相手が中座すれば、彼はそのまま砂漠に向かって旅に出て永遠に戻らないのだろうと考える。それは起こりうることだ。今でも。

 大人になっても世界は確固となんかしなかった。ただ私が、その脅威と驚異を、受け止められるようになっただけだ。私は(不確かなままの)他者に助けられ、(不確かなままの)自分を鍛えた。今にして思えば若いころのエネルギーの総量はいかにも少なすぎた。あれではこの世界の中で立っていられるはずもないのだ。

 そう、私の世界は相変わらず不確かだ。脅威と驚異はむしろ増した。だって長く生きていれば災害も起きるし人も死ぬ。たとえば東京のある家のなかに丸い穴があいて、そこに吸い込まれて、死ぬ。その人がスマートフォンを使って私と通話したすぐあとに、それは起きたのだ。警察はそれに縊死という名前をつけていた。世界はたとえばそのように不確かで、この先もきっとそうなのだろう。

 ここにいます、と目の前の人が言う。はい、と私はこたえる。古くから私を知る人は私にとっての世界の不確かさを把握しているから、ときどき目の前にいながらにして「ここにいます」と言う。

 目の前からいなくなったあと、スマートフォンに、また会いましょう、とメッセージが届く。「また」なんて、この不確かな世界のなかでももっとも不確かなことばのひとつだ。けれども私はもう「また」なんか怖くない。私は世界の脅威と驚異の中を二本の足で歩くことができる大人になったのだ。だから、私は返信を書く。またね。またね。また会いましょう。