傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

大人になれば世界は

 目を閉じて、ひらいて、そうして同じものが見えることを、いつも不思議に思っていた。世界がなくなっていない。それはとてもおかしなことであるように思われた。私にとって世界は、またたきのあいだに反転していてもおかしくはないような、あやういものだった。目の前の世界はあまりにあやうく、本に書かれたお話は紙の中に区切られているから安全に感じられた。それだから私は世界から隠れるように、暗いところで字ばかり読んでいた。

 高校生にもなるとしかたなく「世界は明日も同じようにある」と仮定して行動するようになった。そういう素振りをしないと不快なことや不便なことが多すぎるからだ。私は一晩寝て起きたあとにも物理法則が変化しないと確信しているふりをした。私は自分のことばが人に通じていると思い込んでいるふりをした。それらはあくまで芝居だった。いくら芝居をしてもほんとうにはならない。芝居が上手くなるだけだ。

 将来なりたいものなんかなかった。将来なんてものがあることが理解できなかった。どうしてみんなそんなものがあると頭から信じられるのだろうと思った。例によって芝居をして進路というやつを決めたけれども、入学式が始まっても自分が大学生になると思えなかった。自分が連続した主体として存在していること自体に納得していないのだから、他者や組織から、たとえば「大学生」と名付けられるなんて、ブラックホールの中に関する想定と同じくらいに不確かなことだった。実は今までも高校生じゃなかったんですよと言われたら「そうか」と思ったことだろう。

 大人になれば世界は確固とするのだと思っていた。私はきっと精神が幼くて、だからいろんなことに確信を持てないのだと思っていた。大人になれば私は、帰宅して扉をひらいたら奈落に落ちる可能性について考えたりしなくなるのだと思っていた。十九の私にとって、それは突飛な空想なんかじゃなかった。扉をひらいたら玄関があるのと同じくらい「起こりうること」だった。明日になれば東京のあちらこちらの中空に丸い穴があいて、そこに人がどんどん吸いこまれていくかもしれない。五秒後になれば新しい法律によって死刑を宣告されるかもしれない。振りかえれば私とそっくりな人がいて、「この私」はまったく違う存在になっているのかもしれない。

 それらは空想ではなかった。懸念だった。交通事故と同じレベルの想定だった。どうしてみんなにとっては(たぶん)そうじゃないのか、実は少しもわからなかった。世界は私が受け止めきれない多様な残忍と美に満ちていて、そのいずれもが私を怯えさせた。残忍なことだけでなく、美しいことだって、私はとても、怖かった。何もかもが脅威であり驚異だった。だからいつも、とても疲れていた。

 それから二十年を経て、私はようよう理解した。大人になっても世界は変わらない。私は腕時計の螺旋を巻きながら、時間軸が反転して時計の針が巻き戻り誰との約束も果たすことができなくなることを考える。待ち合わせのレストランはきっともう潰れてないのだと思う。食事の相手が中座すれば、彼はそのまま砂漠に向かって旅に出て永遠に戻らないのだろうと考える。それは起こりうることだ。今でも。

 大人になっても世界は確固となんかしなかった。ただ私が、その脅威と驚異を、受け止められるようになっただけだ。私は(不確かなままの)他者に助けられ、(不確かなままの)自分を鍛えた。今にして思えば若いころのエネルギーの総量はいかにも少なすぎた。あれではこの世界の中で立っていられるはずもないのだ。

 そう、私の世界は相変わらず不確かだ。脅威と驚異はむしろ増した。だって長く生きていれば災害も起きるし人も死ぬ。たとえば東京のある家のなかに丸い穴があいて、そこに吸い込まれて、死ぬ。その人がスマートフォンを使って私と通話したすぐあとに、それは起きたのだ。警察はそれに縊死という名前をつけていた。世界はたとえばそのように不確かで、この先もきっとそうなのだろう。

 ここにいます、と目の前の人が言う。はい、と私はこたえる。古くから私を知る人は私にとっての世界の不確かさを把握しているから、ときどき目の前にいながらにして「ここにいます」と言う。

 目の前からいなくなったあと、スマートフォンに、また会いましょう、とメッセージが届く。「また」なんて、この不確かな世界のなかでももっとも不確かなことばのひとつだ。けれども私はもう「また」なんか怖くない。私は世界の脅威と驚異の中を二本の足で歩くことができる大人になったのだ。だから、私は返信を書く。またね。またね。また会いましょう。