傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたに話しかける資格

 これは、仕事ですか。

 いい質問ですね。僕は仕事ではないと思っています。あなたは?

 わたしはわかりませんでした。言わずもがなでなんとなくお酒の席にいるのもいやでした。だから訊きました。

 当然の質問です、「このあと時間ありますか」って訊いたの、僕なんだから。先に言わなくてごめんなさい。

 そうでしたっけ?

 そうでしたよ。僕が言い出したんじゃなければ都合が悪い。なぜなら業務上、僕はあなたの発注する仕事が欲しいので、つまり、あなたの側に権力があるからです。権力がある側が誘ったら仕事になりやすい。そして僕は今のこの場が仕事でないほうがいい。あなたのグラスの中身をみて「次、何がいいですか」とか訊くのも接待になっちゃったら最悪だ。次、何がいいですか。

 あのですね、それもこれもが、わたしに対する、もってまわった接待だという可能性もあるじゃないですか。接待はしばしば接待と明言されません。好意のように示されるのです。もちろん「好意らしきもの」だってありがたくいただこうと思ってますけど。

 何を言い出すんですか。仕事にかこつけて色気を出してくる連中なんかまとめて捨ててください。

 もちろんたいていの場合は捨てています。わたしだって相手は選んでいます。誰の好意または好意らしき接待でもにこにこ笑って受け取ってるわけじゃありません。安心してください。あなたは特別です。

 とても安心しました。それでは、仕事ではない話をしましょう。

 いいですよ。どんなのがいいかしら。そうねえ、「ご趣味は?」

 それ、見合いという制度を知っていて、なおかつそのステレオタイプを認識していて、そのうえで自分の下心を自覚して恥じている人間にしか、通じないジョークですよ。

 じゃあ、笑ったら、だめじゃないですか。

 笑いました。ご覧になったでしょう。さあ、これで相互の意思の確認は終わりました。

 ええ、終わりました。しっかりした確認なので感心しました。ねえ、ちょっと下心を持った女と飲む時に、いつもこんな手順を踏むんですか。

 質問への回答のまえに言っておきますが、僕はしょっちゅう、そういう意味で女性を誘っているのではありません。信じようが信じまいが勝手ですが。嘘です、信じてほしいですが。えっと、質問に答えます。いつもこういう手順を踏みます。相手に合わせて言い回しは変えるけど、確認する内容は同じ。「あなたに個人としての関心を持って近づいてもいいですか」と訊きます。当たり前ですよ、そんなこと。

 当たり前じゃないんです。わたしは当たり前だと思ってますけど、そうじゃない人のほうが多いんです。なんとなくなだれこんでなんとなく親しくなろうとするんです。仕事中にいきなり境界をあいまいにしようとするんです。わたしはそれがものすごくいやなんです。あのね、「好意のようなものを示してもいいか」という了解すら取らないんですよ、たいていの男どもは。仕事中にいきなり色気だしてきやがるんですよ。

 わかります。世の中には無礼な人間がいっぱいいいる。僕も少しはそういう目に遭ったことがあります。僕は思うんだけど、「個人としてあなたと親しくなろうとしてもいいですか」という確認もろくにできない人間は、形式化されていない関係を築こうとする資格なんかないんだ。色気のある関係に限ったことじゃないです。友だちだってそうです。個人が個人に近づくときには、個別具体的な場面を読み取りながら自分の欲望と感情を言語化しなければならないんです。そしてそれは最初だけじゃない。関係がつづく限り必要なことなんです。その能力がないボンクラはおとなしく社会的役割だけ果たしてろ。蟻みたく。

 ねえ、ほんとうに、ねえ。仕事中に突然色気だしやがって、わたしがそれをありがたがるとでも思ってるのか。ばーかばーか。

 ばかと言ってやる価値もない。燃やせ。ああ、ライターがないんですね。セクハラ野郎がいても仕事とか利害関係とか考えて右から左に流しちゃうんだ。だめですよライターくらい持ち歩いてないと。僕ちょっとそこのコンビニで買ってきてあげますね。でもほんとうは火炎放射器くらい持ってなきゃだめですよ。それで、たとえば僕のことだって、腹が立ったら燃やせばいいんですよ。ばーって。そうじゃないと僕も踏み込みにくいから。傷つける力は相互に持っていないと。

 ずいぶん自信家なんですね。わたしだってあなたにガソリンをぶっかけることくらい、できるかもしれないのに。

 さあ、どうでしょう。できるんですか。そして、やるんですか。

 どうでしょうね。もう一杯、飲みませんか?