傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

何者かにならない

 古い友人が試験勉強をはじめた。友人は不動産を扱う会社に勤めていて、不動産鑑定士というのを取るのだそうである。記憶力が落ちていて困る、年は取りたくないものだ、などとと言う。彼女の高校時代のあだ名は「人間手帳」である。やたらと記憶力がいいのだ。手帳の大きさが半分になったって試験には通るんじゃないかと思う。

 資格をとったら、お給料があがるの。私が尋ねると、たぶんねと彼女は言う。あとは社内転職がしやすくなる。うちの会社は希望を出さないと異動はないし、不採算部署はすみやかに取りつぶされるから、資格のひとつも持っていたほうが有利ではある。そういうのも動機ではあるんだけど、えっと、なんていうか、いい年になったし、業界をまたぐ転職はしなさそうだし、そろそろ何者かになっておこうと思って。

 何者か。私が言うと、何者か、と彼女はこたえる。「会社員です」でもまあいいんだけど、ちょっとぼんやりしすぎている。お免状があると格好がつく。だから取ろうかなって。職業人としての自分を飾ろうかなって。真珠のネックレスを買うような動機だよ、本質的には。

 私はそれを聞いてびっくりした。いろいろな人が「何者か」になりたいというのは知っている。ただ、その内実がどうもよくわからない。「何者かになる」というのは何か希少な、相対的に数の少ない肩書きを得ることのようだけれど、希少って楽しいのだろうか。たしかに「ナイフ投げ師」とか「冷水塔守」とか聞けば、すごい、と思う。何とすばらしいお仕事でしょう、と思う。でもなりたいかといえばそんなになりたくはない。ナイフを投げたくはない。もう少しレア度の低い、たとえばミュージシャンにもなりたくない。歌があんまりうまくないし、知らない人がいっぱい自分を見に来るのもいやだから。医者とかも絶対なりたくない。こんなに薄ぼんやりした人間が病気の人を診たら殺してしまう。そして薄ぼんやりしない人間になりたいかと言われたら、なりたくない。薄ぼんやりものを考えるのが何より楽しいのだ。

 私は「何者か」になりたいと思ったことがない。生きて屋根の下に住んで食事をして布団で眠る者になれたらそれでよかった。苦痛が少なければなおよかった。そのうえやりがいや喜びなどあった日にはもうハッピーハッピーパッピイナ、ミュージカルみたいにくるくる踊る。

 私がそのように話すと友人は笑う。サヤカは雑だなあと言う。私はいささかの不満を感じる。この友人の考えは、つまり「この先、不動産業界から離れることはなさそうだ、そしたら不動産鑑定士を取れば何者かっぽくて気分がよさそうだ、よし取ろう」ということだ。それだって雑ではないか。そもそも国家資格というのはそういう動機で取るものなのか。私がそう言うと友人はじゃあ賭けようと言う。他の資格持ちもたいして立派な動機で取ってないよ、お金のためと、あとは、レアでいいじゃん、くらいの動機で取ってるとわたしは思うよ。私たちは各々のスマートフォンを操作し、何らかの肩書きを持っている知人たちに連絡した。むつかしい試験に通ったり、資格を取ったりしたのはなぜ?取ったときには何者かになった気がした?

 私は賭けに負けた。もちろんたいていは生活費を稼ぐ手段として肩書きを得たと答えたけれど、それに加えて「なんとなく素敵だと思って」「外聞がいいから」「何者かになった気はした。いい気分だ」という回答がばんばん返ってきたのだ。なかには「カネにはならないけど、かっこいいと思って博士号を取った。かっこいい気分になった」と書いて寄越した者もいた(専門分野の能力は高いのかもしれないが、言うことが小学生みたいである)。友人はげらげら笑ってそれみたことかと言った。みんな簡単なんだよ。レアならいいんだよ、レアなら。ポケモンと一緒だよ。

 友人は言う。あんたが肩書きなしで平気なのはあんたがわけもなく自分を超レアだと信じているからだよね。「何をどう考えても自分は伝説のポケモンだ。疑いの余地はない」と思ってるところあるよね。「そんなの当たり前だ」と思ってるでしょう。誰もそんなこと言ってないのに、「誰かに言われる必要ってあるの?」くらい思ってる。「なんでそんな必要あるの?」とか思ってる。わたしはそういうの、いいと思うよ、社会性が足りないなあとも思うけど、社会性がありすぎるよりは、健全、健全。

 私は尋ねる。社会性がありすぎるって、この場合、どういうこと。友人はこたえる。ポケモンがたかがポケモンじゃなくなっている人ですよ。そんなのいっぱいいる。