傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私の頭が悪いので

 自分がどこにいるかわからなくなる。正確には、自分がどこにいるか認識することなく歩いていた時間の結果として、現在地を把握できなくなる。私は歩く。私はスマートフォンを取り出す。それはいつでも現在地を示してくれる。自宅から近所といえるほどの距離の、いつもは使わない細い道にいた。

 私はすぐに茫漠とする。みんなが一度や二度通っただけの道を覚えて歩くのを見ると何度でもおどろく。自分の状態を自覚して長い時間が経ったけれども、それでもいちいちびっくりする。いつも頭の中に現在地があるなんて。あまつさえ「方向感覚」があるだなんて。Google Mapみたいだ。私はそれを手に入れるまで、迷わずに歩くということがほとんどできなかった。比較的よく行く場所でも、一年や二年では、土地を覚えるということがない。特定のルートだけ、特定の目印でもっていっしょうけんめいに覚え、メモをし、それでも歩いているうちに茫漠として、そうして迷うのである。

 私が迷うのは画像の記憶が極端にできないことにも起因していると思う。みんな頭の中に写真があるみたいですごいなと思う。私の頭の中にピントの合った写真はない。ぼやけた印象みたいなものがあるだけだ。目が見えないのではない。視力は健常の範囲内だし、色やかたちの認識もできる。しかし、その画像を覚えていられない。人の顔などは特徴を言語化して覚え、声や話しかたを覚え、それでもって何年か定期的に会うと、ようやく顔かたちだけで判別できるようになる。そのうえ忘れやすい。昔の知り合いの顔はまったく覚えていない。その人についてのできごとは覚えているのだけれども。

 要するに、特定の領域の知能、認知能力が極端に低いのだ。不便ではあるけれども、まあどうにかやっている。私の知能に問題があることは教育機関でも指摘されていたし、自分でもみんなのできることができないことはよくわかっていたから、二十歳くらいにはその特徴を把握していた。道理で数学の図形の問題が解けなかったはずだと思った。工作や裁縫もだめだった。空間認識能力が並外れて低い人間には難問なのだ。そのように納得すると気が楽になった。そうして状況に適応できたりできなかったりしながら、自分に合った仕事に就いて、わりと楽しく暮らしている。

 そんなだから、「頭が悪い」という物言いがどうもよくわからない。他人はときどきその言葉を使う。たとえば、自分の頭が悪いと言う。知能の問題があるのなら、特徴を把握して訓練してリカバリの方法を考えるのがよいと私は思うのだけれども、というより、ほかの対処が思いつかないのだけれども、彼らはそうではないようだ。それはおおむね嘆きで、もっと言えば卑しいものとしてのレッテル貼りであるように、私には聞こえる。

 彼らの言う「頭の悪さ」は、知的能力が標準であるとか健常であるとか、あるいはその人の想定する「普通」から逸脱していることを指すのだろう。ならば、どのあたりがどのように「悪い」のかが重要だ。私なら空間認識能力、それに記憶力の一部と現実感覚の一部が「悪い」。それ以外の知能には、目立つほどの特徴がない。当たり前だけれど、頭が悪いといったって、頭のぜんぶが悪いのではない。一部が悪いのである。何かしらの基準によって頭のぜんぶが「悪い」人がいたって、そのなかの能力の凹凸があるはずである。十把一絡げにできるようなものではないし、平均を取るようなものでもない。それなのに、「頭が悪い」と誰かが言うとき、それは総体的で本質的な、そして致命的な問題としてとらえられている。私にはそこのところがどうもわからない。頭が悪いのかもしれない。

 そうして頭が悪いというのは、悪いばかりのことではない。私は道に迷う。私は自宅の近所にあってさえ、外国にいるような寄る辺なさを味わうことができる。冬の日の晴れた空は何度見ても抜けるように青い。冬がくるたび、抜けるように、ということばを何度でもあてはめ、何度でもため息をつく。夕暮れに沈む建築群はひとつひとつ違う顔をして、細部を見ているとそれこそ日が暮れてしまう。あちらから歩いてくる人はなんとすてきな格好をしているのだろう。すれちがいざまに見える布地の質感のなんとなめらかなことだろう。夜の川面に映る都市の灯りのゆらめきは魔法そのもので、その上を飛ぶかもめたちは不思議このうえない造形をしている。

 私の世界の美しいことを、私はみんなに教えてあげたいと思う。そうしてそれが私の頭の「悪い」せいだということを。