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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

働いているだけで背後から石を投げられる話

 だからさあ槙野さんみたいな人は俺の嫁さんみたいな人に感謝してほしいわけよ。突然の大声に視線を向けるとすこし離れた席に私の嫌いな同僚がいて私の嫌いな笑いを笑っていた。この人と話をすると不愉快になると入社当初から思っていた。幸いなことにふだんの仕事で直接やりとりすることはごく少なく、あっても事務的なやりとりだけですむ。
 私は情熱的に人を憎むことがあるが、それは戦うべき何らかの理由があるとき、あるいは嫉妬などがあるときだ。彼はその対象ではなく、ただいると不愉快なのでいないほうがいいと、そう感じている相手だった。そういう相手とは同じフロアに勤めていてもなぜだかあんまりすれ違わない気がする。そう言ったら昔、そりゃあ脳みそがよぶんなものを認識しなくていいようになにか処理しているんだ、と言われたことがある。私の脳にはそんなに便利な機能がついているのかなあと思った覚えがある。そんなだから今日も、その人がそんなに近くに座っていたとは知らなかった。
 名前は出たものの、私に話しかけてきているという体裁も取られていなかったし、だいいち声が聞こえるだけで話しかけるにはいささか遠い位置にいる。私に話しかけたいならちょっと移動すればいいだけのことだった。みんな好き勝手に移動している、大きな宴会だ。だから話しかけられたと思う必要はない、と判断した。私はそのまま視線を元に戻し、かたまりになって話している人々との会話に戻った。チームで動くことがある仲間で、だから今日も近くに座ってあれやこれや話しているのだけれども、そのなかの誰かが、でさあ槙野さん、と、前からあったのでもない話題をよく通る声で告げた。この人はほんとうにえらいなと思った。会話するには不自然な位置で大きい声で私の名前を発声した人間になんらかの悪意がある、あるいは単に私がその人と話したくないことを察して、助けてくれたのだ。私はそちらを向き会話のつづきをしている顔でふんふんとうなずいた。半ば背後になったところから、大きく不快な声が、私にではなく、別の人に話しかけるようすで延々と続いた。
 仕事の数って限られてるわけ。競争なわけ。俺もおまえも入社試験とおって来てるわけ。な?女の子が採用される時に可愛くて若かったらそれが影響しないわけないじゃん現実に。条件おなじだったら若くて可愛い子になりやすいし、若ければ誰でもけっこう可愛く見えるし、でもそれは言わないでおくわけ、大人として。な?男も見た目いいやつのほうが採用されやすいし。そこはまあ大人の態度ってやつ。
 でさあ女の子は仕事辞めたり時短できる職種に変えるだろ結婚すると。できない人はあれだけど。子どもいたら子ども優先が多数派、数として多いでしょ、これはただの事実ね、統計だよね、統計的事実として女の子は仕事辞めて子育てするケースが多いわけ統計的事実として。そういう人がいるから仕事もらえる人もいるわけ。なんでかっていうと、全体の仕事の椅子の数は変わらないだろ、年くっても好き勝手やって一人前の顔してるのは辞めて子育てしてる人のおかげだったりするわけだよ。会社もダンジョビョードーだからちゃんと扱う。ね?いやあ、いい世の中だよね。
 だからさあ、残って当然っていう顔してるのはなんかこう、感謝が足りなくね?入社の時「若い女の子」っていう上げ底のない状態で、全員残るの前提でガチ競争で採用したら、そもそも入れなかった奴が出てくるだろ。入れたって今よりポジション低いだろ。理屈としてそうだろ。全員辞めなかったら負ける奴が増えるだろ。採用数も部署ごとの人数も管理職の人数もぜんぶ限られてて、給料もなにもちがってて、奪い合いなんだからさ。だから俺の嫁さんみたいに子どもできて会社辞めて家を守ってるってパターンにもっと感謝してほしいんだよね残る人は。おかげでいい目みてんだから。
 私は首を傾けた。ごりっと音がした。私の仲間たちが次々と話題をつくって私に話しかけてきてくれた。私は笑顔でそれにこたえた。私たちは誰も、演説をぶった彼の相手をしなかった。個人的に、理屈として、事実として、統計的に、という断片が、背後でまだ続いていた。いつのまにか私はすっかり仲間たちのほうだけを向いて、椅子をほとんど横に使っているのだった。しばらくして宴がはけて、なんとなく集団で駅に向かって歩いていると、宴席で私の隣に座っていた親しい後輩が小走りで寄ってきてやわらかな髪とスカートの裾をふわりと振って私の顔を覗きこみ、かわいい声でささやいた。ねえ先輩、ああいうのだけ選別して焼き払う炎を誰か偉い人が発明してくれないかなあ。