傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

正しい愛

 抜栓する夫の手つきを彼女は好きだった。だからほほえんでそれを見ていた。彼は彼女のグラスとそれから自分のグラスの前でボトルを傾けた。ありがとうと彼女は言った。夫は上機嫌で彼女も同じくらい機嫌がよかった。それは久しぶりに彼らの双方が翌日に仕事を抱えていない夜で、彼らは順繰りに仕事の話をし、相互に感想を述べた。彼らはふたりとも、思考にいささか攻撃的なところがあり、ひどく明瞭な発音の早口で、相手の頭の回転の速さを好んでいるところがあった。
 ほんとの夫婦の会話ってたぶんこういうんじゃないんだろうなと彼女は、頭の裏でぼんやりと思う。ほんとうの夫婦。正しい夫婦。そんなものは存在しないと知っているけれど、同時に彼女の頭の中にはいつだってその片割れがいる。正しい妻。都度の言動がほんとうはどうなされるべきだったかを、だから彼女はひとつひとつ知っている。
 正解は、と彼女は思う。正解はワインを開けさせないこと。弱いお酒を少しだけのんで、すこやかに眠ること。あしたの朝はきちんとした時間に起きて、夫を起こし、たっぷりの朝食をつくって出すこと。プールに行きましょうよと言うこと。泳いで帰ってきたら少し昼寝をすること。日常の些事を穏やかに話題にすること。彼女はそれがなされないことを知っている。彼らは飲みすぎるだろうし、明日、少なくとも彼女は、持ち帰った仕事に二時間は使ってしまうだろう。
 頭の中の正しい妻がせっつくのがうるさくて彼女は、グラスをすっかりあけてしまう。夫は楽しそうに笑って、いい飲みっぷりだなあと言う。ふたたびグラスが満たされる。どちらからともなくなにかのついでのように軽くたがいに触れてすぐに離れ、向かいあわせの椅子に戻る。テーブルには夜中まで開いているデリカテッセンで買ったものがいくつか並んでいる。日常の些事。その語を内心で繰りかえして彼女は笑う。彼らのそれは交代でやっつける掃除と全自動洗濯乾燥機のスイッチを押すことくらいのものだ(週に一度業者が入り、彼らのぞんざいな作業をおぎなっている)。
 彼らは「日常」に関して、ひどく貧しい生活を送っていた。そういう種類の贅沢品は夜中まで営業する店では売っていなかった。ただ多くの日に同じ場所で寝る、それだけの時間しか彼らには残されていなかった。彼も彼女も誰かのために自分の仕事を削る気なんて1グラムもなかった。夜にだけ同じ巣穴に戻る二頭の動物のように彼らは暮らしていて、ときどき相手が帰ってこなくても、そんなに深く考えなかった。健康診断、行った、と夫は訊ね、行ったと彼女はこたえる。えらいえらいと夫は言って彼女の頭をなでる。僕も行かなくてはねえ。行けるのかなと彼女は思う。思って、でも黙っている。
 正しい妻が頭の中でわめきちらす。ぜったいに行かせなきゃだめ。どこか悪くなって当たり前の生活してるんだから。どうしてお酒を止めないの。どうして平気で一緒に飲んでるの。どうして何もつくってやらないの。一緒に何かするのでもいい、お皿を洗うとか。いま何時だと思ってるの。彼の目の下の隈が見えないの。こんなこと、いつまで続くと思ってるの。
 いつまでもじゃない、と彼女は声を出さずにこたえる。目の前の夫は最近読んだ専門書の話をしている。こんなことがいつまでも続くはずがない。この人は遠からずからだを壊してしまうだろう。私が正しい家庭を築く正しい妻じゃないから、それは助長されるんだろう。正しい妻が泣き崩れる。あなたは彼がだいじじゃないの、死んじゃってもいいの。正しい妻は正しく彼を愛していて、彼の健康と彼の長期的な幸福のためならなんだってするのだ。仕事を休んで子どもを産んだりもするのだ。彼女とちがって。
 私はまちがっていると彼女は思う。私は彼が具合を悪くするのを、ほんとうは少しだけ待っている。とてもとても恐れて、でもどこかでわずかに待ち望んでいる。倒れたら彼はずっとベッドにいるだろう。決してすれちがわない、決して待つことがない、待たせることだってない、だってそこにいるしかないんだから、待ってるわけじゃない。好きなだけ仕事をして、帰ったらいつも、この人がいて、そんなふうなら、どんなにか私は満ち足りて幸福になることだろう。
 そう思ってしまうから、私、正しい妻になる女が彼をさらっていってくれないかって考えることがあるの。久しぶりに顔を合わせた彼女はそのように話し、昔話の王子さまのように、と私はこたえる。彼女はほほえむ。私は忠告する。彼は無力な姫君ではないから、誰かにさらっていかれたくらいで、ワーカホリックを治したりしないよ。だからその空想は無効だよ。

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