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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ずっと失敗していたい

 落ちちゃった、と彼は言う。だいじょうぶ、と彼女は言う。彼女の体温がほんの少し上昇する。彼の職場の昇任試験が何度受験可能なのか彼女は知らない。彼も言わない。そんなことはどうでもいいとさえ、彼女は思っている。彼女はただ彼に、そのままでいてこの世にはなんの問題もないと、そう教えてやる。小さいころからもう二十年ばかり、断続的にそうしている。
 七つの彼を見て彼女は、かわいそう、と思った。彼の兄は彼の二倍の年齢なのに小学生にしか見えない華奢な少年で、そのくせ子どもたちより大人たちのほうに、すっかりなじんでいるのだった。彼はその背後でうつむいていた。彼の兄の内面は早熟でそれを格納するからだは脆弱で、その兄にばかり兄弟の母親の視線が注がれていることが、彼女にはくっきりと看て取れた。なにもかも年相応で目立たない彼を、誰も見てはいなかった。彼女は彼を見た。彼も彼女を見た。かわいそう、と彼女は思った。遊びましょ、と彼女は言った。彼はうなずいた。法事で忙しい大人たちは、いとこ同士の小さいふたりが隅でひっそり遊んでいるのを、これ幸いと放っておいた。
 彼女はひとりっこで、彼はそのひとつ下の学年で、だから弟のようなものだと、周囲にはそう説明しているけれども、ほんとうは半年しか差がないので、弟なんかじゃないと、ずいぶん早くから彼女は思っていた。あの子は弟じゃない。弟だったら一緒に住んでて、いやなこともするだろうし、そしたら、けんかだってするだろう。私たちはそうじゃない、と彼女は思う。彼女はただ、いいの、と言う。気にしなくていいの、そのまんまで、だいじょうぶ。すると彼はほほえむ。彼女もほほえむ。
 彼は失敗する。彼女は肯定する。彼は成功する。彼女は肯定する。もちろん。けれども彼はいつのまにか、その種の話はほとんど、なにかのついでに伝達するだけになっていた。成功して肯定されるのなんか当たり前だからだ、と彼女は思った。それはほかの人にもできる、ほかの人には私よりもっと上手にできることなんだ。
 彼との通話を切り、彼女は唐突にそのことに気づく。私はあのいとこが失敗するのを待っている。かわいそうにと言えるのを待っている。七つのときから私は、彼をそのようなものとして扱っている。かわいそうなものはいい、と彼女は思う。かわいそうなものは私のてのひらにおさまり、好きなだけ撫でまわしてかまわない。自分の子がいたら決してしない、恋人にほどこせばいずれ相手をだめにしてしまう、無責任だからこそやわらかく甘やかな、偽物の庇護。ほんとうは自分を必要としていない者と薄氷めいた暗黙の合意の上でする遊び、あるいは他者の内面を残忍に消費する行為としてだけ、それは可能になる。そこまでを彼女は理解してしまって、けれども自分にとっての彼がそのどちらであるかの判定を、どうしても下すことができない。

 もうけっこんすればいいじゃん。私がそう言うと彼女はいかにも軽蔑した目で私をながめまわし、サヤカさんはなにひとつわかってない、と宣言する。私はそうされたことがなんだかうれしくてだらしなく笑い、そのあと、ほんとうのことを言う。彼はずっと失敗していたいんだから、あなたがたは年をとって死ぬまで、そのままでいたらいいんだよ。
 成長ってけっこうつらい、と私は話す。私はなにもかもめんどくさいよ、大人でなんかいたくないよ、誰かが自分をよしよしして、なんにも変わらなくていいって、そう言ってくれないかなと思うよ。けれども変わらなくては生きていかれないし、成長は苦痛とは別に快楽ももたらすから、私たちは成長する、彼もきっとそうしている、そのような彼をあなたは、赤ちゃんみたいに甘やかして、彼はそれを維持するために、あなたにあげる失敗をいつも探している。いいじゃないか、二人だけで一緒にいて、どこまでもやさしくして、幸せに暮らしたらいいよ。彼女は私をにらみ、それは私の悪意への正当な反応なので、私はもう一度、だらしなく笑う。
 彼女と彼を妬んでいることを、私は自覚している。かわいそうだね、だからやさしくしてあげましょう、野放図にただ甘やかしてあげましょう。そうした感情を、人に向けてはいけないと思う。いけないと禁じるのは、私が、それを、してしまうからだ。だって、とってもいい気持ちになる。それなのに私は、そのための相手を持っていなくって、だから彼女に嫉妬する。ずっと失敗していていいと、やさしく成長を免責してもらったら、とってもいい気持ちになる。それなのに私は、それをしてくれる相手を持っていなくって、だから彼に嫉妬している。