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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

世界の理不尽と暴力に関するいくらかの情報

 夫が留守にするから泊まりにいらっしゃいという、浮気相手を呼ぶみたいなせりふを受けて、私はその一軒家を訪ねる。彼女は私の友人のなかで二番目に年上で、仕事の都合で知りあって数年になる。なお、いちばん年上の友人は彼女の夫で、今日は「検査入院だよ、なんてったって七十歳だぜ」と言いのこして病院に向かった。私より七つ上なんだから、七十二歳よ、と彼女は修正した。そうそう猫はだいじょうぶかしら、去年拾ったのよと彼女は言い、好きですと私はこたえる。
 彼女はうきうきと缶ビールを取りだす。そんなに年の離れた人と何を話すのと、誰かに訊かれたことがあるけれども、そんなのいくらでもある。私たちはおばさんの初心者(私)とおばあさんの初心者(彼女)であって、だからともに体調や他人からの扱いの変化にさらされながら今後の生活設計について検討している最中であり、小説を読み、美術展に行き、たとえば死だとか愛だとか偏見だとか世界の終わりだとかそんなようなことを考えていれば退屈しないたちで、おしゃべりが好きだ。友だちでいることになんの支障もない。
 彼女と私がアロマオイルと伊藤若冲と麻のシーツとコーヒーの淹れかたについて話しおえたころ、白地にわずかな三毛の模様のある猫が私のそばに来て、私の振りまわすプラスティック製の猫じゃらしに飛びつくようになった。私の仕事の悩みを話し、彼女がかつて美容院の経営で得た利益を不動産投資に回して盛大に損をした話を聞いていると、茶色の縞猫も私のにおいをふんふんとかいで、しかたなさそうに撫でさせてくれた。尾が長く顔だちの美しい雄猫で、脚は三本だった。この家に来て間もないころ事故にあって切断したのだと、簡潔に彼女は説明した。
 お風呂を借りて髪を乾かし、彼女の化粧水をつけ(私たちは刺激の少ない化粧品をいつも探していて、たがいの基礎化粧品に興味を持っていた)居間に戻ると、彼女の腕のなかの縞猫が私を見とがめてシャーッと鳴いた。むきだしの牙と逆立てた縞模様の毛を見て私は、きれいだなと思った。まじりけなしの全力の敵意。あらあらごめんなさいねと彼女は笑い、さあもう寝ましょうねえと猫に呼びかけて、階下の、彼女と夫の言う「猫部屋」に運んでいった。
 はなちゃんはねえ、と彼女は言う。はなちゃんというのは縞猫の名前で、性別は最初からわかっていたけれども、でもどう見てもはなちゃんという感じがするからというので、そういう名前なのだった。ときどき、赤ちゃんがえりするの。
 はなちゃんは去年の夏の終わり、コンビニエンスストアのプラスティックバッグに入った状態で道ばたに捨てられていて、とくに猫好きというのでもなかった彼女の夫が、それだから一度通りすぎて、もう一度通ってまだいたら連れて帰るしかないと肚を決めて戻ったらにいにいと鳴いていたので、それで拾ったのだという。彼女だって猫を飼いたいと思ったことなんかなかったから、うるさいと思うこともあって、そうしたら猫は高いところから落ちて脚を折った。獣医は脚の切断について、自分のミスが原因だと謝罪したのだそうだ。自分の胸に疎ましい気持ちがよぎったのがこの猫にはわかったのだと、彼女は確信していた。
 はなちゃんはだから怒っているのよと彼女は言う。好きで捨てられたのではないし、好きで拾われたあげくに疎まれたのではないし、好きで脚を切られたのではない。けれども夫妻がもう一匹の捨て猫を連れて帰ってきてから、その猫の兄のようにふるまい、それなりに機嫌よく暮らすようになった。そういのってとってもたいへんだと思うのよと彼女は言った。ほんとうは世界を憎んでいるのに、折りあいをつけて生きているのよ。ここに来たときには怒ってばかりいて、さっきのはその再現みたいなものなの。ときどきそういうことが起きるの。私のまわりをシャーシャーいいながら歩いて、だっこすると怒って、だっこしないともっと怒る。
 そういうときはどうするんですかと私は質問する。好きなだけ怒らせてやるのよと彼女はこたえる。だってそうでしょう、怒って当たり前でしょう、世界はあまりに理不尽で、ビニール袋に突っこまれて三十七度の気温のなかアスファルトの上に放置されるのだし、家のばあさんは自分をうるさいと思うのだし、脚を折ったうえに切られるのだし、そんなの、ぜったいに許せないでしょう。
 だいじょうぶよ、そんなに怒りつづけていられないから、疲れて寝ちゃうんだから。彼女はそのように話してからりと笑う。私も少し笑う。彼女と私は、世界の理不尽と暴力についていくらかの情報を共有している。