傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

幽霊を書く

 それにしてもあれはほんとうにいい話だったねえと私は言った。それはよかったと彼はこたえた。彼は私にとてもよい話をし、私はそれを自分のブログに書いた。それから、あれは嘘だよと彼は言った。そのほかのもろもろも嘘だよ。
 私が何度かまたたきすると、嘘をつくのは自分だけだと思うなんて愚かしいなあと言って彼は愉快そうに笑う。僕には妻なんかいない。一緒に住んでいるのは彼女で、僕らは結婚する気がない。もちろん二歳の娘もいない。故郷の話も嘘だ。長野には仕事の都合で住んでいたことがあるからよく知ってはいる。でもそれだけで、そこで起きた話は嘘だよ。僕は東京のマンションで育って気の利いた故郷なんか持っていない。
 私はなんだか愉快になって笑う。彼もふたたび笑う。私たちはそれからしんとする。私はコーヒーを飲む。彼もコーヒーを飲む。黒い魔法の液体、と私は思う。これさえあれば私たちの頭はするりと動くにちがいないのだし、いいにおいがするからいい気持ちになるにちがいないのだし、あたたかいから落ち着くにちがいないのだった。私は一貫してコーヒーをそのようなものとして取りあつかい、コーヒーはそのフィクションにじゅうぶんにこたえてくれた。
 娘がほしかったのと訊くと彼はたぶんとこたえる。前の彼女と一緒になってたら二年前くらいに子どもが生まれていたんじゃないかなと思っていた。たぶん。でもそういうのは話しているときにはわからないんだ、ただマキノさんをかついであとで嘘だよって言ったらおもしろいだろうって、そう思っているだけ。でもきっと僕は娘をほしかったんだと思う。あるいはいつかほしいと思って、それをきれいに消すことができていない。今よりそちらのほうが良いと思っているわけでもないのに。
 消す必要はないと私は言う。誰だって先のことを考える、こうなったらいいなって思う。実現されることもあるし、されないこともある。されなかった部分についてきれいさっぱり忘れることだけが良いことではないでしょう。今の彼女と住んで子どもは持たないというのがあなたの選択で、いちばんいい状態で、だからといってそうじゃなかった可能性をすべて忘れ去る必要なんかないでしょう。選ばれなかった可能性だって私たちの人生の一部だと私は思うよ。それを覚えているのを悪いことと思わないよ。
 悪いかどうかは僕にはわからないと彼は言う。今の彼女は悪いと言うかもしれない。いずれにせよ僕のなかにはいまだにその可能性がうろうろしているんだろう。もう死んでいるのにね。僕らが十進法を用いているのはただの偶然だけれど、四十の大台が見えて、自分はおそらく子どもを持たないだろうと思って、それを選んだとさえいえるのに、同時にやっぱり怖いんだろう、たぶん。
 幽霊と私は言う。私はそういうの幽霊って呼んでる。死んだ可能性。でもこの場合はぜんぜん死んでないかもしれない。今から子どもを持つかもしれないでしょう。男の人が四十代で子どもを持つなんてぜんぜん珍しくない。そういう問題じゃないんだと彼は言う。そこに結びつかない選択を今の今まで僕はし続けているし、今後もおそらくそうするだろうと思っている。だからそれは死んでいる。それでかまわない。生かしたければマキノさんの言うとおり子どもを産みたい人を探して一緒になって産んでもらえばいいんだから。そうじゃないほうを僕は選んだし、今後も選ぶ。
 でも幽霊は残る、と私は言う。残る、と彼はこたえる。幽霊は残る。だから僕はそこいらの罪のない知りあいをつかまえて嘘の話をしたんだろう。最近知り合って僕の背景を知らず、深いつきあいをする予定がなく、嘘をついても問題ない、無害な人に。
 どうもありがとうと私は言う。誰かにとってのそのような存在であることを私は好むよ。今後ともそういうものだと思ってもらいたいし、嘘もどんどんついてくれてかまわない。そしたら私はあなたの幽霊としての娘だの故郷だのの話をたくさん書きましょう。ありがとうと彼はこたえる。けれども私は彼がおそらくはもうその話をしないと知っている。嘘だと暴露するまでが彼の幽霊にとって必要な手続きで、一度そうしてしまったら、真に受けて聞く者としての私は消費済みのパッケージみたいなものだ。二度と使うことはできない。
 私たちはコーヒーをのむ。幽霊は彼の隣の椅子にちょこなんと座っている。二歳にしては少し小さいからだに従姉のお下がりのセーターを着て、お気に入りの赤いスニーカをはいて、彼と一緒に帰るのを待っている。もうすぐ彼の幽霊の妻がやってきて、この子を連れて行くのだろう。

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