傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

幽霊を待つ

 幽霊が出るというので見にきた。大きくとられた窓の外にはまず空があり、視線を落とすと線路があり、それを少しずらすと駅舎が見えた。
 悪くない部屋だ。東京の巨大な衛星のような市の、あたりでいちばん背の高い集合住宅の中にある2LDK。近所の小学校の新入生の半分はうちのマンションの子よと彼女は言う。調度にはわずかな傷やくすみがあり、だから短いながら歴史を持っていることをひっそりと示している。どれも控えめなデザインの、高価すぎず安価すぎない様子の品物ばかりで、だから感じがよく、同時につかみどころがなかった。
 彼女は個包装されたドリップパックを使ってコーヒーを淹れてくれた。私がそれを好きなことを知っているのだ。気を遣わなくていいのになと私は思い、同時に息を吸うように気を遣うのがこの人だということを思い出す。
 コーヒーを淹れたから出るかしらと冗談めかして彼女は言う。あの人コーヒーメーカで淹れるのが好きじゃなくて、買ったことないんですって、一杯ずつドリップするほうが美味しいって言って、でも道具は持って行ったから、ここにはもうないの。
 コーヒーを淹れてくれてありがとうと私は言う。私の好きなものを覚えていてくれてありがとうと言う。そうしてしばらくその薄いコーヒーを飲み、あたりをぼんやりと見わたして、幽霊が出ていないことを確かめる。
 幽霊は彼女の夫の姿をしている。彼女が遅くに帰宅すると幽霊がソファに座ってテレビを観ている。値下がりしていたのをふたりで半日吟味して買った大きくて薄いテレビだ。幽霊はサッカーを観ている。彼女はただいまと言う。幽霊はおかえりと言う。彼女は着替えるために寝室に入り、そして夫がそこにいるはずのないことを思い出す。開けたままの扉から居間を振りかえる。幽霊はもういない。
 あるいは休日の朝、彼女は目玉焼きを焼く。幽霊はお湯をわかしコーヒーフィルタの底を折りカップを取りだす。トースタが音をたて、彼女は何かに気づく。幽霊はもういない。トースタの中にはトーストが一枚だけ入っている。コーヒーはどこにもない。コーヒーフィルタもない。カップはひとつだけ出ている。彼女は自分がそれを戸棚から出したことを思い出す。目玉焼きはふたつあり、彼女はそれを持てあます。
 あるいは、と私が尋ねると、並んで歯みがきしてたり、お風呂に入っているときに鍵の音がしてただいまと言ったりする、と彼女はこたえる。それが出るのは決まってまったくドラマティックでない場面であり、彼女が強い感情を感じていないときであり、そうして、状況の異常さに気づいたときには消えている。会話をすることはない。
 幽霊はもちろん彼女の実在の夫ではない。彼女の夫はシンガポールにいて、来週、彼女の夫でなくなる。彼は海外に本社のある企業に勤めており、シンガポール支社に異動を命じられた。駐在ではなく、現地社員としての転属だった。彼らは離婚届を作成した。
 たしかに幽霊だねと私は言う。そうよと彼女はこたえる。願望を目の前に見るくらい彼のこと好きなんだったらシンガポールに行っちゃえばいいじゃんと私は言う。マンションなんか売ってさ、きっと、どうにかなるよ。
 彼女は苦笑して言う。好きとか、そういうののせいで、あれを見るんじゃない、彼を好きだけど、でも、私はなにもかも放り出して外国に行くような愛を持っていない、私の幽霊は、夫がここにいたらいいのにという気持ちでできてるんじゃない、それもあるけど、それは主なものじゃなくって、自分たちの思い描いたとおりの人生がここにあればいいのにって、そう思ってるから、幽霊が出るのよ。私はうなずく。冷静で頭が良くて可哀想な人だと思う。彼女は話しつづける。
結婚して一緒に暮らしてマンションを買って子どもをふたりつくって彼も私も今の職場で働いて私が育児休暇を取って、そうすると私きっと収入が上がらなくなるから十年後の所得は、
 彼女はそのまま滔々とひどく具体的な彼らの架空の生活について述べた。架空の物語の具体性はほどよいところで止めておかなくてはだめだ、と私は思う。そうしないと、幽霊が出る。
 私は彼女を見る。彼女の目は私を見ていない。ひとりでこんな様子になったとき、彼女は幽霊を見るのだろう。今は、私が目の前にいるから、彼女はそれがどうしてかを心のどこかで意識しなくてはいけなくて(幽霊を観に来た、幽霊は夫の姿をしている、夫はもういない)、だから、幽霊を見ないのだろう。そう考える。それから思う。幽霊が出ればいいのに。