読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

幸福な猿と親切な猿回し

 うちのポールはだめだ、なんの意外性もない。彼女がそんなふうにこぼすので私は笑う。ポールは彼女の新しい同僚で、彼女の会社が外資系の会社と吸収にかぎりなく近い合併をしたのでやってきた社員のひとりだ。ポールはアフリカ系アメリカ人で、彼女の隣の席に座っている。彼らはやや特殊な専門職であり、ふだんの勤務は私服でかまわない。ポールはリーバイスをはく。ポールはコークをのむ。ときどきペプシをのむ。それからやはりコークがいいと言う。
 まあまあと私は彼女をなだめ、いい人そうじゃんと言う。彼女はうんざりしたように、ああいい人だよとこたえる。こないだなんかスティーブ・ジョブズに関する本を読んで「zenに興味を持った」って真顔で言う、その本がさ、禅をキーワードにジョブズのプレゼン技術を語る本なわけ。ああもう、どこまで、ステレオタイプなの。私はげらげら笑い、私その人のこと、わりと好きだな、と言った。私もまあ嫌いじゃない、と彼女はこたえた。同じ仕事してる人間はだいたい嫌いじゃない。
 スーツたちはどうと私は尋ねる。彼女によると彼女の会社には「スーツたち」と専門職である「私たち」、それに「派遣さんたち」がいる。スーツたちは減ったねえと彼女は言う。身売りしてから半分くらいいなくなって、四分の一くらい新しく来て、だから減ったの。
 でも私たちの忙しさはだいたい同じだよ、私は、業界的にはなんでもできるから、スーツたちには便利だよ。彼女がそう言うので私は少し困って、頼りにされてるんでしょ、と言う。便利なんだよと彼女は繰りかえす。私はひやりとして、誰がそんなこと言ったのと尋ねる。
 その日、彼女のところに広報担当がやってきて彼女にインタビューし、彼女の写真を撮った。社内報がわりのウェブに載せるための取材だった。辻さんのお話はわかりやすくて助かりますと広報担当は言った。私、ばかなんで、ナカサキさんとかイシカワさんとかにお話伺ったときは困っちゃって。辻さんフォトジェニックですし。それはどうも、と彼女はこたえた。そうしてあいまいに笑って広報担当のリップの色を見ていた。念入りなマーケティングと最先端の科学を応用した素材開発とよく検討された戦略による広告宣伝の色。
 彼女は社命を受けて毎朝二十分、社内で英会話のレッスンを受けている。何か新しいことはあった、と彼女の教師は尋ねる。ない、と彼女は言いたくて、でも言わない。教師のせりふはなんでもいいから話せという意味だからだ。
 廊下に出ると話し声がするので立ち止まる。辻さんマジ天使、と誰かが言い、ていうか便利、と誰かが言った。誰かじゃなくて、広報担当、と彼女は思いかえす。背後の扉が開き教師が彼女を見て言う。あら、何かあったの。彼女は教師の顔を見て口を開く。レッスンは終わったから、言わなくていいんだ、と思う。Nothing.
 私は憤慨する。人をつかまえて便利だと、何さまのつもりだ、そのガイジン。広報担当は日本人だよと彼女はこたえて、笑う。スーツたちはね、私たちを行儀のいい狂人を見るような目で見ることがあるよ、価値の体系が違うから、同じ会社にいても、違う人種と思われている。私はときどき私たちが賢い猿で、彼らが熱心な猿回しであるように思うよ。
 ばかなこと言うんじゃありませんと私は言う。彼女はおもしろそうに私を見る。サヤカは猿はいやなの。断じて人間だからねと私は答える。冗談じゃない。彼女は少しずるそうな顔になって尋ねる。そこに猿回しと猿しかいないとしても?私は彼女を見る。彼女は言う。猿回しのお客さんは猿のところに来るんだよ。猿がいなくては猿回しは食べていかれない。
 私が黙ると彼女はほほえむ。彼らには私にはない能力がある。私は会社を運営することなんてできない。私は彼らに頼る。それに猿回しの中にはいい人もいる。彼らが私に親切にしてくれれば、私は幸福な猿としていい仕事をする。そうして私たちは幸せに暮らすの。
 でもその広報担当は親切じゃない、と私は言った。どう考えても親切じゃない。いいんだよ、私たち不親切な猿回しの言うことなんか聞かないから、と彼女は言う。昼休みに愚痴を言ったら、ポールが、ああ、広報のあの人は差別者だからねって、あっさり言うの。
 差別ってだいたいセットになってて、ひとつの側面で人を差別する人間はほかのたいていの面でも属性で人を見下すものだよね、僕は評価面談でそういう話、するけど。評価面談ってそういう話していいのと彼女が訊くと、ポールはのんきな顔で、時間が余ったら世間話がてら話すよ、たいてい余るし、と言って、コークをごくごく飲んだという。