傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

野良犬たち

ほんとうに申し訳ありませんでしたと彼は言い、深々と頭を下げた。私と同僚は仕事上のトラブルについて話すために元請けの会社を訪問していた。私たちはいろいろな感情を抑圧して事を納めたところだった。原因は先方にあったものの、相手が率直に謝るとは思っていなかった。非を認めなくても済む性質の話だったからだ。
私は視界の左側に入っている同僚を観察した。斜めに流された清潔な前髪。ひかえめな、でも裸ではない色のくちびる。そのかたちは戸惑いを一滴くわえた十パーセントの微笑。私は急いでそれをコピーする。
彼はトラブルの内容と影響を整然と確認し、それから、もし自分が私たちの立場にあったとしたら持ったであろう感情について話した。それは私の心境とほとんど同じものだった。私は動揺した。彼女はにっこりと笑い、お心遣いありがとうございますと言った。
先日北海道に出張しましてと彼は言った。唐突なせりふだった。彼は彼女に紙袋を手渡した。私たちは内容のない、けれども彼のイレギュラーな発言によって高まった場の緊張を通常の強度に戻すために必要な世間話をこなした。
彼女と私は並んで駅まで歩いた。私たちの年齢の差はわずか、業務に関する能力の差は明瞭だった。いずれも彼女が上だ。今日だってこの人が担当だったから、と私は思った。私もみっともなくうろたえなくて済んだ。よかった。
ごみ箱の横を通り過ぎざま、彼女はそこに紙袋を落とした。自然な仕草だった。私は十歩進んでからその意味に気づいた。私は彼女の名を呼んだ。さっきの、袋、あの、北海道の。私は自分の声を聞いてかなしくなる。私は、みっともない。
彼女は立ち止まって片手でこめかみを揉んだ。私は彼女がひどく疲れていることに気づいた。当然だ、今回のトラブルは彼女が預かる案件で起きたことなのだ。
もしかして、今回大変だったから、すごく、怒ってるんですか。私は訊いてみる。彼女はぼんやりと私を見返して口をひらく。業務上の事故に怒ってもしかたありません。あの人が面倒なことを言うから腹が立っただけです。
彼女の声には何の色もついていなかった。でもあの人の言ったこと合ってるって私思いました。私はそうこたえる。彼女は同じ声で、合ってますよ私にとっても、と返した。だからいやだったんです、あなたがいるのを忘れてもらったものを捨てるなんて私はどうかしていますね。
どうしてですかと私は訊く。どうして気持ちを理解されるのがいやなんですか。黙っていればいいと思いますと彼女は言った。開きなおった攻撃的な顔をしていた。
こちらは最大限に対応したんだからこれ以上とやかく言わないでもらいたいですね。気持ちだのなんだのずうずうしいですよ。仕事のことでしょう。自分の罪悪感を捨てたくて余計な話をするのが迷惑だと言っているんです。
気持ちをぜんぶ抜いたら仕事なんかできませんと私は言う。黙って手抜かりなく始末してやったら満足だろうって思うんですか。迷惑かけた側が申し訳ないと思うのは悪いことですか。自分の感情を忖度されるのがいやですか。それこそずうずうしいんじゃないですか。
今日はいやなこと言うんですね、私、あなたのこと、わりと好きだったのに。彼女は言う。私は、黙ってにこにこしてよくしてやったらみんな満足しておとなしくなるべきだと思っていますよ、仕事じゃなくても。
私は黙る。彼女はにっこりと笑う。明るいような声音だけが通常の彼女から逸脱している。このひとは、怒っている、と私は思う。彼女は言う。私はね夫が好きなんです、夫はね私が機嫌よくごはんを作って話を聞いて上手にしてあげたらそれで満足するんです、確実に満足するんです、だから好きなの。夫もきっと私に対してそう思っていますよ。
どうしてそんなにみんなに怒っているんですかと私は言った。それじゃ汚くてうるさい野良犬にえさを投げて黙らせてるみたいなものじゃないですか。どうして私たちはあなたの野良犬なんですか。
彼女は片手を挙げて、こんな変な話はやめましょうと言った。私はうなずくしかなかった。私は鈍く能天気で彼女に対して浅薄な関心しか持たず、だから彼女は私を気に入っていたのだと思った。私は愚かな野良犬で、投げ与えられた肉の欠片をよろこんで食べていたのだと思った。
私はごみ箱まで戻って彼女が捨てた紙袋を引きずりだした。これは犬のえさじゃないと言いたかった。私たちがおたがいにとって野良犬だなんて嘘だと言いたかった。袋の中には菓子折と手書きの小さいカードが入っていた。つまらないものですが、みなさんでお召しあがりください。

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