傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

焚きつけの取り扱い

ふだんは会議室に使っているという広い部屋に、ケータリングの食べものと軽いアルコールの匂いが満ちていた。戦前の建物を造り替えたのだそうで、床は焦げ茶に変色した木材だった。それは大量の靴の通った様子を残していた。視界の端に同じ会社の後輩の姿が映った。若い男から熱心に話しかけられている。
部屋にいる私たちはみんな同じような仕事をしていて、だから同じような苦痛や苛立ちを抱えていた。そういう話題があれば初対面でも親しいような気になれる。
同じような仕事をしていて、だからそれがもたらす美しい感情をもとに親しい会話ができるかというと、そういうことは少ない。時たま誰かが(私ななんかが)仕事の好きなところを口にすると、ほかの人たちは無知な子どもを見る目でほほえみ、いいですねと言う。そのあとのことばに排斥のほかの意味はない。いいですね、若いって。いいですね、優秀だからでしょう。いいですね、運がいいんですね。あなたはばかだからと言ってくれたらいいのにと思う。そのほうが真実に近い。
物思いしながらいささか水気の足りないローストビーフを噛んでいると、後輩がひらひらと寄ってきた。長い髪の下半分をゆるやかに巻いている。甘いもの出ますかねえと訊くので、出るでしょうと私はこたえる。コーヒーが出なかったら暴動を起こすよ、筵旗にコーヒーって書くんだ。私がそう言うと彼女は派手に笑った。彼女に話しかけていた男が私たちの視界を横切った。
あの人まだあなたと話したいんじゃないのと訊くと、彼女はもういいですと言う。相変わらずもてるねと私は言う。だって私、こんな格好して、こんな顔して、二十四歳で、にこにこしてて、もてなかったら、おかしいじゃないですか。後輩は大まじめに説明し、今度は私が笑う。それから訊いてみる。初対面でどんどん押してくる男の人ってやっぱりいや?
いやじゃないですと彼女はこたえる。顔や格好や仕草や話しかたを気に入られるのっていいことです、相手がどんな人間でも、私に都合のいい願望を投影しているだけでも、需要があるのはいいことです。需要の中身をとやかく言うほどえらい人間ではないです、私。そうだなあ自尊心を維持するための焚きつけみたいなものですね。
焚きつけ、と私はつぶやく。いいな、私も焚きつけがほしい。先輩だってたまにはあるでしょうと彼女は言う。ほんの少しはね、でもそんな彗星みたいな頻度じゃだめだよ、しょっちゅうがいいよ。私がそうこたえると彼女はまた華やかに笑う。
彼女はほどよい量のマスカラを載せた目頭を押さえて言う。ねえ先輩さっきの嘘でしょう。焚きつけなんてむしろ嫌いでしょう。私は少し動揺して中身のないグラスをかたむけ、それから注意深くこたえる。そうだね。私は焚きつけ的な人からがんがんメールが来ると面倒くささのあまりほとんど憂鬱になるよ。黄色い顔の絵文字が並んでいたりしたら親指でひとつずつつぶしたくなる。イクラを噛むみたいに。でもあなたくらいの年のころはそこまでいやじゃなかった。最近の傾向だと思う。どうしてかは自分でもわからない。
先輩もしかして体力ないんじゃないですかと彼女は言う。好意って欲望じゃないですか、向けられると疲れるじゃないですか、自分が元気じゃないと負担になるからむかつくんじゃないですか。
私は何秒か考えてからうなずく。そうかもしれない、それに私はもう自分の好意がその対象によい結果をもたらすとは限らないと知っているから、自分の好意をいいものだと確信しているような相手に腹が立つのかもしれない。あるいは、単に好意にこたえる気がないから申し訳ないのかもしれない。
彼女はくるりと視線を回し、先輩めんどくさいなあと言った。そういうところ好きです。ありがとうと私はこたえる。先輩もうちょっと元気にならなきゃだめですよと彼女は言う。他人の好意なんか怖くないです、どんどん利用して自信の材料にしなきゃだめです。何もなくても自尊心が燃えさかるほど強い人間では私たちはないんだから、そうして、ただ他者の欲望の対象でいるなんて癪だから、使えるものは使わなきゃいけないです。好意を示す相手は「私をいい気にさせる人」カテゴリに入れてちやほやさせるだけさせたらいいんですよ。好きにならなくても申し訳なくなんかないです。
残忍だねと私は言う。そのほうが元気でいられますと彼女はこたえる。それから見たことのない笑いかたをして、だいじょうぶですよと言う。目的語はと私は訊く。ぜんぶ、と彼女は言う。他人の好意も、近寄ってくる誰かも、自分の感情も、だいじょうぶ、怖くないです。