傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

策を弄さない勇気

 傷つきました、と彼女は言った。会議室の端までよく通る声だった。そうして、とても静かな物言いだった。私は職場にあってもいろいろの感情が顔に出るたちで、「素直でわかりやすい」と言われるけれども、彼女は私と反対に、淡いほほえみがデフォルトの、にこやかでも無愛想でもない、いつも落ち着いている人だった。発言の数が少ないのではなく、主張や意見もおもてに出していて、それでいて全体の印象は物静かだ。そのような人は多くはない。

 私は会社勤めをはじめて以来、喜怒哀楽をわかりやすくおもてに出し、それをコントロールすることで不利を防ぐという手法をとってきた。嘘もめったにつかない。嘘は面倒、ありもしない感情を表情でつくってみせるのも面倒、黙っていても仕事は回らない。それにもちろん、ずっと正直でいたら損をする。だから私は、おおまかな喜怒哀楽においては嘘をつかず、限度を超えた怒りと悲しみだけに蓋をして、その上に適度な怒りと悲しみの表現を載せることにしていた。「素直でわかりやすくて、裏表のないマキノさん」のできあがりである。

 そのようなキャラクタで社会生活を営んでいる私は、職場にあって傷ついた顔をすることがない。仕事がうまくいかなくたって傷つくことはない。不当なことばを浴びせられたり、職位が上の人間から嵩に懸かって侮蔑的な態度をとられたときなどに、傷つく。そうして私は、正当な理由なく自分を傷つける人間は反撃すべき敵であると思っている。殴られたら殴り返したいと思っている。だから殴られたときに「痛い」という顔をしていられないと思う。そんなの殴ったやつの思うつぼだし、殴り返すチャンスをうしないかねないと思う。だから私は傷ついた顔をしない。身を守りながら同じくらいのダメージを与える方法を考える。

 そうねえ、と彼女は言う。会議は終わり、彼女と、仕事上の彼女のパートナーを不当な目に遭わせた人間について、追って沙汰されることになった。私は彼女に近寄り、そっと言った。すごかったです。傷つきましたと言ってみんなに認めさせるのってすごいです。私、そういうやり方をしようと思ったことがなかった。

 だって、傷つけた人間が悪いのだもの。彼女はそう言う。仕事上の被害があったことを訴えるべきだと判断したから、言ったの。被害の内実は、無駄な仕事をさせられたりしたことなんだけど、お金の損失はまだ出ていないのよ。いま確実に出ている被害は、わたしたちが思いきり傷ついたことだけなのよ。だからそれを申告したまでよ。

 彼女は小さい。だから私を見上げる。それからちょっと笑う。マキノさんなら、と言う。マキノさんなら、相手が同じくらい傷つくことを言うでしょうねえ。刺すようなやつをねえ。目には目を、みたいなところ、あるものねえ。

 私が恥じ入って苦笑すると、彼女はちいさな手のひらで私の腕をぽんとたたいた。いいのよ、それしかなければそうしたっていいのよ。でも、不当な目に遭った報復はゲリラ戦しかない、みたいな考え方はしなくていいの。ゲリラ戦は弱者に残されたやむを得ない選択肢です。不当なことをしやがった人間は日の当たるところで裁かれるのがほんとうは正しいの。それができなかったのは自分たちが若かったり、力がなかったりしたからかもしれない。けれどもわたしたちはいつまでたっても弱いわけじゃない。わたしたちは年を重ね、キャリアを積み、たぶん実力みたいなものもついているのよ。たぶんね。

 そのときに古い戦い方しか持っていないのは悪手だと思う。わたしたちはもう、不当な目に遭ったら公の場で堂々と発言できる。わたしたちはそれくらい強くなったと、わたしは思う。それでももちろん、公の場で誰かの悪意をあげつらうことにはリスクがある。でも、そろそろそのリスクを取るべきだと、わたしは思う。

 わたしたちはもう、ゲリラ戦しかできない弱者じゃない。正規の手続きを踏んで戦って、それで多少の損をしたとしても、職を追われることはない。多少の損もしたくないほどのけちでもない。わたしたちは、若い人たちのために、被害は被害として申し立てたほうがいいと思う。組織の中で受けた傷は組織として対応されるのだと示すべきなのよ。

 彼女はことばを切り、ちょっと照れた。私はいたく感心して、わかりました、とこたえた。よほとのことがなければゲリラ戦はしません。そうねえ、と彼女は言った。ゲリラ戦のノウハウと武器は捨てずに倉庫にしまっておくといいけどね。またいつ必要になるか、わからないから。

教育の欠如と欲求の不満がもたらすもの

 くそばばあ、かあ。彼女は言う。うん、くそばばあ。私はこたえる。ことのほか気合の入った長文の罵倒メールを受け取ったので、法律家の友人と遊ぶついでにプリントアウトを持ってきたのだ。友人はげらげら笑い、よう、くそばばあ、この差出人によるとくそばばあ臭がするらしいじゃん、かがせろ、と言って、テーブルに身を乗りだした。それからラインマーカーで「くそばばあ」どころではない、書くにはばかられる語彙を塗りはじめた。

 インターネットなんかやってるから悪いんだよ。彼女はむちゃくちゃなことを言う。自分だってSNSを使っているくせに。SNSだってインターネットじゃないか。私がそのように抗議すると、彼女はひらりと手をかざし、ちがう、と首を振る。わたしのSNSは相互、マキノのブログは一方的。一方的に読まれていれば文句を言いたい人が沸いて出るのがこの世の常ですよ。

 差出人はリアルな知人かなあ、と私は尋ねる。ちがう、と彼女は断定する。ここには、くそばばあどころじゃないものすごいせりふも書いてあるけど、ベースは「ばばあ」系だよね、つまり、槙野、あんたのこと知らないんだよ。性別と年齢くらいしか推定できてない。だからそれを芯にして汚いせりふをくっつけてる。罵詈雑言は、九割架空でいいけど、芯になるところは何かしら事実めいたものがないといけないの。この場合はそれが「年齢が上であって、女である」ことなの。

 たしかに私はインターネット上で個人情報をあきらかにしていない。年齢は示している(事実だという保証はないが)。また、明確に女だと言ってはいないけれども、筆名と同名の語り手は女性として書いている。けれども、インターネットに出しているのは文章だ。文章を書いている人間に文句を言いたいなら、「へたくそ」とかが妥当ではないか。そもそも年をとっていて女であることが罵倒の対象になると考えている段階でだいぶ教育が足らない。言った段階で言った側の卑しさが示されるだけの語じゃないか。そんなのちょっと考えればわかることだろうに。

 私がそのような疑問を口にすると、彼女は笑って説明する。へたくそっていうのは存在の否定じゃないからね。技能の否定だから、罵倒としてはたいしたことないんだよ。そして「ばばあ」が「へたくそ」より強い罵倒になると思っている人は、あんたが言う「ちょっと考える」ができない人なんだよ。そういう人は、わりといるんだよ。

 あのさ、マキノ、ある種の罵倒はどんなに洗ったって批判にはならないんだよ。批判の語彙を幼稚に、薄汚くすれば、罵倒として成立する。けれども、罵倒のための罵倒は、どこを切ったって批判は出てこない。悪意しか出てこない。

 人が知らない人を罵倒するのはどうしてかわかる?罵倒する相手が先にあるのではないの。だめな人間がいるから罵倒するのではないの。この場合、槙野がろくでもない文章を書いたから罵倒したいのではない。こういう人たちには、よくも悪くも相手がいない。まず自分の苛立ちがあるの。怒りたいという欲求はしかるべき対象に対して怒れば解消するけど、それができないと、欲求不満がずーっとくすぶっている人間になる。そうして、発酵した悪感情がガスみたいに口や手から出てくるようになる。

 教育を受けた大人であれば、たとえ欲求の発散のしどころが見つからなかったとしても、立ち止まって自分の内心を把握して対処することができる。でもそのやりかたを知らない人もいる。感情の取り扱いのための教育を受けることができず、自分で自分を教育することもできず、外見だけ大人になってしまった人。けっこういるよ。あちこちにいる。そういう人たちはことのほか不全感を抱えているものだから、驚くほど簡単に怒りや憎しみを発酵させてしまう。ほんとうは相手のない、世界に対する怒りを。

 彼らはどこへ行くのかなあ。私は尋ねる。インターネットでちょっとものを書いている人間に長文で汚いことばをたくさん送ってきたって、せいぜいこうやって笑いものにされて、エスカレートしたときのために相談実績を作られるだけだよ。彼らの居場所はないよ。

 そうだね、どこへ行くのかね、と彼女はこたえ、プリントアウトを折りたたんでフォルダに仕舞う。インターネット上のメールアドレス、フリーダイヤルの顧客相談窓口、電車で乗り合わせた知らない人の耳、そんな場所に言語的なげろを吐いて、吐いて、吐きつづけて、エネルギーが尽きてやめるか、見かねた人間に口を塞がれるか。もっと運が悪ければ、捕まるね。つまり、どこへも行けない。

お知らせ

 Webメディア「りっすん」に書き下ろしを寄稿しました。本日公開です。

 

「当たり前のこと」ができないと思っていた

 

 また、少し前に「週刊はてなブログ」からインタビューを受けました。

 

『傘をひらいて、空を』槙野さやかさんインタビュー。「文章を公開することは、灯台の灯を点すこと」 - 週刊はてなブログ

 

孔雀の雄の尾羽の種類

 浮かれた人というのはおおむねいいものだ。見ていると気分がよくなる。みんなうきうきすればいいし、浮き足立てばいいし、明るい未来を思い描けばいい。そう思う。けれども、浮かれている人の浮かれている原因が目の前で叩き潰されることがあきらかである場合、そのかぎりではない。浮かれている側に感情移入しているから、たいそういたたまれなくなる。大きな穴に向かって飛び跳ねてる人を止めることができない、そういう気持ちだ。

 まして今日は浮かれている(そしてそれが見当違いである)人は私のせいでここにいるのだ。ちょっとした用事にかこつけて、若い男性を若い女性に引き合わせたのである。年頃のふたりを引き合わせるようなお節介をなぜするかといえば、単に楽しいからだ。そして紹介者はお節介の楽しさとともに、お節介が無効であった場合の渋い感情も味わう。何をするにしても得ばかりということはない。もちろん。

 女性は「いい人がいれば紹介してほしい」と言っていた。彼女にとって彼が「いい人」でないことは、私の目には明らかだった。人と人との相性の多くは、事前情報からはあきらかにならないのだ。好みのタイプとかつきあう条件とか、そういうのって、実にあてにならない。あてになるなら、私を含むすべてのお節介おばさんの幸福は約束される。でもそういうわけにはいかない。もちろん。

 話が合うね、と彼は言った。彼女はほほえんで返事をしなかった。ああ、と私は思った。話が合う、という台詞が発せられる状態の少なくとも半分は、そう感じる人間ばかりが話していて、聞き手が多少物知りで、気を遣って相槌を打っているから、会話が続いているにすぎない。もちろんそれは(広い意味での)口説きの手がかりでもあるので、言った側が本気ともかぎらない。 「わたしたちはぴったり」と思われるためにはまず自分がそう感じていると示す必要があるから、嘘でもそう言うのは有効だ。彼の台詞がそういう戦術めいたものならいいけれども、と私は思う。でもたぶんそうではない。彼はほんとうに彼女と話が合うと思っている。たぶん。

 彼らの(八割がた彼の)話がひと段落したところで、辞去する旨を告げた。彼女は私とともに帰るしぐさを見せた。彼女は彼との連絡先の交換をやんわりかわした。彼は笑顔のまま狼狽し、それから、やはり笑顔のまま、何かの被害にあったかのような色を、その目に浮かべた。

 彼女が言う。ねえマキノさん。なあにと私は尋ねる。ここ数年、つまり社会人になってしばらくしたら、男の人がやたらと収入の話をするんですけど、なんででしょうか。それはねと私はこたえる。おそらく、孔雀がばーっと尾羽を広げる行動、あれの一部なんですよ。あなたにアピールしているのですよ。彼女は首をかしげ、それから、稼いでいる額面を聞くと好感を持つなんてみんな文化的すぎる、と言う。表情や言語が先ではないのですか。おもむろに上着を脱いで筋肉をアピールされるほうがまだわかります。

 そうだねと私はこたえる。私もそうだ、好意を示されている場面で収入の話をされると「それ、いま関係ありますか?」と思う。でもそういうものなんだ。筋肉が先だろと思うのは動物的にすぎるんだ。もう少し年を取ったら、理解できなくても了解すると思うよ。それに私が紹介したからって気に入る必要はない、私は彼の尾羽の広げ方とか広げた中身とかは知らないから、結局のところあなたと彼が顔を合わせなければ相性はわからないのだし。

 申し訳ないです、と彼女は言う。いやいやと私は手を振る。尾羽の評価基準がちがっていたのだからしかたない。あなたの気に入る尾羽を広げていなかったんだからしかたがない。そんなこと見ればわかるのに、あなたの社交辞令をめいっぱい好意的に解釈してしまうのは、あなたがよほど気に入ったからだろうね。

 わかります、と彼女は言う。人間は雌にも尾羽があるので、わたしだって見当違いな尾羽をばさばさやってたこと、あります。きっと相手はほかのものが見たかったんでしょう。そういうのって、がっかりしちゃうけど、まあしょうがないですよね。ぐっときたらすかさず尾羽ばさーってやる、それ自体はまったくの正解です。もったいぶってもいいことないですよ。尾羽で殴ったりしちゃいけませんけど。

 あともう一人、紹介できる人がいると言ったよね、と私は確認する。どうする、やめておく?いえ、と彼女は私の質問の語尾を切る。やめません。会わなきゃわかりません。彼氏ほしいなら探しに行くのが当たり前です。今後とも積極的に尾羽をばさばさする場に行きたいと思います。私はそれを聞いて、笑った。

忘却のスイッチ

 私は忘れっぽい。荷物を手元から離すと高い確率で忘れて降りる。買い物帰りには電車の中でも袋の取っ手を手首に通して膝の上に置く。多くの大人が「今、かばん以外のものを持ち歩いている」という意識を保っていられることが信じられない。今日も受け取ったばかりの紙袋を手洗いに置き忘れて慌てて戻った。残っていてよかった。
 寝ぼけているのではない。病気でもない(たぶん)。酒や薬物を摂取しているのでもない。私にはその状態が当たり前なのだ。いつも身辺の荷物について気遣おうとすれば、口を閉じるたびに歯を食いしばりすぎて顎が疲れるし、首から腰まで傾けるたび派手な音で鳴る。健康によくない。そんなにがんばり続けたくない。できるだけ楽をして生きたい。だから私はいろんなものを忘れても生活が成り立つようなシステムを開発、構築し、運用を継続している。

 そのような私が忘れないことがある。暴言や暴力の対象になった場面だ。たちの悪いものなら被害から十年経っても覚えている。ふだんは忘れっぽいくせに何かあると根に持つタイプで、しかも陰険なのだ。読み返したことはないが、個人的な就業日誌(学生時代のアルバイト初日からつけている)もある。職場で何かされたときに証拠がないと困ると思ってつけはじめたのだと思う。つくづく陰険な性格である。

 さて、いま目の前にいる、直属の上司ではないが私より役職が高い人物からは、十年以上前から、断続的に妙な嫌がらせをされてきた。呆れるほどの差別発言を重ねているし、指揮系統を無視して仕事を振られたことも一度や二度ではない。席の真後ろに棚を設置して椅子がまともに引けない状態にされたこともある。私は忖度というものに縁がないから、いちいち抗議する。公の場で、でかい声で。
 そんなだから相手もここ数年はおとなしかった。今日は久しぶりに呼び出された。私は思うんだけれど、特段の事情もなく職場でふたりきりになりたがる人間にろくな者はいない。暴力(物理的なものにかぎらない)の発動条件は二者関係、密室、そして権力である。何かというとその三つを揃えたがるんだから要するに暴力が大好きなんだろうと私は思っている。こんなやつが部署を超えて人を呼び出す権力を持っているんだからこの会社もまだまだだなと私は思う。
 例によって彼は冒頭によくわからない世間話を挟み、私は腕時計を外して机の上に置いた。ははははは。妙に平坦な、不愉快な調子で彼は笑い、相変わらずですねえ、と言った。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いので、私はこの男の言葉遣いだけが丁寧なところや、妙にジェントルな発声のしかたまで、それはもう嫌いである。用件を言えというような意味のせりふを婉曲に口にすると彼はまた笑い、変わらないですねえと繰り返す。直接返事をしたら負けだと思ってでもいるような話し方、これも大嫌いだ。窓を開けて換気したくなる。
 癌、ですねえ。彼はそう言う。そうですか、と私は答える。癌、ということなんです、どうやら確定でして。そうですか、と私は繰り返す。そちらのチームと連携している部下にある程度、仕事を引き継いでもらうつもりでして、マキノさんにも今後ご迷惑をおかけするかと思いますので、お耳に入れておこうという次第です。

 癌にかかる日本人は多い。年齢が上がれば罹患する確率も上がる。治る場合もあるし、そうではない場合もある。会社にいる人間が当事者になってもおかしくはない。そう思う。
 自分なりに熱心に、誠実に仕事をしてきたつもりですが、と彼は言う。しかし、軋轢がないわけではありません。ご存知のように。まったく、仕事というのは酷なものです。それで、マキノさんにもお詫びしたくなりました。意図しないところで不愉快な思いをさせたかと思います。

 彼はことばを止める。「意図しないところで」のわりにはずいぶんと露骨だったなあと私は思う。善行を積めば病気が快方に向かうとでも考えているのか、と思う。どう見ても趣味として嫌がらせをしていたのだから、それを貫けばいいじゃないかと思う。好きなことをやっていたほうが体にいいんじゃないかと思う。
 そんなこと、ありましたっけねえ。私は言う。私はものすごく忘れっぽいので、よく覚えてないです。帰って日記を見たら書いてあるかもしれませんが。

 彼は再び、私の嫌いな声ではははははと笑った。彼のしたことが急速に私の中で具体性をうしなっていく。明日になればもっと薄くなるだろう。来月になればもっと。私が忘れた膨大なものごとの中には、こうやって意図的に記憶の底に沈めたものもあるのかもしれないな、と思う。

前菜のない人生の話

 仕事で知りあった人が自分のプライベートについて話すのはおおむね、好意のあらわれである。自己開示というやつだ。まれに「もう黙れ」という意味をこめた開示もあるが、継続的に楽しげに自分について話すのはだいたい好意によるものだ。伴侶の話だとか、子の話だとか、年齢によっては孫の話だとか、あるいは近ごろの恋人や親しい友人の話だとか。そういう話をする合間には、信条、能力、具体的な価値判断など、無難ではない話題も出てくる。そのようにいろいろな話題を共有する相手を友人と呼ぶのだとわたしは思う。
 目の前の女性は聡明で魅力的な人だ。手足が人形めいて長く、なかでも指の美しさときたら格別で、かぼそいのに力強く、神経がいきとどいている。シャープな印象に比して輪郭や目はまるくて可愛い(胴体だってみんな褒めるんだろうけど、わたしは、肩幅も胸も腰も薄い、いわゆるモデル体型を個人的に好きではない)。
 彼女は知り合って一年のあいだに何かと自身のことを教えてくれた。敬虔なキリスト教信仰と科学的な態度を同居させており、二十代で結婚と離婚を経験、現在は事実婚で、子はなく、両親は神戸にいる。夫は同い年で、職業は雑誌の編集者。最近の夫婦の流行はおかしなLINEスタンプを探すこと(スマートフォンの画面を見せてくれた)。愛犬はコーギー、赤っぽい毛色、今年で四歳、名前はあんずちゃん。
 けっこうプライベートな話だ、と思う。そういうことを話してくれるのはわたしを気に入ってくれているからだと思う。わたしだってこの新しい知人と友人になりたい。自己開示をやり返したい。けれども、わたしには平和に楽しく開示できる背景があんまりない。ていうか、ほとんどない。両親はすでに亡い。母は遺伝性の病気を持っていた。わたしもその病気を受け継いでいるかもしれない。結婚はしていないし、子もいない。自分でもびっくりするくらい、明るい背景がない。こんなに明るい人間なのに。せめてきょうだいでもいれば話題になるけれども、あいにく一人っ子だ。現在のパートナーは同性だが、自分を同性愛者とくくることもできない。異性を好きになることもある。パートナー以外の他者にセクシャリティを開示するつもりはない。というか、セクシャリティとか決めてない。ついでに結婚という制度にも賛成していない。
 わたしは好き勝手に生きてきた。たいそう楽しい人生を送っているつもりだ。後悔というものはほとんどなく、今後もそのつもりである。そりゃあ、死に至る病の遺伝子なんか持ってないほうがいいけど、それがあるのがわたしなのだ。長い長いあいだ苦しんで死ぬ病気が発現するかもしれない遺伝子、母の命を奪った病の遺伝子の上にわたしが乗っかり、へらへら笑って人生を歩んでいる。これらの事実は矛盾するものではない。わたしそのものだ。母は世を去る前、自分の病気が一定の確率で遺伝すると承知していた、と教えてくれた。わたしを産むか否か迷っていたと告白してくれた。産んで正解、さすがわたしの母、まったくもって正解である。わたしがこの先もし母と同じように発病したとしてもまったく傷つかない強度で、母の選択は正解である。
 正解だけれども、知りあいから友人になろうかという人とのランチの場で開示するにふさわしい内容ではない。クソ重い。もっと軽い話がほしい。前菜みたいなやつ。わたしがそのようにぼやくと、うさぎか何か飼えばいいじゃん、動物は無限の話題を提供するよ、とパートナーは言う。しかし、わたしは動物の毛のアレルギーなのだ。同居できる生物はヒトが限度である。ハダカデバネズミとかなら可能かもしれないけど、写真を見るかぎりあんまりかわいくない気がする。あと寒そう。
 わたしがそう言うとパートナーは笑い、それから、言う。そんなさあ、コース料理みたいに、軽いものから順繰りに出して、問題ないと判断したタイミングでメインを提供、のちデザート、なんて気を遣う必要、ないよ。たしかにそういう手順で供される会話は格好良いし、誰でもOKを出すでしょう。でも、手持ちにない種類の話題を無理に作る必要もない。あなたはもう強くて大人なのだから、その場の気分で自分の話をして、それで引かれたり嘲笑されたりしたら、相手と親しくなるのをやめればいいだけなんだよ。人生が重いのはあなたにかぎったことじゃない。誰の人生だって、ほんとうは重い。寄りかかられたわけでもないのに重さを否定する相手は、あなたが自分の話をするのに値しない人間なんだよ。

ピーマンの焼きびたしの作りかた

 ピーマンのあれを作りたい、とぼくは言う。あれって、と妻は訊く。あたりまえだ。質問が具体性を欠く。ぼくは反省しながら質問をおぎなう。つまり、ぼくは、時々きみが作るピーマンの、ピーマンだけの、あれを作りたい。苦みが残ってて、なんだか甘いやつ。
 よしくんはばかなの、と妻は訊く。よしくんというのはぼくのことである。ばかではない、とぼくは率直に述べる。少なくとも完全な無能ではない。ただ調理と味覚の連結にいささかの不備があるだけだ。きみは経験が不足している部下にもそんな物言いをするのか。
 申し訳なかった、と妻はこたえる。謝罪して訂正する。よしくんは決してばかではない。わたしは良くない冗談と嫌味を言った。わたしにとってはすごく単純なレシピだから。でもばかなんて言うべきじゃなかった。わたしが間違っていた。
 その件はもう終わりにしよう、とぼくは言う。そんなことよりピーマンだねと妻はこたえる。ピーマンだ、とぼくは諾う。まずピーマンひと袋のヘタを切り花落ちを軽く抉り、半分に割り、種とワタを手で掻いて、さらに半分、すなわち四分の一にする。妻は手振りつきで解説し、ぼくは右手を立てる。花落ちとは。妻も右手を立て、果実様の野菜には頭、いわゆるヘタと、反対側に花が咲いていたところがある、と説明する。包丁の刃の下で抉ると食感が良い。ここまではよろしいか。
 よろしい、とぼくはこたえる。ほんとうはどの程度を不可食部位とすべきか疑問が残っているが、それは個別具体的に調理者が判断する必要があるのだと考える。
 妻は満足そうにテレビをつけ、お気に入りの映画を再生しながら、早口で言う。あとは小さじ一杯程度の胡麻油を熱してジャーってやって焼き目がついたら、本返しと出汁いれて冷蔵庫。あるいは白だしでばーってやる。味が馴染んだら鰹節や生姜を載せてお召し上がりください。以上。
 ぼくは映画の再生を止める。妻はリモートコントローラを振って抗議の意をあらわす。ばーっとかジャーって、とぼくは主張する。そんな説明は手抜きだ。ぼくにはわからない。
 よろしい、と妻は言う。リモートコントローラで自分のこめかみを軽くたたき、言う。よしくんの調理能力は飛躍的に向上しているし、わたしのスーツの埃まで取ってくれてありがたいと思う。埃だけじゃない、とぼくは控えめにことばをはさむ。きみにはアイロンという概念がないし、ニットをタオルやなにかと一緒くたに洗ってすぐだめにする。それから、きみのネックレスのチェーンが絡むのは保存状態に問題があるからだ。なにより、スカートのしつけ糸を取らずに着てクリーニングに出して、取りに行ったぼくがどれほど恥ずかしかったか理解してほしい。クリーニングの水野さん、わざわざしつけ糸つきで返してくれたんだよ。新品をそのまま着ない潔癖な女性だと思って。そんなわけないのに。
 妻はリモートコントローラを三回振り、しつけ糸なんて、と大きな声を出す。それから口をとがらせ、ごめん、とつぶやく。
 ぼくは大きな声が嫌いだ。とくに女性の、甲高い声が。妻にそのことを話したのは一度きりなのに、よく覚えているものだ。黒っぽい色の服の埃は目立つから一度着たらブラシをかけるべきだという話は結婚してから十三回してるんだけど、それを覚えてないのは、まあいいんだ。ブラシなんかぼくがかければいいし、埃がついた服で仕事に行っても、たいしたことじゃない。ぼくは絶対にしないけど。
 ぼくは「なんともないですよ」という顔をする。「それはぼくの個人的な事情で、たまにきみの声が大きくなるのはぜんぜん悪いことじゃない」という顔をする。だってそうじゃないか。妻がちょっと声を荒げたくらいでびくびくするなんて、まったく不当なことじゃないか。ぼくはそのように自分に言い聞かせる。
 妻はばつの悪そうな顔でくちびるを噛んで(子どもみたいな癖だけど、ぼくは嫌いじゃない)、それから、熱いうちに、と言う。焼き目がついたら熱いうちに出汁につけるの。ほうれん草とか、葉物のおひたしとはそこがちがうんだ。焼きびたしっていう。
 冷めるあいだに味を浸透させる、とぼくは確認する。浸透させる、あと焼くときに油の香りをつける、と妻は言う。それから、すこし甘みをつける。出汁を使うなら、味つけは本返し。ほら、わたしが週末に作り置きしてるやつ。あれは醤油と味醂を煮切ったものなの。それがうちのごはんに出してる味だよ。
 すこしの甘み、とぼくは言う。すこしの甘み、と妻は言う。