傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしたちの不合理な取っ手

 エスプレッソを考えたイタリア人は偉いですね。偉いですよね、こんなに美味しいんだものね。でもこのカップは最悪、あきらかに持ちにくい、とくに、取っ手の穴、圧倒的に、意味がない。たしかに、指は入らないですね。そう、指が入らないんだから、耳たぶみたいな形にしときゃいいじゃん、つまむしかないんだから。耳たぶ。そう、耳たぶ。ねえ、わたしたちふたりで耳たぶつまんでてばかみたいですよ。たしかに。わたしは少しイタリア人を擁護しようと思うんだけど、このカップの構造は、急いで飲むことをアフォードしているのではないですか。
 こうすると、重心が傾くから、こう?そう、取っ手をつまむでしょ、カップが取っ手の反対型に傾くでしょ、だから、さっと飲む。うん、飲んだ、事実として。ねえ、飲むでしょう、それを意図した形状なんじゃないの、深煎りの濃いコーヒーが酸化したら軽い地獄だし、少量で冷めやすいし。そうかなあ、あなたの説を採用するなら、エスプレッソカップはぐい飲みでいいことになる。ぐい飲み。そう、いらねえよ取っ手。どこまで取っ手が憎いんだよ。
 いや、憎んではいない、イタリア人は、ただ気づいていないだけなんだ、コーヒーのんで三百年とかだから、まだ気づいてないんだ、このカップに含まれる不合理さに。あと百年くらいで気づくわけか。そう、あと百年もすれば彼らは気づき、すべてのエスプレッソカップはぐい飲みになる、それを待とう。死ぬよ。死ぬね、あなたも死ぬ、不合理なエスプレッソカップを使い続けたままで死ぬ、でもいいんです、歴史とはそういうものなんだ、こんなものはなくなると思いながら見る視点が提供されたらそれでいいんです。
 コーヒーの歴史って三百年どころじゃないでしょ、もっと長いんじゃないの、昔アラブのえらいお坊さんが飲ませたんでしょ、恋を忘れたあわれな男に。その歌はまちがってて、坊さんが修行の眠気覚ましにしてたんだ、つまり、恋とか忘れる。年、とると、コーヒーなんかなくても、忘れるけど。そうだよ、忘れたらなんであわれなんだよ、そんなもん好きに忘れさせろ。
 思い出した?さあ、どうでしょう。もう一杯もらう?そうだね、あ、すみません、同じものください、彼女にも。ああ、アルコールというダウナー系ドラッグにカフェインというアッパー系を重ねるなんて、不良だ。そんなことはない、きわめてまじめです、あなた酔っぱらうと眠っちゃうみたいだから、コーヒーでも飲ませないと。わたしは、寝ちゃえばいいと思います。あのね、そういう年齢じゃないでしょう、おたがいに。年齢なんか関係ありません。じゃあ、性格、相手にちゃんと意識がないと困る、そういう性格だから、起きていてください。性格か、それじゃあしょうがないな、意識の清明を保ちましょう、あんまり自信ないけど。
 取っ手を貸してください、もう一度。はい、どうぞ、うふふ、人類にはいい取っ手がついていますね。全体に比して小さすぎるけどね。そうかな、じゅうぶんじゃないかな。この取っ手でかまわないのは、相手が協力的なときにかぎる。人類は協力的な相手の取っ手しかつかむべきではないよ。そうだけど、はじめはわからないから。確認すればいいじゃないですか、人類はそのために言語を獲得したのでしょう、意図せず生じる物理的な暴力を排除するために。政治や経済においてはね、でも個人には難しいこともある。そんなことありません、難しくなんかない、誰にでもできることです、言えばいいんです、何でも口に出して、確認すればいい、わたしは、します、もうお食事も終えたことですし、片手、空いてますよね、手をつないでも、いいですか。あなたには恥じらいというものがないのか。ありますよ、失礼な、いやではないのですね。どちらでもかまいません。えっ。手をつなぐことについては、ニュートラルです、あ、もちろん、相手による。
 わたしは、どちらでもよくないです、手をつないでいて、うれしいです。そうですか、何がそんなに可笑しいんですか。だって、手をつないでいいですかという質問に対して、ニュートラルって、ねえ。そうかな、手よりも、そのほかのほうが、いいと思うから、ああもう、何がそんなに可笑しいんですか。ねえ、コーヒー、冷めますよ。まったく、あなたのせいで、いろいろと困る。わたしのせいじゃ、ありません、わたしは、ちゃんと確認してるんだから、そこから先の問題は、あなたのせいです。じゃあ、アラブの坊さんが悪い。その歌の話は嘘じゃなかったの。嘘ですよ、もちろん。

僕の大嫌いなブス

 僕があの人を好きだったのはあの人がブスだったからだ。当の本人が、あっけなく、「きゅうりはみどりいろ」と言うみたいに、「わたしはブスだ」と言っていた。
 あの人は大学の先輩で、まわりにいつも誰かがいた。僕は馬鹿じゃない。趣味も悪くない。本だってけっこう読んでる。そして僕みたいな凡百の「馬鹿じゃない学生」が百人束になったって、あの人にはかなわなかった。
 僕の通っていたいけすかない大学では、馬鹿じゃないのはデフォルトで、そのうえでやたらと付加価値を示すのだった。その付加価値が容姿である者もたくさんいて、だから才色兼備系女子もごろごろしてたんだけど、あの人はそういう女子を取り巻きに従えた文化的女王さまみたいなものだった。僕はそのことがとても誇らしかった。僕はあの人のなんでもなかったけど。
 賢くてきれいな女の子たちがブスをとり囲んで話をしてもらいたがっていた。女の子の誰かがちょっと気の利いたことを言うと中央にいるブスがその女の子に何秒か笑いかける。すると女の子は嬉しそうに頬を染める。変な光景だ。
 あの人はただ頭がいいというのではなかった。もちろんいいんだけど、世の中には芸術を理解する才覚というものがあって、それは知能テストではかる能力とはまったく別のものだった。創作の能力ともちがう。文字で書かれたものであれビジュアルで示されたものであれ、そこから美しさの本質みたいなものをさっと取り上げてよどみなく言語化する能力だ。あの人には生まれつきそれが、髪の先から足の裏まで詰まっているように見えた。
 あの人はいつもへんな服を着ていた。正確には、服だけ見るとへんに見えるのにあの人が着ていると妙にしっくりくる服を着ていた。策を弄してすこしだけ仲良くなれたあと、そういう服ってどこで買うんですか、と訊いたら、たいそう軽蔑した顔になり(すべての表情が刺すような訴求力を持っている人で、わけても軽蔑の表情の威力はひとしおだった。その目で見られるともちろん腹立たしく、それから悪寒すれすれの、妙な気持ちよさがあった)、きみには似合わない、と言った。自分では着ませんけど、と僕は言った。見てて、すてきだなって。
 あの人は僕をはじめて見たみたいに上から下までさっと視線でスキャンし、それから、きみ、わたしが好きなの、と訊いた。はいと僕はこたえた。好きです。きみにその資格はないとあの人はあっけなく言った。きみみたいにきれいな男の子には。きみみたいにきれいで如才なくて何にも困ったことのない男の子には。
 きみはわたしの才能を好きだ。きみにはないものだから。そうしてわたしがブスだからそれをとっかかりにすればわたしのぜんぶが手に入ると思っている。わたしが美しかったらきみはわたしを好きにならない。きみは自分よりすぐれた者が好きなのに、どこもかしこも自分よりすぐれていては恋をすることができない。男だからかな。相手が自分より劣っていないと欲情できない男は多いよ、そういうフェチなんだろうね。趣味の問題だ。そしてわたしの趣味はそれに合わない。
 なにか反論はある、と訊かれて、いえ、と僕はこたえた。ありません。ぜんぶ合ってます、たぶん。自覚しなさいとあの人は言った。自分の欲望を自覚して、それを満たすような相手を探して、その人に合わせて取り繕いなさい。
 つまり僕は僕の浅ましい欲望の構造を丁寧に解説されたのだった。上品に見せている趣味が実は下手物食いだと暴かれたのだった。好きな人から。くやしいからあの人を取り巻いていたかわいい女の子のひとりとつきあった。僕が誰とつきあおうが、あの人にはどうでもいいことだけど。
 久しぶりにあの人のことを思い出したのは、つきあっている女の子が、先輩、結婚したんだって、と言ったからだ。結婚式の写真見る?先輩、きれいよ。
 僕はそれを見たくない。量産型の花嫁になるために厚塗りして「きれい」になったあの人なんか見たくない。どこかのくだらない男のために「取り繕った」顔なんか見たくない。僕があの人を好きだったのはあの人がブスのまま世界とわたりあっていたからだ。あの人は薄口のよくある顔を繕わないからブスなので、塗りたくってそこらへんのばかな男が好きなだせえ服を着たら別にブスじゃない。でもあの人は美意識過剰で、自分の顔が美しくないというだけで底なしの劣等感を持っていた。僕はそれを、自分が解消してあげられると思っていた。だから好きだった。すごく好きだった。もちろん今となってはむかつくだけの過去だ。僕はブスなんか嫌いだ。だから僕は、そんな写真は見ないし、それがこの世にあったこと自体、明日になったら忘れてやるんだ。

わたしの仕事

 夫の転勤にともなって会社員を辞めたあと、大学で専攻していた分野に関連するライターを始めた。独身のころに何度か書いたことがあって、運良く継続的な原稿の依頼をもらえたのだ。ありがたいことにその後、別の媒体からも同様のお話があったけれども、子どもが小さいうちは受注量を抑えていた。家のこともしなければならないし。
 わたしが書いている分野では、昼間に会える取材対象者が多く、文献調査の比率も高く、いつも外に出ていなければいけないのではなかった。そうして書くときは家にいたから、パートよりは自由度が高い。わたしは夫にそのように説明し、夫も了承していた。そういう内職ならやってもいいと。主婦にも道楽のひとつくらいあっていいし、それが小銭になるならきみの気も晴れるだろうからと。
 わたしも夫も子どもがほしかった。結婚してすぐ、たてつづけにふたりできて、とても運が良かった。よかったけれども、ひとりで年子を育てるのはきつかった。誰もがしていることなのに、わたしは能力が低いから、いっぱいいっぱになってしまう。夫の世話もほとんどできなくなってしまった。夫はしばしば不機嫌になり、家のことがおろそかになるなら内職は辞めなさいと言った。もともと趣味みたいなものなんだから。そうねとわたしはこたえた。そのとおりね、もうやめます。
 実際、わたしは独身のころからの延長として書いていた原稿の量をぐっと減らした。それまでのあいだに、わたしの文章は内職代として全額家計に入れるにはそぐわない価格になっていた。夫は一定額を家計の足しにするように告げ、残りは「小遣い」だといっていた。だからわたしはそれを、新しい分野で書くための準備に使った。下の子が小学校に入った年、長いことつきあいのある編集者が連絡をくれた。そろそろ書きましょうか、あなたに頼みたい文章があります。わたしはそれを断った。小学校に入ったあとのほうがたいへんな部分もあることを、上の子の経験で知っていた。
 わたしは自分の責任で書く話を断り、他人の手伝いというかたちで参加した。そのような立場を保っているうちに、子どもたちはあまり手がかからなくなった。今度は、と編集者は言った。今度はあなたの名前で書いてくれますね。署名原稿も書きたいと以前、おっしゃっていたじゃありませんか。準備も下仕事も、もうじゅうぶんでしょう。
 わたしはあいまいに笑う。向かい合っていれば表情でわかってもらえるけれど、電話越しだから、あいまいな笑いに相当する声を出す。そういうことばかりを、わたしは得意だった。そういうことを少しもしなさそうな、無愛想で厳しくて毎回原稿のありとあらゆるところにコメントをつけてくる同世代の女の編集者が、言った。あなたと仕事がしたい。
 仕事、とわたしはつぶやいた。仕事です、と編集者は言った。あなたの仕事を買っているんですよ。わかりませんか。
 相手が編集でなければわたしはまたあいまいに笑って済ませたと思う。けれども、その人は、なにかをつかんでことばにする作業をわたしに発注する人なのだった。それだから、わたしはつい、いつものくせで、ことばを探した。わかりません。書くことは、わたしにとって、とても大切で、お金をいただく責任をいつも感じていて、でも、それがわたしの仕事だと言ってくれた人は誰もいなかった。わたしは書きたかった。家のことと子どものことと夫のことをきちんとすれば書いてもいいんだと思って、がんばりました。家の中では、書くことはわたしの趣味で、道楽でした。家の外では、いただく対価に見合うよう必死でやらせてもらう、わたしの命綱でした。
 編集者はだまって聞いていた。わたしの発言が終わると、ちいさく息をついた。それから、言った。そんなだったら、きっと、さみしかったですよね。
 わたしは不意を突かれた。時間がすっと止まったようだった。そうだ、と思った。わたしはさみしかった。今まで知らなかったけれども、わたしはさみしかった。趣味です道楽です楽しいなあ楽しいなあ家族から趣味を認めてもらえるなんてありがたいことだわねえ。そういう態度を繕ってにこにこ笑ってわたしはいつもさみしかった。わたしはずっと「専業」主婦だった。書くことはわたしの仕事であるはずなのに、わたし自身ですらそう思うことができなかった。いつだって全力で、いただくお金に見合うよう必死に、身を削るように、書いてきたのに。
 仕事、します。わたしはそうこたえる。編集者がふふ、と笑う。この人の笑う声をはじめて聞いた。そう思って、わたしは繰りかえした。わたしの仕事を買ってくださってありがとうございます。一緒に仕事、してください。

愛のもたらす具体的な効用

 痛み止めを使えばすべての痛みが取れるのだと、ぼんやり思っていた。市販薬ならいざしらず、入院して病院で入れてもらうような痛み止めが効けば、苦しくないのだろうと。でもそうじゃないみたいだった。考えてみれば当たり前のことだ。解熱剤があれば熱が出ないのではない。安定剤を使えば安定するのではない。
 けがをして苦しそうな夫を見ながらそんなことを考えた。わたしの共感の能力はあまり高くない。目の前の親しい人が苦しそうだからといってずっと苦しい気持ちになったりはしない。最初の三十分を過ぎたらなんとなしに慣れて、わりと日常的な感覚になる。夫のけがは命に別状のないもので、応急措置も済んだのだから、よけいに平常心だ。
 わたしは驚くほど、親しい人と心をひとつにせず、親しい人の役に立つことがない。愛とかってあんまり役に立たない、というのがわたしの意見だ。愛はすてきだけど、地球を救わない。というか、たいていのものごとを救わない。わたしは夫がけがをしても、ただ手を握り、声をかけ、あたりさわりのないところをそっと撫でることしかできない。それはわたし自身のためにしている行為だ。役には立っていない。
 夫が目をひらく。わたしはちょっとほほえむ。夫もほほえもうとしたようだ。それからなにか言う。耳を近づけると、わたしの名を呼んで、言う。大好き。
 わたしは驚く。夫はふだんから臆面もなく愛情表現をするタイプだけれども、それにしたって交通事故で病院にかつぎこまれてもうろうとしながら口にするせりふではない。そのように驚いているのに、わたしの喉はいつもと同じ返答をいつもと同じように、する。わたしも、あなたが大好き。
 夫の顔色が明るくなった。呼吸が深くなった。わたしはまた、驚いた。その日、カーテンで仕切られた病室の、うす明るくあいまいに閉じた繭のような空間のなかで、同じやりとりが繰りかえされた。大好き。大好き。
 まるで治療薬のようでした。やりとりすると都度、痛みが減っているように見えるのです。わたしがそのように報告すると、姑は首をかしげ、両のてのひらをあわせた。そうすると指がやわらかに、羽のようにしなる。夫には遺伝しなかった、美しい関節だ。その指先をおとがいに当てて、姑が言う。あの子はその「治療薬」を、たしか三歳のときから知ってるの、大好きな人に大好きと言われると身体の苦痛が減るということを。
 子どもってよく熱を出すでしょう。熱が出て苦しい状態でがまんしなくちゃいけない時間がけっこうあるのよね。楽になりそうなことはだいたいやって、薬もそれ以上はのまないほうがいい状態。そんなときに枕元にいると、あの子は言うの、ママ大好き、って。最初は寝ぼけてるんだと思った。
 でもね、何度も言うの。断続的に言う。寝ぼけてるだけの発言じゃなかった。大好きって言われてママも大好きってこたえると、熱がすこし下がるんだもの。下がっているように見えるし、あきらかに楽になっている。あれはどういう現象なのかしらね、誰にでも起きることなのかしらね、誰にでも起こりうることだって気がするわねえ、程度の差はあるでしょうけれど。あの子はそれを経験的に知っていて、だからママ大好きって何度も言ったんだと思うのよ。熱を出すたびにね。なつかしいわ、いつから言わなくなったのかしら。中学生くらいから熱を出してもうるさがって看病させなくなったのよねえ。今でも言うなんてねえ。かわいいわねえ。面倒かもしれないけど、できたら相手してやってね。たまのことだから。
 知りませんでした、とわたしはこたえた。あの人が三歳のときから知っていることを、わたし、三十の今まで、知りませんでした。大好きって言われるだけじゃきっと片手落ちなんです。大好きな人に大好きと言って、そうして言われるのが、いいんだと思う。あの人はそんなむつかしいことを、たったの三歳で、よくも会得したものです。保育園で教えてもらったわけでもないでしょうに。わたし、ちっとも知らなかった。愛は最高だけど具体的にはあんまり役に立たないと思ってた。きれいな置物みたいなものだと思っていました。きらきら光る石みたいなものだと。
 姑は笑い、それからてのひらをほどいて、わたしの肩に触れた。役に立つわよ。愛はね、すごく具体的に、役に立つものなのよ。解熱剤みたいに。痛み止めみたいに。心配しなくても、あなただって今までにもきっと人の役に立てたり、人からもらったりしてきているはずよ。

屋根裏の奥の箱

 うん、今日は女子会だから、じゃあね。前を歩きながら夫と通話していた友人のせりふが私の横を過ぎ、雑踏に消えていく。私は首をかしげる。女ばかり三人で週末の夜を過ごすから女子会というのだろうけれど、そもそもどうして性別で区切るのかわからない。友だちはそれぞれ、またその組みあわせによって、話すことがちがう。そのちがいは性別より個人によるもののほうがずっと大きい。今日の三人なら口を開けば小説とマンガと映画の話、合間にふだんの生活についてのエピソード、それについての俯瞰的な意味づけ。あとは選挙が近いから、政治の話が入るだろう。
 食事のあいだの話はだいたい私の予想どおりだった。それなりに頻繁に会う友人であればなんとなし話題の分担をしているものだ。親密さの度合いが高ければなんでも話すというものではない。あまり親密でないからこそおそろしく個人的な話をするようなケースもある。
 そんなだから、友人がこう言ったときにはちょっと驚いた。その小説もそうだし、最近、毒親もの、多いよね、わたしの親もなんだけどさ。そうなんだーともうひとりが言い、私も、へえ、とかなんとか言った。予測していない話題が出たらとりあえずようすを見る。突っ込んで話したいのか、一側面だけを話したいのか、話題に出たコンテンツや何かと関係してポジションを明確にしたいのか。友人はオーブンで焼かれた子羊の骨をつかんで豪快に肉をかじり、フィンガーボールよりおしぼりが二枚あったほうがいいよね、といった。それから私たちの顔を見て話題を戻した。
 それでさ、フィクションでもノンフィクションでも、みんな、自分にとってマイナスになる親を切り離すのにすごい悩むじゃん。わたしはそれが不思議でならないの。もちろん、この親はどう考えてもダメな人だろ、っていうケースもあれば、極悪人じゃないけど相性が最悪なんだろうなっていうケースもある。でも、極悪でもそうじゃなくても、親っていうのは捨てたらだめだってみんな思ってるみたいなんだよね。捨てたらだめだし捨てたくない部分もある、とか、愛されたかったっていう未練があって思い切れない、とか。わたしそれがぜんぜんわかんないの。わたしは彼らのことをあんまり覚えていなくて、早いうちにきれいさっぱり捨てちゃったし、そのあと引きずってたのって、親に対する感情じゃなくて、「ほんとにひどい目に遭った、わたしは運が悪すぎる」とか「親がいないと人生ハードモードな日本社会つらい」みたいな恨みと怒りで、それすらわりと早く薄れちゃった。しかもわたし、おそらくなんにも悪いことしてない妹まで一緒にばっさり切り離して連絡とってないんだよ。そしてそれに対して何ら痛痒を感じないんだよ。それが不思議でさあ。わたしも本来は親きょうだいを捨てるのに葛藤しなきゃいけなかったんじゃないかなーって思うの、毒親もののコンテンツを見ると。
 もうひとりの同席者がテーブルの上の皿をずらして紙切れになにやら描いて彼女に手渡した。見ると昔のファンタジーに出てくるような古い木箱(簡単な線なのにそれとわかるのだ)があって、表面にはよろめく文字で「あいつらはひどいやつだ」と書いてあるのだった。きっと、こういう箱がある、と絵を描いた人が言う。あなたのなかの天井裏みたいなところに。箱は開かない、開かないほうが幸福だから。ただ表面の文字を見てあなたは了解する。そうか、あいつらはひどいんだな、って。それはあなたが七歳のときの字なの。それで、これが十歳のあなたが詰めた箱。これは十二歳のあなたが詰めた箱。あなたの天井裏には、こういうのがいっぱいあるの。だからあなたは彼らのことなんか考えなくてよくて、のらりくらりと幸福に暮らしていられるの。
 私は感心して口をはさんだ。そうだ、そういうことだよ、親を捨てて躊躇も未練もないのは、過去のあなたがそのための箱を残してくれたからだよ。いくつめかの箱には「妹はかまわない」とか書いてあって、その理由は、もうわからないし、わからなくていい。そして、なにも親がどうこうということはなくても、箱を置いた天井裏は誰にでもあるんだ。きっと私にも。そしてその中には、すごく美しいものも、すごく醜いものも、おそらくは入っている。でも私たちはそれを決して開かない。
 私たちの話を聞いていた彼女は、ほとんど無表情のまま、なんとなし愉快そうな気配になり、一度皿に置いた骨をもう一度つまんで、言った。それなら、箱の中には、わたしが殺したなにかの骨も、きっと残っているんだね。

1/103の人間

 あの映画、観たよ、人工知能の、おもしろかった、チューリング・テストって教科書に載ってたよね、懐かしい。そうだっけ、学生時代とかよく覚えてるな、思えば遠くに来たもんだ。十数年後にもこうやってしゃべってるなんて、ねえ。まともに話す相手なんかそんなに増えないから、メンバー交代が少ないんだろ。そうかな、友だちが増えないのはあなたの性格の問題でしょ。
 友だちねえ。友だちを定義しろなんて言わないよね。言わない、自分でする、僕は思うんだけど、人は多くの会話を手持ちのカードを抜き出すみたいな処理で済ませている、相手のためにいちいち発話を創造しようとするのは稀なことで、その相手を僕は友だちと呼びたい。
 いい定義。ありがとう、それで、たいていの人は、友だちなんか求めていない、何らかの機能だけを求めている。あなたの世界観は殺伐としすぎてるよ。そんなことはない、僕はたいへんなロマンティストだ。ロマンティックの定義に多勢との齟齬があるよ。
 賭けをしよう。賭け?そう、人工知能ならぬ、人工無能で。ああ、なんだっけ、かんたんなプログラムで応答を決めるやつか。そう、初対面の人間との会話に特化したものを、趣味で作った。それを使って、わたしが初対面の人と話をするの?逆。逆?そう、きみは人として話す、相手に気に入られるように、感じよく話す、そしてその会話が人工無能で再現できるかを検証する。
 わあ、楽しそう。楽しそうだろ。わたしは女だから、しかるべき場にちょっと加工した写真を載せておけば、山ほど初対面の、ていうか対面すらしてない相手とテキストで話せると思うよ、そして個人と通信日時や方法なんかにかかわる文言を消した雑談のテキストを使って、あなたの指示のとおりに分析する、あなたには判定結果だけを話す。どう?
 そのシチュエーションで「人間」判定が下るのは二割、いや一割だろうな、大半の男は女にセックスと世話しかしか求めてないんだから、人間同士の会話なんか、しない。目的はそうだろうけど、少々の人間らしい会話はするでしょう、いくらなんでも。ともかく、やりとりする期間とルールを決めよう。
 倫理的にはOKかなあ。OKOK、きみはまじめに会話するんだし、気に入ったら会えばいい、まっとうなユーザだ、マルチ商法の勧誘とかがうようよしてるインターネットにあって健全そのものだ、相手の送信したテキストもきみしか見ない。その他の懸念事項としてはですね、結果が、わたしの会話能力に依存するのでは。もちろんする、でも、少なくともきみの発話は僕の人工無能じゃ追えない、それは断言できる。初対面同士でしょう、相手も同じようなものじゃないの。僕は、相手のほうがずっと、人工無能的だと予測する、なぜならきみのことを人間だと思っていないから、そうしてこの世界では、それが当たり前の態度だから。

 発表します、まずはサンプル数、百人目指して、結果的に百三人。それらのうち、人工無能にできない発話を二回以上したのは?ふたり。ふたり!?なんかの間違いじゃないの?わたしもそう思った、でもたしかにそうなんだ、わたしの発話はかなりの割合で「人間」だったのに。きみに人間のように話す男は、百三分の二か。しかも一人は大量の自分語りを一方的にしてきたサンプル、つまり、初対面からの会話として成立する話を「人間らしく」したのは、ひとり。
 すごいな。うん、あなたの予測でさえ、二割はわたしと人間同士のコミュニケーションをしてくれる予定だったのにね。だから言っただろ、僕はロマンティストだって。
 ちなみに、百三分の一の人はぶっちぎりで大量に「人間らしい」発話をしたんだけど、だからってたいした話はしてないの、でもたしかに人間と話してる感じがした。たとえば?えっと、最初にカウントされたのは、「今日はビーサンで会社行きたかった」。ビーチサンダル?すごい雨の日で、水たまりに革靴を突っ込むなんて愚か者の所行だという、そういう意味、そのあと、豪雨のなかで傘を差すとか無意味だし、暑いし、浴びればいいじゃんっていう結論が出たの、その日。
 うん、ばかばかしい、相手から機能を引き出す目的で「雑談」する人は、そういう、些末で意味がなくて個人的な感覚にまつわることを、たぶん言わないんだろう。あのさ、今回の条件って、ちゃんと会話しようとすれば簡単にクリアできるし、人工無能じゃないほうの人工知能だってクリアしてくれるよね。そうだろうね、だからきみは、大半の相手から、人工物よりもずっと省エネルギーな対応しか、されなかったんだ、商品を受け取るためにお金を差し出すようなことばしか、受け取っていないんだ。

線形の報酬に関する問題、あるいは努力の正しい報われかたについて

 あの、わたしの、彼氏、マナブさんていうんですけど、サネヨシマナブさん。彼女がはにかんで言い、空中に文字を書く。サネヨシさん、と私は繰りかえす。ちかごろ私の部下の若い女性たちのあいだで交際している相手のフルネームを告げるという妙な流行があって、彼女もそれに倣ったらしかった。言いたくない者が気まずくならないよう気をつけているけれども、私に言うぶんには止めていない。おそらく生涯会わない人の姓と名を知るのは妙に可笑しかった。
 彼、わたしのこと、褒めてくれるんです、と彼女は言う。そうして彼がいかにすぐれた人物で、日々の重圧に耐え重要な仕事をしているか、滔々と話す。私はすこし違和感をおぼえる。この人が一度にこんなにたくさん話すのははじめてだ。ふたりだけで話すのがはじめてだからだろうか。一対一だとこういう人なのだろうか。
 なにかがおかしい、と思う。彼女のせりふは、断片だけ聞くと、惚気に聞こえる。本人も惚気だと思っているのだろう。けれども、惚気というのは、もっと散らかったものだ。理路整然とひとつの場所に向かうことはない。せいぜい「わたしはいかに愛されているか」という場に集約されるくらいで、だいたいは「相手の話をするだけでうれしいから話してしまう」というようなものだ。私の目の前の部下の話はそうじゃない。彼がいかにすぐれているか、もっと言うなら、彼女よりもいかにすぐれているか、という話をしている。
 そう、と私は言う。はい、と彼女はうなずく。上気している。人は恋をするとそわそわするものだ。けれども彼女のそわそわには別のものもまじっている、と私は思う。口に出して恋人と自分のあいだの序列を確認しなければならない、何かが。私はできるだけ軽く言う。そんな立派な人だと、私だったらちょっと気が抜けないなあ、ずぼらだから。そうなんですか、と彼女は目を見開いてみせる。そんなふうに見えませんけど。でも仕事ができる人ってそうかもしれませんね。
 謙遜も相づちも省略して私は言う。叱られちゃいそうだなあ、そういう人と一緒にいたら。叱られちゃうんです、と彼女は言う。わたし、料理もろくにしたことなくって、世の中のこと知らないし、彼、なんでも教えてくれるんです。そう、と私はこたえる。はい、と彼女はうなずく。私は言う。それで、褒めてくれるんですね、彼は、あなたが、彼に教えられたことを、うまくできたときに。
 はい、と彼女は言う。その声音はひときわ輝いていた。私はしばらく、彼女が褒めてもらった内容を聞いた。彼はいつも正しく彼女を導いていると彼女は信じているようだった。私が仕事上で指示したことを私生活でも適用して褒めらたという話が出るに至って、私は確信した。要注意だ、サネヨシ。
 私は彼女に指示を与える。私は彼女の上長だからだ。彼は彼女に指示を与える。おそらく彼にとって恋人は部下のようなものだからだ。教育し指示し正しく導くべき相手だからだ。そういう考えの人間は実はけっこういる。そしてそれにしたがうことに快楽を覚える彼女のような人間も。
 仕事には理不尽が内在している。努力をしても報われるとはかぎらない。自分の手に届かないところでひどい目に遭ったりする。上司がバカだったり、会社が舵取りを誤ったり、業界全体が傾いたり。コントロール不能なできごとにかこまれて私たちは仕事をしている。努力が正しく報われない世界にいる。
 彼女はいかにも勉強ができたであろうまじめな人で、まじめな子、と言いたいくらいの、ある種の幼さを感じさせた。先生の言うとおりにしていい成績を取っているような感じがした。それだから私は少しばかり彼女に申し訳ない気持ちでいた。仕事は受験勉強やダイエットみたいに(一時的にでも)線形に報われるものではないから。上司がバカなだけでひどい目に遭ったりするものだから。
 だから年若くまじめな彼女が「がんばれば報われる」恋愛を求めたのは私のせいでもあるのだ。上司である私や私の所属する会社や私がそのごくごく一部を担っている世界が、努力しただけ認めてくれる相手ではないから。けれども、と私は思う。努力が報われるなんて、嘘なんだよ。努力はみじめに足蹴にされて、それでも価値を持つものなんだよ。あなたはもう大人なのだから、誰かに褒められるために生きていてはいけないんだよ。恋人と自分のあいだに序列をつくる人間はだいたいろくなものじゃない。
 そう思う。でも言わない。今はきっと通じない。私は話しつづける彼女の笑顔を見る。いつも努力してその努力が報われて、だからとても幸福そうな、彼女の笑顔を。