傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

休養の条件

 夏の休暇の予定表が回ってきた。私の職場には盆休みというものがほんのひとつまみしかなく、各自が有給を取る。お盆に合わせたい者とそうでない者がほどよく分散すると管理職は安堵の息をつき、休暇希望日程が集中していて支障が出そうな場合にはメンバーに調整を依頼する。休みを取ろうとしない人には有給の残りをチェックして勧告する。私には信じがたいことだけれども、少数ながら毎年、休もうとしない人がいるのだ。

 休まないなんて、何を考えているのでしょうか。休暇希望一覧に確定部分を書き込んだ状態で上長に提出し、ついでにぼやく。休暇は取るべきです。うちの会社だと、冬の休暇は固定だから、夏だけが自由に取れる休暇じゃないですか。休みを秋に延ばす人もいるけど、要するに年に一度のお楽しみじゃないですか。旅行や帰省をしたり、だらだらしたりすればいいじゃないですか。どう考えても休暇シーズンには働いているより休んでいたほうが良い。でも休みたがらない人がいるのです。休暇は労働者の権利じゃなくて義務にしてほしいくらいです。休まない人に、私が叱られるから休んでくださいって頼んでいいですか。

 上長は私の提出した書類をながめ、いいよお、と言う。うん、僕に叱られるからって言っていいよお。でも槙野さんもちょっと配慮が足りないかもね。

 配慮の内容には人間の能力が出ます、と私は応える。配慮が足りないとしたら私の能力が足りないのです。努力をしたいので、効率よく努力するためにどのあたりの能力が足りないか教えていただけませんか。いいよお、と上長は言う。槙野さんさあ、楽しかったはずのことが楽しくなくなったこと、ない?

 あります、と私は言う。何もかも楽しくないのは疲れているときです。そういうときは休暇を取ってずっと寝てます。どこへも行きません。買い出しにも行かないでネットスーパーを使います。ひどいときは本も読みたくなくて、天井を見てぼんやりして伸びたり縮んだりしているうちに一日が終わります。なんなら数日終わります。

 うん、と上長は言う。それはねえ槙野さんが疲れた状態はイヤだと思っていて、疲れを取りたいから、することなんだよね。疲れたから休む。健全だ。でも休んだらまた疲れに行かなきゃならない。疲れて休んで疲れて休んで疲れて、死ぬまでそれを繰りかえす。槙野さんはそれでOKだけど、OKだと思えない人もいっぱいいるんだ。それなら疲れないようにしようって、自覚しているかどうかはわからないけど、そっちに舵を切る人もいるんだ。

 私はめんくらって、でも、疲れない方法なんて、ありません、と抗弁する。抗弁はひとことで退けられる。死んじゃえばいいじゃん。死んだらなんにもしなくていいじゃん、何ができるできないって考える必要もないじゃん、考える主体がなくなるんだから。でも死ぬの怖いし苦しいから後回しにするとしよう、まあね、なかなか死ぬのはね、決め手がないとね、うん、そしたら次どうするかっていうと、麻痺する。

 麻痺、と私は言う。麻痺、と上長は言う。いちばんわかりやすいのは酒、アルコールは脳を麻痺させる、そのほかにも自分を麻痺させるために使える薬物がある、そういうものを、テンションあげて楽しむためにじゃなく、リラックスのトリガーとしてでもなく、自分を麻痺させるために使う。でもね、もっといいものがあるんだ、依存対象は薬物だけじゃないんだ。

 あのね、休むっていうのは、自分と対話することなわけ。いっぱい休むと自分の状態がクリアになる、感覚が正常に働くようになる。家族と過ごしたり旅行したりするのもそう、自分の近しい人との会話は自分の仕事以外の環境について考えさせるし、旅行は言うまでもなく僕らがものを考える重要な場になる。そして仕事に没頭して仕事のことだけ考えていればそれらから逃げることができる。

 私はぞっとする。それから確認する。自分について考えたり感じたりするのがいやだから、休まないんですか。僕の想像だよう、と上長は歌うようにこたえる。仕事はいいねえ、仕事してれば叱られないもんねえ、仕事してればだいたいOKだもんねえ、いろんなものから免除されるもんねえ、休日返上なんて忠実な感じもするしねえ、「仕事と自分とどっちが大事か」なんて質問は愚問だってたくさんの人が言ってくれるしねえ、自分に大きな傷がついていたって、大きな空洞があいていたって、ほんとうは生きていたくなかったって、感覚や感情から逃げていたって、仕事さえしていれば、ちゃんとした人に見えるんだものねえ。

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美しいものはいつでも遠い

 梅雨だからといって四六時中雨が降っているのではない。今は雨が洗い流したあとに陽の差している美しい午前で、窓の外のごみごみした風景でさえ、内側から発光しているように見える。目の前の景色なのに遠いところのように見える。美しいものはなぜだか遠くにあるように感じられる。すぐに落とすから、化粧は日焼け止め程度にする。ヒールのないサンダルを履く。

 自宅を出る。はす向かいの建物の外階段に青年がふたり座っている。今日は平日だけれど、言うまでもなく、平日に働いている人間ばかりでこの世ができているのではない。青年たちは飲みものを片手に笑顔で語らっている。彼らの視界にわたしが入る。彼らはちょっと首をのばしてわたしを見る。わたしは軽く会釈する。ひとりが会釈をかえす。はす向かいの建物はタイル張りも愛らしい古い個人住宅で、しばらく人の気配がなかった。新しい住民が入ったのだろう。わたしは歩く。角を曲がるとにぎやかな外国語が聞こえる。外国人向けの語学学校があって、生徒たちがたむろしているのだ。彼らはわたしを見る。彼らはみな若い。

 わたしは歩く。道路にはみ出して植木鉢を置いている家の、その植木鉢のあいだにちいさな椅子があって、朝な夕な老人が座っている。彼はゆったりとたばこをふかし、そのほかにはなにもしない。わたしは会釈する。彼も会釈をかえす。わたしはいつか彼と話をしてみたいと思う。わたしには自分よりうんと年上の人間と話す機会がない。初老の者として、老人の先輩に聞いてみたいことがいくつかある。若い人たちの美しさを見てどのように感じるのだろう。人生が目の前を通り過ぎてしまったと感じたのはいつのことだろう。それとも、いまだにそうは感じていないのだろうか。

 わたしは歩く。川を渡る。澄んでいるとはいいがたい東京の川の、それでも昔よりずっときれいになった水面が、直射日光を受けて繊細にまたたく。わたしは区立体育館に入る。プールの入り口に向かう。受付が顔見知りの人でなかったので、こんにちは、と言う。一瞬の硬直ののち、こんにちは、と言ってもらえた。わたしは会釈する。わたしは受付を振り返ってから更衣室に入る。

 帰ってくると、はす向かいの家の外階段には青年がひとりだけ腰掛け、頬杖をついてぼんやりしている。わたしはその下を通り過ぎて自宅に入る。単身者が多数を占めるこのマンションで、わたしは少数派に属する。単身者が多い集合住宅は徹底して他者に無関心で、わたしには都合が良い。妻にも都合が良い。

 定年退職してから二年少々が過ぎた。すなわち、わたしがいつでも女の格好をするようになって二年、妻とふたりでこの建物に引っ越してきて二年、近隣にあった古い持ち家を処分して二年、娘が寄りつかなくなって二年である。

 物心ついたときから、女の格好をすると落ち着く。化粧は楽しい。妻はわりあいに若い時分からそのことを知っている。会社勤めのあいだ、わたしは休日にしかるべき場に出かけ、そこで女の格好をしていた。あるとき妻がその場を見たいというので、連れていった。妻は顔面蒼白となり、しばらく塞いでいたが、そのうち元気になった。

 わたしは長い長いあいだ男の格好をして、そのことに疲れた。ほんとうに疲れた。定年が来たら昼日中から女の格好をすると、ずいぶん前から決めていた。だから娘にも見せた。娘は嫌な臭いをかがされた人のように身を引いた。妻があとから聞いたところによると、女装が嫌なのではないという。都内とはいえ離れたところに住んでいるから、世間体を気にしているのでもないという。醜いから嫌だというのだった。美しい者だけが好きな格好をしていいなんて法があるか、あの子の言うことはむちゃくちゃだ。妻はそう言って怒っていたが、わたしは腹が立たなかった。親の醜いところを見たくないというのはある種の愛情である。わたしが男の格好をして娘に会いに行けば済むことだ。

 そう思ってもう二年、娘と顔を合わせていない。わたしにも後ろめたさがあったのだと思う。妻はよく行事食をつくって娘に届けている。正月にはおせち、三月にはちらし寿司、五月にはちまき。わたしたちに男の子はいないから、昔は作っていなかった。娘に会う口実がほしくて作るのだろうと思う。娘は元気にしているという。元気ならいいと思う。わたしは長いスカートの裾をさばき、サンダルのストラップを外す。わたしの老いた足首、わたしの無骨な足指。ようやく好きな格好ができるようになったとき、人生はすでにわたしの目の前を過ぎてしまっていた。そう思う。だって、美しいものたちが、こんなにも遠い。

世界を見るための窓(無料)

 ちょっと、あんた、最近つきあい悪いわよ。そうよそうよ。同僚がふたり寄ってきて、言う。それから笑う。彼らは私の親しい同僚で、三人で、あるいはそれ以上で、ときどき食事をともにする。

 現代の、少なくとも中年以下の女性がほとんど話すことのない人工的な女ことばを、彼らはときどき使う。たとえば、ストレートに告げるとちょっと重く聞こえそうなことを言いたいときなんかに。彼らのうちひとりは男性でひとりは女性、性別と外見以外はよく似ている。人なつこくフットワークが軽い。合理主義で現実的。人を見限るときにはその判断に時間をかけず、早々に切り捨ててしまう。それぞれが社外に配偶者とひとりの子を持っている。料理が好きで掃除は嫌い、寒さに強く暑さに弱い。

 仕事帰りに彼らと合流する。彼らのうちのひとりが尋ねる。ねえ、なんで、ときどきオネエ口調になるの、今日この人を誘ったときみたいに。ひとりがこたえる。ふだんの俺じゃない人を出したいんだと思うよ。誰でもそうだと思うけど、俺の中にはふだん出してる俺とはちがう部分があって、シチュエーションが許せばそいつを第二の人格みたいに使う。自分の中にふだんの自分とはちがうキャラクターを置いておくのって、なかなかいいよ。ひとりで考えるときにも複数の考え方を対比させることができるから。

 なるほど、と私は言う。なるほど、ともう一人も言う。そうして、私たちは仕事の話をする。私たちは噂話をする。私たちは誰かを褒める。私たちは自分が抱えている問題について話す。そしてたがいの話に感想を述べる。仕事や職場環境についての問題解決はたいてい本人がするので、話を聞いたほうはうなずいて感想を述べるだけである。問題解決を求める同僚ももちろんいるし、そういうときには相談に乗るが、彼らがそれを求めたことはない。私も彼らにそれを求めたことはない。

 なんで話すんだろ。ひとりが言う。相談じゃない話って、なんでするんだろうね。話せばすっきりするからじゃないの、と私はこたえる。問題解決と同じくらい感情の始末って大事だから、抱えてる感情を出すだけでだいぶ身が軽くなるものだと思うよ。それはわかる、と彼女は言う。でも、出すだけなら誰でもいいでしょ。嫌いな人間とごはん食べに行きたくないから、一緒にいて悪くない気分になれる相手であることは前提として、じゃあ、その中でなら、誰でもいいんじゃないかな。どうして、あなたたちなのか。

 窓だからです。もうひとりがこたえる。何の、と訊くと、世界、と彼はこたえる。友人というのは世界を見るための窓なんだ。旅行して見られるのは世界のいろんな景色だよね、それで、世界には景色以外の要素もたくさんある、ものの見方とか、とらえかたとか、そういうやつ。それを見るための窓が、親しく話せる他人だと思うんだ。

 「藪の中」ってあるじゃん、芥川の。映画だとなんだっけ、羅生門?あれって、登場人物三人の視点をぜんぶわかれば、あの短編の世界を理解したことになるわけだよね。それで、現実の世界は短編より複雑だし、人もめちゃくちゃたくさんいるから、ぜんぶの視点は読めない。読んでるうちに寿命が来て死ぬ。だからちょっとしか読めない。

 ちょっとしか読めないのに、油断すると自分と似た人間とばかり仲良くなってしまう。それは自然なことなんだけど、世界をすごく狭いところからだけ見て、それ以外の角度を捨てるってことでもある。それでいいじゃないかという人もいるんだろうけど、俺はそういうの怖いし、つまんないと思う。三十年とか四十年とか生きた段階でいろんなことに飽きてるのに、世界を見る窓を同じ角度にばかりひらいていたら、死ぬまでもたない。退屈になる。退屈はよくない。とくに心が退屈なのはよくない。

 なるほど、と私は言う。私はその、角度のちがう窓なの?そうだよう、と彼はこたえる。自分と似た人間はラクだし楽しいけど、その楽しさがすぐに目減りしちゃうんだ。ちょっと退屈を感じたら、ちがう角度から同じ話をできる人間を投入する。そうすると自分と似た人間もまた別の顔を見せ、おなじみの話題が別の展開をたどる。ねえ、似た人間ばかりとつるむなんて退屈なことだよ、会社の中でもそうだし、外でももちろんそうだ、会話するのが自分と同じような環境で育って同じようなタイミングで同じような職に就いて同じような生活をして同じような思想を持っている人間ばかりになるなんて、どう考えてもホラーだよ、きっと生きるのがいやになってしまうよ。

一時間一万円で買えるもの

 以前職場にいた人から電話がかかってくる。同世代の知人で個人的に電話をかけてくるのは彼女くらいしかいない。ディスプレイには090ではじまる番号だけが表示されていて、だから私は宅配便か何かの電話だと思って、それを取る。彼女が話しはじめて、そうか、と思う。私には電話帳に登録せず拒否もしていない番号があったんだな、と思い出す。

 一年ほど前にも彼女から電話がかかってきたな、と私は思う。今の職場の人間関係がとてもつらいという意味の話を聞いた。ひとわたり聞いてから、私は力になれないと言って、切った。それまでの経験で、問題解決や気分転換のための提案をしても聞いてもらえることはないとわかっていたし、彼女の気が済むまで繰りかえし話を聞くだけの情愛を彼女に持っていないという自覚もあったからだ。

 このたびの彼女はとても陽気だった。ずっと高揚しているのでなんだか平板にさえ思えるような、そういう陽気さだった。私に関心を示すことなく一方的に話すのはいつものことだ。そういう人はけっこういる。相手に関心がなくても、会話をしている以上、相手の反応を待つ瞬間はある。ところが、彼女の声は私の相槌など聞いていないかのようなリズムで延々と流れていた。私は時計を見た。彼女が話しはじめて八分。完全に一方的な通話としてはかなり長い。

 彼女の話をすこし注意して聞くと、専門用語らしき語がいくつも混じっていた。言い回しはたいそうなめらかで、同じフレーズが何度も登場した。「素晴らしい出会いがあった」と彼女は繰りかえした。その出会いの場について尋ねてみると、彼女はようやく一方的な話を止めた。そうして「カウンセラー養成講座」がきっかけだったと説明してくれた。

 彼女は合計七日間の「養成講座」を終え、「カウンセラー」の名刺を刷ったのだそうだ。当たり前だが商売にはならない。本人が電話で「クライアントさん第一号」として夢中で話していたのは、彼女とも接点のあった同僚のことだった。お世話になった人だから五百円でカウンセリングした、と彼女は説明した。そう、と私はこたえた。彼女が私たちの職場にいたのは十年ちかく前のことだった。彼女が「カウンセラー」になったのは以前私に電話をかけてきてすぐだというから、一年ほど前だろう。私に電話をかけてきた理由は、その「クライアントさん」と連絡が取れなくなったので取り次いでほしいからだそうだ。

 お金なんかそんなにほしくないと彼女は言う。一方で、お金はいずれ湯水のように入ってくるのだと言う。カウンセラー仲間との勉強会が楽しいと言う。みんないい人ばかり、素晴らしい人ばかり、と話す。みんなで目的を達成しつつあるのだという。

 勉強会の会費について、私は遠慮なく尋ねた。一回二万円で、月に二回ほど開催されるのだそうだ。彼女は大人で、自分の稼ぎの範囲の消費をしている、と私は思った。それについてすこし考えた。それから、肯定でも否定でもない相槌をかえした。彼女はまだ話を続けていた。私の相槌は彼女の声にはじきかえされた。私は私の相槌が携帯電話会社がつくった見えない空間の中を永遠に漂うところを想像した。私が彼女に打ったたくさんの相槌が、それぞれ孤独に、どこへも出られずに、ひそかに流れつづけているところを想像した。

 友だちはカネで買える。私だって内面の具合の悪いときにはカウンセリング機関にかかる。そこにはプロフェッショナルがいて私の話を聞いてくれる。たとえばとても辛いできごとがあって、自分の内心が自分の手に負えないとき、そして周囲の人に助けてもらったあとでも始末がつかないと判定したとき、そういう機関はとても便利だ。

 要するに私は、人生のなかで何度か、お金を払って、自分に必要な話相手を借りた。今後も必要があれば借りる。すなわち、一時的に理想の友だちを買うのである。臨床心理カウンセリングとはそのようなものだと私は思っている。

 彼女は私とは別の形で、彼女の理想的な友だちを買ったのだろう。私はそのように考える。買っている自覚がないから悪いとも、わたしには言えない。私は自覚していないといやだけれども、それはただの私の欲望である。彼女の欲望ではない。

 私たちに理想の友だちはいない。当たり前のことだと思う。私たちは他人を頼る。できればたくさんの他人を、いろいろなかたちで頼って、その中にカネを払う相手がいたりいなかったりするのがよい、と私は思う。けれども、それは私の信念にすぎない。そして私は私の信念を彼女に説明する気はない。彼女は私の友だちではないから。

一晩百万で買えるもの

 その家に行って彼女の息子にかまうのは三十分までと決められている。私は小さい子を嫌いではないし、彼女の息子が赤ん坊のころから定期的に遊びに来ているから、たがいに慣れてもいる。それだから三十分が一時間になってもかまいやしないのだけれども、その子の母である私の友人は時計を見て子に宣言するのである。「さやかさんはお母さんの友だちなの。だからお母さんとお話をするの。ひろくんはそろそろ、さやかさんをお母さんに返さなくちゃいけません」。

 子にとって食事をしながらのおしゃべりは「遊び」ではないらしく、「ではママとさやかさんは何をして遊んでいるのか」という問答にいささかの時間を費やした。しかたないよと私は言った。ふだんより凝った食事を作ったり、ちょっといいお酒を持ち寄ったりしながら延々と話している、それが実はいちばんの「遊び」だというのは、七歳にはちょっと早いよ。私たちは、山とか海とか行っても結局のところしゃべってるわけだけど、この子にしてみればハイキングや海水浴や、家にいたらカードゲームなんかが「遊び」なんだから。

 友だちというのは本質的には互いの自由意思で話をする相手だってこと、あと何年かしたら、納得してほしいな。彼女は子を横目で見ながら言う。そしてそれは親にももらえない、どこからも買えないものだと、わかってほしいな。わたしの父、この子のおじいちゃんみたいには、なってほしくないな。

 彼女は資産のある家に生まれた。父親は代々持っている会社を大きくし、その後も潰すことなく、不景気だ不景気だと言いながら、派手な暮らしを継続していた。彼女が小学生の時分に、しばらく母親が遠くの実家へ帰省したことがあった。その後祖母が亡くなったから、長い介護であったのだと、もうすこし大きくなってから理解した。彼女の父は妻の長い帰省を「寛大に許す」男であり、同時に、妻の悲哀や労苦をわかろうとする男ではなかった。それが証拠に、と彼女は思った。お母さんは一ヶ月も二ヶ月も行きっぱなしで、わたしが母のところに連れて行かれることはなく、母はただ疲れた顔で帰ってきて、あちらこちらに頭を下げ、また祖母のところへ戻っていった。

 彼女の父親は保育の心得のある家政婦を雇い、豊富な習い事をさせた。そうして気まぐれに、遊びに行くか、と言った。

 父親の主たる遊びはドライブと海釣りで、背丈の低いスポーツカーのほかに、祖父母を含む家族がみんな乗れる大きな車を持っていた。それでもって海辺に走り、船を出して魚を釣るのである。大きな車を彼女は少し好きだった。そこには母や祖父母が乗っているからだ。

 けれどもその日、大きな車に乗っていたのは、知らない男だった。パパの友だちだよと父親は言った。男の名を聞き、自分の名を名乗り、ちいさく頭を下げると、男は大げさすぎない微笑と口調で彼女の利発さを褒めた。無神経な大人がよくするみたいに突然手をつないだり頭をなでたりもしなかった。皺も白髪もあるのに、奇妙な真新しさを感じさせる男だった。お父さんみたいじゃない、と彼女は思った。父母参観に来る誰かのお父さんみたいでもない。

 船を沖に出すとき、彼女は岸辺にいる。船酔いをするからだ。すこし乗せてもらって、それから降りる。今日は母も祖父母もいない。代わりのように、「パパの友だち」が残った。

 パパの友だちって、ほんとですか。そう尋ねると男は、もう敬語が使えるのか、と感心してみせて、それから言った。お嬢さんはとても賢いから、正直に言おう。僕はパパのほんとうの友だちじゃない。パパは僕が働いているお店に来てたくさんお金を遣う。だから僕はパパの友だちのような顔をするんだ。世の中にはそういう仕事があるんだよ。そのことをどう思う?

 それで、七つのあなたはなんと言ったの。そう尋ねると彼女は笑ってこたえた。父をよろしくお願いしますと言ったわ。できすぎているでしょう。でもほんとうなの。

 わたしは大きくなってから、父が銀座で一晩に百万遣うこともあったと聞いた。通い詰めるというほどではないにせよ、いいお得意さんではあったみたいね。高いお店の料金は、美しい女性を侍らせてお酒をのむためだけのお金ではないの。その場が自分にふさわしいもので、その場のみんなが自分によき感情を注いでくれているかのような気分を味わうための代金なの。美しい女性たちが話し相手になる店で影のように控えている男たちは、いっけん裏方だけれど、やっぱり売り物なのよ。休日に客の釣りにつきあうくらいのね。

 父にはもう誰も寄りつかない、と彼女はつぶやいた。お金が減って、母が死んだから、もう、誰も。

すべてのシステムに必要なメンテナンス、あるいは根性の育成について

 今日ぜったい定時で帰ります。残業しません。五分だってしません。

 彼女がそう言うので、もちろんですと私はこたえた。よそはどうだか知りませんが、うちのチームでは定時退社に上司の許可なんか要りません。根回しも要りません。定時が来たら帰るのは当然です。その日に帰ったらまずいシチュエーションでどうしても帰らなければならないときだけ相談してください。

 彼女は晴れ晴れとした顔で、それなら幸いです、と言った。なにか特別なイベントがあるの。誰かが訊くと彼女はいいえとこたえた。運動するだけです。定時に退社してジムに直行して思う存分みっちりやります。最近、いろいろ気ぜわしくって、それから疲れちゃって、一ヶ月も運動してないんですよ。これ以上運動しないと肩こりで死ぬ。

 肩こりでは死なない、と私は思う。けれども、がまんできない程度の不快をすべて放っておいたら、そのうち寿命が縮まるだろう。肩こりなんかたいしたことないから、多少食べものが偏るなんてよくあることだから、睡眠不足なんてあたりまえのことだから、だるいなんて甘えだから。そういうせりふを言う人はだいたい身体を軽視しているのである。不快は身体の声なので、運動不足なら運動を、栄養不足なら栄養を与えないとだめになる。肩こりでは死なないが、肩こりみたいなものを放置しない姿勢は生存に寄与する。

 彼女は若くして自己の維持についてわかっている。身体は複雑なシステムで、何かが欠けても何かが補ってくれるが、不足が長期間にわたって重なると、死ぬ。彼女はまた、精神も同様であることを知っているようだ。直属の上司である私にも堂々と評価ややりがいを求める。私はだから、彼女もその他の部下も、なにかというと褒める。褒めるのはただである。経費がかからない。だいいち、ほとんどの人には褒めるべきところがある。私はよく見て、そしていくらかのことをわかり、褒める。

 精神は複雑なシステムで、欠けたものを上手に補ってくれるが、不足が重なると、死ぬ。精神を蝕むのは身体の苦痛や不具合、それに、他人から認められないことだ。私たちはさまざまなところで人にかまわれる必要がある。毎日他人にかまってもらって、ときどきお金をもらって、それで暮らしていくのがよい。お金は雇用契約を結んで働くともらえる。他人にかまってもらうのは契約ではないから、私たちは人に話しかける。たとえば友人を持ち、たとえば家族をつくる。本などはひらけばいつでも書いた人に(遠隔で)かまってもらえるしくみであり、すばらしい発明だと思う。とはいえ、地産地消というのはマイナスの事象にもあてはまるので、日々の負荷には目の前にいる人からの、職場での負荷には職場での手当てがあると効率がよい。

 私は思うんだけれど、身体の手入れに気を回さない人はだいたい精神の手入れにも気を回さない。また、身体だけ気を遣っていれば健康でいられると思っている人もある。そんなはずはない。すべてのシステムはメンテナンスを必要とする。精神ほど複雑なシステムもなかなかないのに、どうして放っておいていいと思うのか。あるいは他人がどうにかしてくれると思うのか。自分で自分の精神の手入れをしなければならないに決まっているじゃないか。

 私たちの精神は日々試練にさらされて、それでもきちんと機能している、けなげなやつなのだ。生きているだけでけっこうしんどい。私など、服を着るのさえめんどくさい(家ではだいたい着ない)。それなのに、朝起きて職場に行ったりしている(もちろん服を着ている)。さらにめんどうなことやつらいこともたくさんある。たとえば、私たちは人を愛して、同じだけ愛されるということは、ない。相手は他人だからだ。どちらかの過剰が生じるし、なんならぜんぜん愛されない。それどころか、愛するためのエネルギーをうしなってしまうことさえある。これはほんとうにきつい。その毒は徐々に広がり、たとえば他者を傷つけてまわるような人格を作り上げてしまう。

 ジムで何してるのと誰かが訊く。彼女は元気にこたえる。マシントレーニングと、最近はボクササイズをやってます。サッカー部だったんですけど、就職してから集団で運動する余裕がなくて。そうか、だから根性があるのかな、と誰かがこたえる。

 根性は適切な鍛錬によってつき、メンテナンスによって維持される、と私は思う。自分を大切にし自分の機嫌をとっている人は、長持ちする質の良い根性を育てることができる。自分を苦しめるたぐいの根性は実はとても脆い。そうして、砕けたときに持ち主を深く刺してしまうのだ。

一人称の消失、またはありふれた怪談

 主人を起こす一時間前にそっと起床する。振動のみの目覚ましをセットしてはいるけれども、ほとんどの場合、決まった時間に目が覚める。主人を起こさないようにそっと行動する。洗顔を済ませ、洗面台をタオルで拭きあげ、新しいタオルを出す。洗面所のなかで、昨夜のうちに出しておいた衣服に着替える。
 主人の弁当をつくる。リビングのエアコンをつける。主人の朝食をつくる。仕上げる手前まで作業をし、リビングのカーテンをひらく。朝の光で見える埃をクイックルワイパーと雑巾で拭う。冬はできたての窓の曇りも拭く。主人が使うときに水が出ないよう、あらかじめ蛇口をひねり、少しお湯を出しておく。
 主人を起こす。主人が洗顔を済ませる。主人の着席に合わせて焼いたパンに決まった量のバターを塗り、冷たいサラダとあたたかい卵料理、ミルクまたはジュース、あるいはスープを出す。主人が食べ終える少し前にコーヒーをドリップして出す。主人の着る服を着る順に重ねたものを出す。玄関に回り主人の靴を出す。シューキーパーを外して靴に問題がないか確認してさっと艶出しをする。主人が出勤する。
 靴べらを仕舞う。前日に使用された靴を磨く。皿を洗う。主人が脱いだものを回収し主人が置いたごみを拾う。トーストを焼く。主人の残したおかずとあわせて食べる(主人がトーストを残したらもちろんそれも食べる)。主人のコーヒーの出涸らしで二杯目を出す。ゆっくりと飲む。視界が急に狭くなる。主人の出勤からあとは、飲み物を飲むときにはカップだけを見ていればよい。そのために目も首も動かさなくなり、視界が狭くなる。数分から十分、そのようにする。それから出勤する。

 主人の魚の骨をピンセットで抜く。巨峰の粒にそれぞれ十字の切れ目を入れる。主人はテレビを観ている。その番組がついていると嫌だったころがあったような気がする。今はそうではない。主人が選ぶものは所与の前提だ。山や海があるように、家庭環境もある。変化を察知し対応することはもちろん必要だが、一定の時間、環境は安定している。その環境についてよく知り、適応することが重要だ。

 主人の三食を作り、主人が手をつけなかったメニューはそのあと出さない。メニューはOKでも出し方にNGがあるケースもある。たとえば、骨のある魚は骨のある状態で出さない。熱いものはやけどしそうなくらい熱い状態で出す。さほど複雑なルールではない。実行することは難しくない。

 しかし、ルールは適用されないことがある。また、稀にルール自体が廃止されることがあり、新しいルールが生じることもある。雨が降るようにルールは一時除外され、地割れが起きるようにルールは変更される。雨には傘、地割れには新しい地図が必要だ。すぐにそれらを使用することができるよう、いつも準備している。家事なんてたいしたことじゃない。慣れてしまえばとくにそうだ。それよりも、時折の環境変化に対応することに労力を使う。

 主人の睡眠時間内に寝て起き、主人の在宅時に外出しない。主人の行動を先回りして準備をし、主人が動いたあとをたどって主人の放ったものを拾う。主人のいるときに宅配便が届かないよう気をつける。主人がやむをえず応対すると、あとでひどく機嫌を悪くするから、宅配便を指定した時間帯には手洗いに行かない。

 シャワーの蛇口を絞って、浴場の床に座り、シャワーヘッドをできるだけからだに近づけて入浴する。できるかぎり音を小さくするためだ。節水にもなる。入浴を終えたら主人が使って床に落としたタオルを使ってからだを拭く。髪はことによく拭き取り、そのあとは洗面所を拭き、さらに床を拭く。髪や水滴が残っていないかチェックする。決まった場所に置いた明日のための衣服を確認する。主人の使ったドライヤーのコードを決まったやりかたで束ね、棚に戻す。もちろん使わない。主人が眠っている。主人が夜中に起きてもいいように、台所で氷水を入れた保温ポットとおしぼりを準備し、枕元に置く。主人は眠っている。

 あなたはどうしたいのですか。目の前の知人が言う。主人に確認します。そう答えると、知人は目を閉じ、目をひらき、それから、言う。繰り返しますが、あなたが結婚されている相手ではなくて、あなたの意思を伺っているのです。あなたはどちらがよいかと、あなたはどちらを望んでいらっしゃるのかと、質問しているのです。

 だから、と思う。確認すると言っているじゃないか。わからない人だ。