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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

愛と希望が救えないこと

 わたしは愛と希望で満たされている、のだそうだ。たぶん息子ふたり、夫(むかしは恋人)、あと両親と妹を指しているんだと思う。あるいは仕事があるという意味かもしれない。

 今、ぜんぶ、どうでもいい。

 わたしたち夫婦はどちらかになにかあっても子を育てられると思っている。そうでなければ結婚しない。一生恋人をやっていればいい。でもわたしはもう夫に恋をしていない。ほかの誰かに恋をするつもりもない。恋は強烈に「生きてる」感を与えるけどわりとすぐ消える。まったく永遠ではない。夫を信頼しているし、信頼されていると思う。けれども信頼は気力のブースターとしては出力が低い。そのうえ他人だから苛つくこともある。当たり前だ。

 子は命だというのはかなり嘘だ。わたしは息子たちになにかあったらあやういけど息子たちはわたしがいなくてもどうにかなる。だいたいもう小学生だ。いちばんたいへんな時期は終わった。彼らは自分で着替えるし歯磨きなんかもする。冷蔵庫の中の作り置きをレンジで温めるし、わたしのわからないゲームの話もする。ほとんど一人前だ。

 わたしの両親と妹は都内に住んでいて、子育て世帯の叫びたくなるような不自由を毎月のように緩和してくれている。それでわたしや夫になんの要求もしない。夫の両親は地方にいて、これまたなんの要求もしない。子どもの写真を大きくプリントして送り、夏休みや年末に家族で夫の実家に行くだけでたいそう喜ぶ。みんな腰が痛いだの血圧が高いだの低いだの言いながらしっかりしていて、わたしが心配する必要はない。

 だから今のわたしに安全装置はない。わたしはすごく疲れた。息しかしていない。寝て起きて夕飯の仕込みと洗濯をして(片付けと掃除は夫がする)息子たちに朝食を食べさせて送りだし、出勤し、帰り、息子たちと夕食をともにし、ときどきそれを夫に任せて残業し、寝ている。それで息しかしていないように感じる。愛していても。愛されていても。望んだことをしていても。大きな不幸や抑圧がなくても。

 わたしは、疲れた。ネットスーパーと全自動洗濯乾燥機と学童保育と学習塾をフルに使って、疲れた。夫はロボット掃除機と食器洗浄機を使って疲れているだろうか。それを尋ねる気にはなれない。会話はあるのに。仲も良いのに。

 眠りが途切れてリビングルームに行くとそこは水槽の表面のようで、わたしは、しばらく立っていれば、床が罅割れて溺れることができるんじゃないかと思う。作為には至らない。だから健康なのだと思う。少なくとも病気ではない。わたしは、すごく疲れた。

 そりゃそうだよと友人は言う。私たち、愛とか希望とかで生きてるんじゃないもん。生まれたから生きてるんだもん。忘れたの、思春期に結論出たじゃない。過去の資産を今、引き出して使おうよ。けっこう利子ついてるよ。たぶん複利だよ。

 私たちは定期的に生きてるのめんどくさくてしょうがなくなるし、あなたの結婚相手やご両親や妹さんもそうかもしれない。子どもによっては今の息子さんたちくらいから気配を感じはじめる。なんで生きてるのかなっていう、あのおなじみの疑問の。生きることが目的だから生きる意味はなくて、生き延びちゃったあと気が抜けたら、もうひたすらめんどくさい。

 あのさ、屋根のあるところで寝て起きてごはん食べてるってかなりすごいことだよ。ぜったい疲れる。みんな当たり前みたいな顔して、なんなら働いたり子ども育てたりまでしてるけど、疲れてないわけがない。愛も希望も関係ない。愛は地球もあなたも救わない。とりあえず休みなよ。

 そうか、とわたしはこたえる。そうだったね。わたしたち昔、なんで死なないのかみたいな話、よくしたよね。友人はスマートフォンの向こうで笑う。そもそも、人が愛と希望で生きてるんなら私あなたの半分も生きてないよ。なあに、半分って。えっと、小学生ふたりぶん。

 間の抜けたやりとりをして、わたしもすこし笑う。それから本音の半分をこぼす。家出しようかな。しろしろと無責任に友人は言う。半年くらいならうちにいてもいいと言う。口調は冗談だけれど、行けばほんとうに置いてくれるだろう。死ななきゃなんでもいいよと、手の中の機械が言う。古い友人の声で言う。ちがう。過去のわたしの、気難しい十六歳の声で、言う。死ななければそれでいいと決めたのだった。だからわたしは本音の残り半分をしっかりつかんで閉じこめる。

 

買母の量刑

 ただいまあ、という。おかえり、と返ってくる。週に一度はあまり残業をせず、夕食といってよい時間帯に帰ることにしている。月に何度かは作りたてのごはんを出したいという母と、疲れたら作りたてのごはんを食べたいというわたしの思惑が一致して、なんとなし習慣になった。

 母は台所に立って天ぷらを揚げている。わたしもいい年だし、母はもちろん老婆だから、そんなにたくさんの油ものはいらない。今日はわかさぎをもらって、だから揚げているのだった。ついでにさつまいもを切り、余った野菜でかき揚げもやって、いくらかを半切りにして冷凍しておく。簡単に麺で済ませるときに冷凍の揚げ物があると楽なのだ。緑もほしいわね、大葉の一枚くらい食べられるでしょう。そんなふうに言いながら母は冷蔵庫を探り、天ぷらは結局結構な量になる。

 わたしは寝室で着替え、デスクとして使っているカフェテーブルを居間に持ってくる。おかずをたくさん並べるときにはこれをダイニングテーブルにするのだ。リビングで大根おろしをつくっていると、母が華やいだ笑顔で大皿を持ってくる。箸休めは白菜のゆずびたしとひじきの五目煮、味噌汁は豆腐となめこ、薬味はごく薄切りの白葱、天つゆが強いかつおだしだからか、味噌汁には珍しくいりこを使っている。煮干しの頭と腹を取るのが億劫だからという理由でしょっちゅうは使わない。

 わたしの住居は家族向けではない。友人がそう指摘した。部屋はよぶんにあるけどファミリー向けの物件ではないよね。ものが極端に少ないから一部屋余っているようなもので、そこが「あなたのお母さん」の部屋なわけね。遊びに来た友人はそう言い、そうだよとわたしはこたえた。狭いその部屋が本来は寝室なのだけれども、わたしは広めのリビングの一隅をクローゼットで区切ってベッドを据え、その足下にデスクを置いて、それだけでじゅうぶん、暮らしていかれるのだった。

 わたしの母はわたしの血のつながった母ではない。わたしが昔一緒にいた男の母で、すなわち、いま、あらゆる意味で、他人だ。なんの関係もない。なんの関係もない老婆をわたしは母としてあつかう。なんの関係もない中年女を老婆は娘としてあつかう。そのことについてあらたまって話をしたことは、ない。

 ファミリー向けではない家で余っている狭い部屋が狭く見えないほど母の荷物はすくない。寝具とちいさな古い文机しかないように見える。家具や家電を買おうかといえば、リビングにみんなあるじゃないのと言う。

 母が掃除や洗濯をし、作り置きのおかずを冷蔵庫にしまい、週に一度は食卓をともにするのは、わたしが娘だからだ。けれどもそれは嘘だ。わたしは娘じゃない。ほんとうはぜんぜん娘なんかじゃない。

 母が部屋のあらゆる溝のほこりを取り、長すぎたカーテンの裾を繕い、わたしの好みの銘柄の米をこまめに米屋でひいてもらって土鍋で炊くのは、わたしが生活費をまかなっているからだ。わたしはその金で母を買っている。わたしはわたしの日常をメンテナンスしうるさいことを言わずしかしいつも気にかけてくれている、そういう理想の母であるような女をひとり、金で買っている。

 そのことを人に言いたくない。一人暮らしではないことがわかるといやだから、誰にも家に来てほしくない。ひとりだけ、母がまぼろしでないことを知ってもらいたいような気がして呼んだ。母のいないときに。

 いいじゃん。家に呼んだ友人は実に軽薄にそのように言うのだった。お母さんと暮らしてるってなんで誰にも言わないの。大人同士がおたがいの意思で決めたんなら誰が誰と暮らそうがぜんぜんいいじゃん。どうして他の人には言わないの?なんにも悪くなんかないのに。他人をお母さんにして、それのなにがいけないの?

 友人のせりふを、わたしは頭から追い出す。それから、お母さん、と言う。なあに、と目の前の女がこたえる。音量を絞ったテレビからちょっと目をそらし、わたしを見てすこし眉と口角をあげ、それからわかさぎをひとつ食べて、また、テレビに目を向ける。木曜日から出張だから。わたしは言う。そう、気をつけて行っていらっしゃい。母は言う。適度な無関心と適度な関心がわたしを安心させる。この人が何を考えているかなんてわたしにはわからない。わかりたくもない。わたしはただこの人と暮らしていたい。そうしてそれが悪いことのような気がしている。とても悪いことで、誰かがいつかわたしを罪に問い、量刑を宣言するのだと思っている。

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孤独死OK、超OK

 いつもより早く起きる。川を渡り、友人の家まで歩く。友人の犬を連れて河川敷を走る。犬は往復の道で私を先導し、ときどき私を振り返り、信号ではぴたりと止まる。引き綱をつける必要もほんとうはない。でもつけてほしいと飼い主は言う。顔見知りじゃない人とすれちがってリードのついていない犬がいたら安全じゃないような気がするでしょう。

 犬は散歩用の綱をつけるとき、顎を上げて協力する。とくにいやではないようだ。それどころかちょっと笑う。この犬にかぎらず、犬は、笑う。私にはそのように見える。口角を上げ、目を三日月にして、犬は笑う。そうして私の手や顔をぺろりとなめる。

 ありがとう、と友人が言う。彼女の犬は定位置でくつろいでいる。主が半月ぶりに戻った日の飼い犬のふるまいとしてはたいへんクールだ。彼女は一年に一度か二度、私を留守居に雇って、朝晩の犬の世話をさせる。「出稼ぎ」のためだ。「俳優のディナーショーとかで伴奏するとお金になる」のだという。

 彼女はあんまり労働意欲がない。ふだんは週四日ばかり雇われのピアノ教師をやっていて、ときどき演奏の仕事をする。「一日八時間以上働くとか信じられない」という。贅沢には興味がない。相続した町工場は相続する前から閉鎖されていて、からっぽの元工場にはピアノが置いてあり、彼女は階上に居住している。もとは工場の従業員が住んでいたのだという。

 ともに独居で近くに住んでいるという理由で、私と彼女は相互に、死んだら通知が行くようにしている。正確には、生存確認のシステムに応答しないと互いに通知が行くように設定している。死んでいたときの対処も決めてある。いま自宅で死んだら犬の鳴き声とか異臭で近所の人が先に発見する可能性が高いけど、犬よりはあなたをあてにする、と彼女は言っていた。

 彼女が「出稼ぎ」から戻ると、預かっていた合鍵を返す。そのときに彼女の家で豪快な手料理をご馳走になるのが恒例だ。今日は私の仕事が終わるよりずっと早く帰ってきたようで、骨つき肉のシチューが出てきた。ちょっとした洗面器くらいのボウルに山盛りのサラダがついている。犬は骨をもらってせんべいみたいにぱりぱりかじっている。

 今回の雇い主がやたらとプライベートな話を聞きたがる人で、と彼女は言う。ためらいなく骨を手でつかみ、骨についた肉を器用に食べ、話す。ひとり暮らしにものすごく反対するの、まだ見込みはあるんだからがんばって、とか。何を、と私が尋ねると、さあ、と彼女はこたえる。

 同居人が欲しければとうに探しているので、独居は私たちの選択によるものなのだけれども、ときどきそうは思わない人がいる。うぜえ、と私はつぶやく。なあ、と彼女はこたえる。それから裏返った声で一時的な雇用者の真似をしてみせる。今はいいけどね、年とって、一人でいたら、寂しいですよ、ええ、もう、みじめなものですよ、だいたい、まわりに迷惑でしょ、家族に迷惑でしょ、社会にも迷惑かけるんですよ、孤独死するかもしれない。

 孤独死、というところで急に声をひそめ、ひどく重大な秘密を話すような口調になったので、私は笑ってしまう。彼女も笑う。彼女は自宅で不意に死んで腐ろうが犬に食われようが平気だ。私も同じようなものだ。死ぬのはいやだけれども、そのあとのことはとくに心配していない。死んだあとに自分の死体がどうなってもまあいいやと私たちは思っている。人が生きて死んだら迷惑なんかある程度かけるのが当たり前だと思っている。私たちは一人で死ぬより生きているうちに意に沿わない人間関係を持つことのほうがよほどおそろしい。

 孤独死ってあれでしょ、一人で死んで死体の発見が遅れたりすることでしょ。彼女は話す。最低限のことはいろんな人に頼んであるし、書類と費用も用意してあるし、それで一人で死んで何が悪いんだろ。何が問題なのかわからないよ。そんなことより好きなように生きたいよ。それに比べたら死の間際に誰もそばにいないことなんてぜんぜん問題じゃない。OKOK、超OK。

 私はまた笑う。それから思う。幸福な死などない。けれどもどうやら死には序列がある。正確には、序列を想定している人が多くいる。平均寿命より長く生きて子や孫に看取られて死ぬのがまっとうな死で、孤独死は下等だと思っている人がいる。私たちはそれを鼻で笑う。たぶんね、と私は言う。そういう人たちは、私たちのこと、綱をつけずに往来を歩いている犬みたいに思ってるんだよ。私たちの飼い主じゃないんだから、放っておけばいいんだよ。そいつらにしっぽ振っても骨のかけらもくれないんだし。

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飛行機とサンダル

 取引先での会議がいつになく長引いた。彼は腕時計の盤面を視界の端でとらえ、直帰、と思う。よく来る場所だから、道はもう覚えていて、通り道も固定されつつあった。でも、と彼は思う。今日は、帰ってすぐ寝るような時刻でもないから、ちょっとうろうろしよう。

 彼は方向音痴なのに、通ったことのない小さな道に入るのが好きで、気づけば迷っている。道に迷うのが趣味なのかもしれないと思う。さんざんうろついたあと、不意に、もういいや、という気になる。それからおもむろにスマートフォンで現在地を確認する。道草しても遠回りしても文句を言うやつはいない。誰にも責任を取らなくていい。そのような状況をつくることが、彼は好きだった。

 うろうろしているときに彼は、たいていなにも考えていない。最初のうちは考えていることもあるけれども、そのうち無心になる。目的地や美しい眺めみたいなものはとくに必要ない。ただ歩き、知らない路地の、なんということのない景色を流し見て、それで気が済む。

 視界になにかが入る。なにか、見覚えのあるなにか、見覚えのある人、知っている人、あの人。一瞬でそのような情報処理がおこなわれ、彼の頭脳はなにも考えない快楽をもぎ取られる。

 その女性は今日尋ねた取引先で来訪を告げると扉を開けてくれる社員で、あまりにいつも開けてくれるので、彼はなんだか居心地が良くないのだった。受付もないし、同じフロアに来訪相手がいるのだから、人を介する必要はないじゃないかと思う。もう慣れているのだから、ビルのセキュリティチェックを通ったあとは勝手に会議室まで行かせてくれたっていいのに。来訪相手が出てくるという手もある。まあ、来訪相手はなんだか尊大な人物だし、動きが鈍いから、椅子から立ち上がりたくないんだろう。彼はそんなふうに考えている。そんなわけで彼女は彼を気まずくさせる。路地でも反射的に気まずくなり、それから彼は、靴、と思った。

 彼女は野暮ったいパンプスを気持ちよく脱ぎ、別の靴に足を入れて滑らかに身をかがめ、靴紐を結んだ。その靴は使いこまれたジョギングシューズで、「運動靴」ということばを彼は思いうかべた。そんな単語が自分のなかに残っていたことに彼はすこし驚いた。

 あ、と彼女がつぶやき、彼の名を口にして、ぺこりと頭を下げた。彼も頭を下げた。その靴、と彼は言った。考えるより先に発声していた。すごくいいですね。彼女はほほえみ、ありがとうございます、とこたえた。わたしの愛車です。

 彼が茫漠と彼女を眺めていたからか、彼女はすこし低い、やさしい声で話した。自宅まで早足で四十分、雨がひどくなければ徒歩で通勤していること。社内ではいわゆるオフィスカジュアルに合う靴で働いていて、人前で履き替えるのが気恥ずかしいから、こうして近くの路地で履き替えていること。夏はシューズの代わりにいくらでも歩けるサンダルを使っていること。

 彼女のいる会社を訪ねて扉を開けてもらっても気まずいばかりだった。それなのに、なんてすてきなんだろう、と彼は思う。ようやく言語化して、思う。こんなに鮮やかに輪郭が景色から切り出されている人をはじめて見た。

 彼女はあっけなく消えた。消えたのではなくて歩き去ったのだけれど、愛車という比喩にまかれて彼の記憶のなかでは一瞬で路地の向こうに消えたことになっている。

 彼女が夏に履くサンダルはどんなのだろう、と彼は書く。一方的に予期せぬ恋に落ちた人間の多くがそうであるように、彼は落ちつかず、三日もすると、なにを話しても問題のない(役には立たないが害もない)友人にスマートフォンで連絡をとっていた。スポーツサンダルってどんなのかな、見たことない。そのような文言を送信すると、ほどなく返信のメッセージが届く。ぼろいジョギングシューズを車にしちゃう人だからね、サンダルはきっと飛行機だ。かかとに羽根がついてる、一人乗りの飛行機。

 飛行機を持っている人に気に入られるにはとうすればいいんだろう。僕の車は彼女のよりぜんぜん素敵じゃない。飛行機は持ってない。送信。返信。きみの車だってそんなに悪くない、いつも女たちに気に入られていたでしょう。そんなんじゃだめなんだ、そういうので気を引けるタイプじゃないんだ。たぶん。送信。

 返信。きみが二人乗りの飛行機を作ればいいんだよ。靴だけでどこまでも行けるみたいな、自由な人には、二人乗りも楽しいですよって提案すればいい。そういうのって、歩くの嫌いな相手を乗せてあげるより、ずうっと楽しいような気がする。

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つまらない顔

 年に一回、化粧品を買う。毎日きちんと化粧をするのではないから、スキンケアと日焼け止めと粉は買い足すけれども、色を塗るものは一年保つし、なんなら余る。なにごとにも流行はあり、最新の、とは言わないけれども、年に一度、簡易なメイクとフルメイクを更新するくらいの手間はかけようと思っている。

 本質的に化粧を好きなのではない。面倒だと思っている。それだから、年に一度の更新は自力ではない。いつも同じデパートの、化粧品ばかり売っているフロアの、決まった店のカウンターに行く。そうして注文を伝え、普段着とドレスアップ、ふたとおりの化粧をつくってもらう。今回は久しぶりに眉墨を買った。メイクをしてくれている美容部員の女性は私の眉の(多少整えただけの)形状をほとんどそのままなぞり、眉の中央にだけ別の色を乗せた。ご面倒でも二色使いされると、このように瞳が大きく見えます、と女性は言った。眉頭は描かなくていいでしょうかねえ、と私は訊いてみた。眉と眉が離れ気味なので。

 もちろん、そのほうが黄金比に近づきます。異国の祭りの拵えのようにも見える、服でいえばコレクションラインの化粧をほどこした女性が、ゆったりと回答する。ほんとうにそうなさりたいのなら、眉のほかに、そうですね、この部分、いわゆるエラですね、ここを削って、鼻を、幅・高さともに縮めて、二重の幅をすこしだけ広げ、目頭を切り込んで目と目も近づけます。いえいえ、整形じゃありません。メイクでできます。ほんとうです。でも、わたしはそういうのはおすすめしません。手間がかかりますし、だいいち、つまらない顔になります。

 つまらない顔、と私は言った。つまらない顔です、と女性はこたえた。生きている人間は、絵に描いたような造作であれば美しく見えるのではないんです。どこか崩れていて、その崩れかたが魅力になるんです。お客さまの場合は左右の目と眉の距離で抜け感が出ていますから、それを生かすことをおすすめします。一般に欠点とされる特徴を強調したほうが魅力が増すケースはざらです。女優さんだって完全な顔なんかしてません。目は大きければよいのではないし、鼻は高ければよいのではない。同時に、バランスが取れていればよいというものでもないのです。そんなに簡単なら、毎日お客さまに化粧をしているわたしは退屈で絶望してしまいますよ。

 なるほど、と思った。それから十数年ぶりに、モデルちゃんのことを思い出した。

 モデルちゃんというのはもちろんあだ名で、顔だちがあまりに整っているために、誰かが影でそう言いだしたのだった。職業ファッションモデルではなくて、「模範」「模型」というようなニュアンスで、だから職業名の「モデル」とはアクセントがちがう。

 モデルちゃんは私の大学の同級生で、語学のクラスが同じで、あとはとくに接点がなかった。口をきいたこともほとんどない。それでも誰かがあだ名をささやくのが耳に入るくらいには有名な学生だった。正面から見ても斜めから見ても横から見ても絵に描いたような美人顔で、たとえば「彼女の顔を修正せよ」と言われたら困る、と私も思った。直すところが見当たらないのだ。

 絵に描いたような模範的な顔、でも絵に描いたような顔の女の子がいいかっていったら、それはまた別の話。男の子のひとりがそう言っていた。モデルちゃんは完璧な顔してるけど、完璧じゃないのにモデルちゃんより人気がある女の子は何人もいる。内面はこのさい無視して、完全に外見だけの話として。えっと、外見と内面をそこまで明確に切り分けられるかって言われたら、無理なんだけど、とりあえずそれは措いといて、ずっと見ていたい顔とか何度も見たい顔って、模範的な造作じゃないんだよね、実は。それに気づいたのは、もちろんモデルちゃんを見てるから。目に入れば、おお、相変わらず人形みたいだ、と思う。でもそれだけ。

 もとの顔立ちが黄金比で、その上に薄化粧を重ねた、直すところの見当たらない人が来たら、どうやって接客しますか。化粧品カウンターで、私はそう訊いてみた。そんな人はいません、と美容部員はこたえた。生物ですから、かならずアンバランスなところはあります。それを見せないようなメイクをなさっているのだと思います。薄化粧に見せるなんてテクニックとしては初歩です。その顔がお好みならいいんですけど、何かご不満があっていらっしゃったのなら、まず、その方のお化粧をぜんぶ取らせていただいて、それからじっくり拝見します。そうすればかならず見つかります。その人にしかない、美しい欠点が。

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明るい人の明るい理由

 あけましておめでとうございます。あ、アウトだ、これ。

 渡部さんがそう言い、私はあいまいに笑う。視界に入っている他の二人も、おそらく同じような表情をしている。私たちは社内読書部(会社非公式。活動内容・ときどき都合のついた者が集まってランチ会または飲み会を開き、本の話をする。要らなくなった本をやりとりする)の仲間だ。仕事の話より本の話をする、およそ会社の利益には貢献しない集団だけれども、本の話しかしないというルールはとくにないので、なんとなし個人的な話を聞いたりもする。もちろん、個人的な話をいっさいしない人もいる。

 仕事に関係のない本、とくに小説だとか、実用性を持たないとされている本を、大人になってもやたらと読んでいる人間は、おおむね性格がめんどくさい。率直な人、社交的な人、陽気な人もいるけれども、内面を開くと、なにがしか薄暗いものを抱えている。いいもん、と以前の会で誰かが言っていた。どうせわたしは暗い。にこにこして今ふうの格好して人生を謳歌しているそぶりをしていたって、ぱかっと開けばへんなどろどろしたものが入ってる。でもいい。暗い人間だから暗い小説を読んでたのしいんだよ、こんな楽しいことが楽しくなくなるなら明るくなんかならなくてぜんぜんかまわない。

 ところが、渡部さんは平気で、えっ、俺、鬱屈とか、ない、と言うのだった。たしかに渡部さんはたいてい機嫌がよく、たとえば多忙でも、いやあ参っちゃうねえ、などと言ってところどころでのらくらと気を抜き、多忙さに飲み込まれることがない。私は部署が違うのでよくは知らないのだけれども、彼の部下によれば「情緒がただごとでなく安定しており、それだけでも上司として貴重な人」だということだった。その気持ちはわかる。

 お若い頃からそうなんですか、と誰かが訊いた。いくらなんでも青春の蹉跌のひとつやふたつ、あったでしょう。ない、と渡部さんは断定した。俺も小説に出てくるような複雑怪奇な精神状態を味わってみたいと思う。でも、ない。寝て起きたらどうでもよくなるし、寝られなかったことはない。そのせりふを聞いてその場の全員が感嘆した。小学校から大学までサッカー部で、いじめられたこともひきこもったこともなく、適度にもて、友だちがたくさんいるような人間が大量に小説を読み続けているというのは、まったく意外なことだった。しかも、胸躍る冒険物語より、薄暗い、あるいは意味がつかみにくい作品を好むのだ。サッカー部で何の話してたんですかと誰かが訊くと、サッカーの話、と渡部さんはこたえた。そりゃあ、サッカー部で小説の話をするやつはいない。やはり、と誰かがつぶやいた。

 渡部さんは喪中だ。だから、あけましておめでとうございますという文言は本人の言うとおり「アウト」だ。形式上の喪中といってもいろいろあるけれども、渡部さんの場合はつい数ヶ月前に、仲の良かった弟さんが不慮の事故で亡くなったと聞いている。弟さんのエピソードはいくつか聞いたことがあって、もちろん会ったことはないけれども、痛ましいことだと、読書部のみんながおそらくは思っている。

 あけましておめでとうございますって、小正月までだよねえ。一昨日までだ。渡部さんがそう言い、全員がぐっとことばに詰まる。渡部さんはもりもりとごはんを食べ、それから、なに、と訊く。

 みんながためらい、それから誰かが、みんなが思っていることを口にしたほうがいいという結論に至って、そっと言う。いえ、渡部さん喪中じゃないですか、だから、年始のあいさつは誰も、しなかったんですけど。

 あ、と渡部さんはつぶやいた。忘れてた。

 渡部さんは薄情なのではない。どちらかというと人情がありあまっているように見える。家族が大好きで大切にしている。でも、弟さんのことは、忘れたのだ。死んだから。

 近しい人に死なれると、何かを持って行かれる、と私は思う。私たちは関係と感情の動物であり、親しい他者との境界線はよく見るとぼやけている。それを引きはがすと、自分の一部が「もっていかれる」。だから私たちは人に死なれると喪に服し、喪が明けてもぐずぐずと泣く。そう思っていた。

 私は渡部さんを見る。渡部さんはみんなに気を遣わせたことについてさわやかに礼を言い、その話題をすぱんと断ち切った。この人は「もっていかれない」。私はそう思って、すこし寒くなった。生きている人を愛する。死んだら愛さない。忘れる。正しいことだと思う。あまりに正しいものは恐怖の対象になる。誰もこの人の一部になることはできないのだ。誰も。

背泳ぎができるようになった話

 背泳ぎができないと思っていた。

 十九のとき、つきあいでプールに行ったら、予想に反してひどく楽しかった。すぐに競泳水着を買い(つきあいで行ったプールではひらひらしたのがついたセパレートの水着を着たのだけれど、本気で泳ぐためのものではないことは五分で理解した)、区民プールの常連になった。

 当時は平泳ぎしかできなかった。それに、疲れるのは嫌いだった。今でも嫌いだ。それだから、ただだらだらと、タイムも取らず、休憩も取らず、延々と泳いだ。しばらくそうしていると頭のなかまで水洗いしたようになり、「なにもかもどうでもいいや」という気分になる。この「どうでもいい」は投げやりな感覚ではない。「すべてがひとしく無価値であって、自分という存在は偶然に存在しており、それについて責任をとる必要はない。役に立ったり良いものであったりする必要もない」というような、ぼんやりとこころよく、うす明るくてふんわりとした感覚だ。さらに泳ぎつづけると「なにもかもどうでもいい」といった言語すら溶解し、一個の動物として呼吸をするだけの存在になる。

 これは、と十九の私は思った。これは、とても、いいものだ。完全に頭を空にするというのはきっと必要なことなのだ。人間は動物でもあるのに、動物っぽくないところばかりで生きているほうがおかしいのだ。私たちは何らかの手段で一時的に情報を遮断し、自己の内部の言語を溶解させ、動物としての側面を取り戻す必要があるのだ。そう思った。

 走るのも嫌いではなかったし、走ることによっても「なにもかもどうでもいい」感が得られることは知っていた。けれども、走ることについてはささやかながら競技経験があったために、うっかりタイムを気にしたり、距離を稼ごうとしてしまう。つまり、走っているときの私は、何かを考えてしまう。それはそれで悪くないんだけど、頭がからっぽになる気持ちよさはない。それに、雨が降ると面倒だし、真冬は「なにもかもどうでもいい」スイッチが入るまで時間がかかる(たぶん、体温が上がるのに時間がかかるから)。その点、屋内プールにはなんの欠点もない。同じレーンで泳ぐ人々と自分のゴーグルさえまともなら、何ひとつ問題は起きない。

 そんなわけでだらだらと平泳ぎをし続けた。平泳ぎばかり十年近くしていると話すと親しい人たちはものすごく驚いた。どうしてそんなばかみたいなことができるのかと彼らは問い、完全なばかになるためにしているのだと私はこたえた。ゆったり泳ぐクロールもいいものですよとそのうちのひとりが言った。頭の別の部分が空になるかもしれない。

 それはいいなと思ってその人にクロールを習った。二十分でできるようになって、なんだそれは、と思った。教えるのが上手いのかと思って訊いたら、もともとできてた、とその人は言った。クロール用の腕の動かしかた、足の動かしかたをしていなかっただけで、言えばできるんだから、身体はもう学習済みだったんだと思う。一ヶ月に十キロ、少なめに見積もってこの十年近くで百キロメートル。それだけ平泳ぎをしていたらクロールなんか教わらなくてもできますよ。今のは「教えた」んじゃなくて「引っ張り出した」んだよ。

 そんなわけで、平泳ぎにクロールを織り交ぜて泳ぐことにした。私はクロールを気に入った。そうしてまた十年が過ぎた。バタフライには興味がなかった。疲れそうだからだ。私はスポーツにおいて極力疲れないことを望む。仕事で追い込まれると戦闘的な気分になっておおいに戦うけれども、スポーツではまったくその傾向がない。息切れとかしたくない。バタフライなんかぜったい息切れするし一生しなくて良い。

 ところで、リゾートホテルのプールというのはおかしな場所で、プールなのに本気で泳いでいる人はいない。本気で泳ぐための屋内プールがジムに併設されているホテルさえある。海が見える屋外の広いプールで、人々はてきとうに浮いたり沈んだりしている。

 ここにふさわしいのはゆったりした背泳ぎだ、と私は思った。私はできないけど、と思って、それから、十年前のことを思い出した。あれからさらに累計百キロは泳いでいる。それなら、教わる必要もないはずだ。そう思った。やってみた。あっけなく、できた。

 学習ってなんだろうな、と思う。メソッドを頭に入れて練習を繰りかえすのが、きっと効率的なんだろう。けれども、きっと誰にでも、私の「背泳ぎ」みたいなものは、ある。それを引っ張り出すことも、学習と呼んでいいのだと思う。私の「背泳ぎ」みたいなものを持ったまま気づかずにいる人は、きっといっぱいいるのだと思う。