傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ときちゃんの死なない工夫

 ときちゃんはこのあいだ四十三歳になった。一年九ヶ月の無職期間を経て派遣社員として働いている。長々と休もうが満期を待たず辞めようが次の仕事があるのはときちゃんにそれなりの能力があるからで、ときちゃんはそのことをうっすらと自覚している。でもそれがずっと可能とは思わない。ときちゃんは世界のほとんどすべてのものが怖いし、良くしてくれる派遣会社だってその例外ではない。

 ときちゃんは時折だめになる。今回の無職期間は最大の長さでだめだった。ときちゃんは仕事をしたくないのではない。ときちゃんはただ世界が恐ろしく、足がすくんで動けなくなるのだ。

 ときちゃんの生活は質素だ。スーパーマーケットで旬の野菜と半額シールのついた肉を買い、豆腐や納豆や季節の魚を買い、一口しかないコンロで素朴な美味しいごはんを作る。服や靴はこぎれいだけれど、ぜんぶファストファッションのセール品で、それを長く使う。靴の数は三足で、歩けるところには歩いて行く。そうしてURの事故物件を渡り歩いて暮らしている。そんなにハードな事故ではない。独居の高齢者が部屋で亡くなったくらいのやつだ。

 ときちゃんは美味しいものが好きで、こつこつ貯めたお金で友だちと贅沢な食事をする。そのほかにお金のかかる趣味はない。ときちゃんはそこいらでコーヒーを飲んだりしない。ペットボトルの水も買わない。ときちゃんは図書館で本を借り、インターネットに公開されている文章を読む。テレビは持っていない。持っていなければNHKの受信料を払わずに済むからだ。

 ときちゃんはなかなかメールの返信を出さない。めんどくさいのではない。ときちゃんは自分の感情や意見が文字で固定されて相手に届いて取り消せなくなるのが怖い。その怖さがときどき度を超してしまう。下書きがたくさん溜まる。LINEとかはもちろんやらない。怖いからだ。技術的なことは怖くない。でも使うのは怖い。おおまかに言ってソーシャル的なものが怖い。人間関係とか組織とか社会とかが怖い。

 ときちゃんは無職ひきこもりの期間、友だちからメールが来ても返信をしない。友だちは放っておいてくれて、忘れた頃にまたメールをくれる。こんばんは。最近はどう?調子が良くなったらレストランに行こう。ときちゃんみたいな名前なんだ。地球を怖がって、でも離れられなくて、ぐるぐる回る衛星の名前だよ。

 ときちゃんはそのメールに返信を出すことができなかった。ときちゃんはわずかな貯金と保険で食いつないでいて、出かける気にはなれなかった。でもいつかは衛星のレストランに行こうと思った。そこが衛星なら、わたしが今いるのは深海だ。ときちゃんはそう思った。社会は水面にあって、ときちゃんは水の底にいる。働いていて家族や恋人や友だちがいるような人々の世界に向かって、吐いた息の泡がゆらりと上がる。

 ときちゃんは何かというと仕事を辞める。今回はそれが一年九ヶ月におよんだ。ときちゃんは社会に参加したくないのではなかった。ただその不確かさが恐ろしく、また深海に沈み荒波を逃れる能力をそなえていたから、ゆらゆらと沈んでいたのだった。

 深海の暮らしで、ときちゃんはたくさんのブログを読んだ。ブログはすでに固定された、ときちゃんのために書かれたのではないことばで、だからあんまり怖くなかった。そこにはいろいろな人がいて、社会だ、とときちゃんは思った。ときちゃんはそれを読んでいたから、社会から隔絶されたと思ったことはなかった。そうして一年九ヶ月が過ぎ、ときちゃんは深海の底を蹴った。

 ときちゃんのささやかな貯蓄は無職期間にほとんどゼロになっていた。ときちゃんには資産家の両親とか、安定した稼ぎのある配偶者とか、そういうのはいない。だから何人かの友だちは生活の心配をする。ときちゃんは言う。だいじょうぶ。わたしは、あのまま仕事をするほうが、だいじょうぶでなかった。

 ときちゃんは自殺したいと思ったことがない。ただ、疲れてすっと死ぬことはあるかもしれないと思う。それは少しいやだなと思う。だから死なない工夫をする。仕事を辞め、深海に潜る。また仕事をする。ごはんを作る。ときちゃんは世界のほとんどすべてのものが恐ろしいけれども、どこの誰に脅されても「まとも」な生きかた、たとえば一年九ヶ月無職でいないような生きかたをすることはない。そちらの側のほうが自分の死に近いことを、ときちゃんはわかっている。

 ときちゃんは友だちに返信を書く。長い時間をかけて、短いメールを書く。こんばんは。来月にはお給料が入ります。衛星のレストランに行きましょう。

「重いって言われたくない」反対運動

 だって、そんなこと言ったら、重いでしょう。

 彼はそう言った。よく聞くタイプのせりふだ。「仕事内容が重い」などとは異なる用法である。人間関係において相手に過剰な精神的負荷をかけることを指すようだ。そうして、重いという語は、負担というよりもうちょっとあいまいな領域を指すものらしい。若い人のほうがよく使用する気もするが、若者言葉という感じはしない。使用対象は色恋沙汰の相手がいちばん多くて、次に家族、友人などにもまれに使う。

 親密な、あるいは親密さが期待される人間関係において、相手の中で自分の存在がどのようなものかを推し量り、相手の想定範囲内での手間暇しかかけない者であろうとすること。私は内心で「重い」をそのように定義し、ふーん、とつぶやく。彼は少しだけ嫌そうな顔をする。私がいかにもどうでもよさそうな声を出したからだ。私はもっと嫌な顔をしてほしくて、わかんない、と宣言する。

 私にはわからない。相手にとっての自分の存在をつねに推し量るというのがまずわからない。推し量ったってどうせわかんないじゃん、と思う。仕事の相手や公的な関係ではなく、私的な、個人的な関係だというのに、どうしていちいち忖度とやらをしたがるのか。相手の中の自分像なんて自分のアクション次第で変わるので、そのアクションを相手がすでに持つ自分像(しかも確たるものではなく、黙って想像しているだけのもの)にあてはめるなんて愚の骨頂だと思う。相手の中の自分像や自分の中の相手像は、ばんばん流動させればいいと思う。そうしなければ親密さは進化しないし、親密さを捨てたいときや減じさせたいときにも困るだろう。もしも関係の内容を決めておきたいなら、その旨を話して相手の望みを聞いて自分の望みを話して合意を形成すればいいのである。だまってていいことは何もないと思う。

 私はこのような主張を、もう少し口語的な表現にして述べた。彼はたいへんよく社会化された人物で、めったにいやな顔をしない。しないが、このときはあきらかに嫌そうな気配を発した。いくら私が無神経でもその意味はわかる。率直に意見や要望を述べ質問ができる関係ばかりではない、という含みを込めて「重い」という表現を使ったのに、私がそれを丸ごと無視したからだ。

 だってさあ、と私は言う。感情表現や、二人の間のルールに関する話でしょう。ルールやモラルは人ごとにちがうから、確認しなくちゃわかんないし、個人的な関係なのに感情表現が率直にできないなんて、どう考えてもだめじゃん。いや、それがよくあることだって、私も知ってるよ。知識としては知ってる。でも了解できない。権力関係がいびつで、片方が片方を忖度しないと著しい不利益を被るってことでしょう。DVまでいかなくても、何かのプレッシャーがあるとかさ。「重い」とか言って相手を自分の思い通りにしようだなんてろくなことじゃないよ。そんな相手は捨てちまえと思うよ。私はなにしろ隠微な権力を振りかざそうとする連中が嫌いなんだよ。

 彼は言う。権力の不均衡のない関係なんか、ありません。二者が相対すれば必ず力関係が生まれる。遠慮する者としない者、がまんする者としない者。気遣いやがまんを支払って人間関係を買うケースはありふれていて、強弱はあれ、それがゼロの関係は想定しにくいくらいです。嫌われたくないから媚びを売ることくらい、あなたにだってあるでしょう、まさか、ないんですか?それから、誰もが明瞭に意思表示できるとでも思っているんですか?そんなわけないじゃないですか。それどころか自分の行動や感情について説明できない人だっているんです。なんなら自分でもわかってない。そういう人間にはどうしろと言うんですか?

 私は言う。気遣いは必要だよ、人にやさしくするために。やさしくするのは自分の欲望で、親しい人にやさしくしたら自分がいい気分になるでしょ、とってもハッピー。相手がよろこんでくれたら双方ハッピー。OKOK。でもがまんはだめだ。がまんを払って買う関係なんかろくなもんじゃない。それで人格が歪んだ人間を私いっぱい見てきたよ。とてもひどいことだよ。だから全力で否定する。それから自分の感情を把握して意思表示をするのは大人として当然のことじゃないか。できない人がいっぱいいるのは私も知ってる。そんなの修行すればいいと思う。

 彼は今や完全にけわしい顔になり、再度口をひらく。いいねえ、と私は思う。この人もっとこういう顔すりゃあいいのに。私じゃない人にも忖度なんかしなきゃいいのに。そう思う。けれどもひとまずは黙って彼の話を聞く。

たかが容姿

 内出血は重力にしたがって移動する。こめかみを打って二日もすると皮下を流れ落ち、皮膚の薄い目のまわりが赤黒く変色した。血管を破った血がそのあたりに溜まっているのだ。目の下の、いつも隈のできるところに多く溜まり、まぶたの変色とあいまって異国の化粧のようである。怪我から発想した化粧もあるんだろうなとわたしは思う。

 記憶にあるかぎりわたしが顔に痣をつくるのは八年ぶり四度目、うち三回は成人以降である。しょっちゅうではないが、驚き慌てるほどではない。わたしはたぶん不注意なのだ。人より頻繁に怪我をする。小さな怪我で済めばいいやと思っている(大きな怪我をしたこともある。あれは痛かった)。わたしは内出血の状況を検分する。一ヶ月もあればだいたい消えるんじゃないかな、と予測する。

 その状態で職場に行くと親しい先輩が寄ってきて、ふむ、とつぶやいた。寝ぼけてぶつけてしまって、とわたしは言った。先輩はわたしの顔をしげしげと見た。暴力を受けたわけではないんだね。先輩はそう念を押し、わたしはしっかりとそれを肯定する。

 週末が来る。わたしは友人と会う。友人はわたしの顔を見るなり片方の眉を上げ、誰かに殴られたならそう言うように、と平坦な声で告げた。殴られたのではないよとわたしはこたえた。ぶつけたんだ。友人はわたしを眺めまわし、それじゃあ伊勢丹に寄ろう、と言った。おすすめのコンシーラーがあるんだ。

 夜が来る。わたしは恋人と会う。恋人はわたしを眺めまわし、誰の恨みを買ったのか、と訊く。寝ぼけてぶつけたんだとわたしはこたえ、それから、新しいコンシーラーの話をする。ほんの少しのペーストを塗るだけで赤黒さが四分の一くらいになるのだと説明する。恋人はいたく感心して、テクノロジー、と言う。

 わたしは出社する。化粧直しの習慣がないために、コンシーラーはいつのまにか薄れていて、座席の近い同僚が言う。ちょっと、どうしたの、それ、そう、ぶつけたの、だめじゃない、女の子がそんな傷、顔につけて、かわいそうに、早く治るといいわねえ、痕が残らないといいわねえ、たいへんねえ、でも、えっと、大丈夫、そんなにひどくないから。

 わたしはあいまいに笑う。自分の親しい人々がこのようなせりふを言わなくてよかったと思う。この人は、わたしの痣がいやなんだろうけど、わたしはそこまでいやじゃない。そう思う。わたしの顔はわたしのものだと思う。勝手に気の毒がられてもな、と思う。

 わたしは、前歯が五本ないし(差し歯をしている)、髪が大量に抜け落ちたこともある(今はだいたい生えてるけど、なにかというとはげる)。それが醜いと言われやすいことは知っている。だからちゃんと差し歯をつけたり、必要になったらヘアーピースを買ったりしている。けれども、歯や髪がないから自分が毀損されると思わない。不自由ではあるけど、容姿にかかわるからと過剰に取り上げられるのは好きじゃない。たかが容姿だろ、と思う。がたがた言うほどのことか、と思う。

 そう思わない人がいっぱいいるのは知っている。容姿にかかわる瑕疵を重大な問題であるかのように扱う人に、悪意がないのも知っている。彼らはただ心配しているだけなのだ。でもその心配は無用だ。その種の心配をする人が持っている価値観が社会にはびこっていること自体が問題だというのがわたしの考えだからだ。「女はとにかく顔が大切で、痣や傷やシミや皺のない状態を保っているべきで、そうでないのはとても気の毒なことだ、たいへんなハンディキャップだ」という価値観。ばかみたい。

 わたしの前歯が五本折れたのは永久歯が生えてすぐ、まともな差し歯を入れたのは自分で稼ぐようになってからだ。頭部のおよそ半分の髪がなくなったのは中学校に上がる前後だった。わたしはわたしの容姿をあげつらう大人たちに従いたくなかった。わたしの環境はまともではなかった。わたしは日常的に揶揄され侮蔑されていた。おそらくそのために、わたしは彼らの価値観をゴミクズだと決めたのだ。そうしなければ生きていかれなかったのだと思う。起死回生の一発逆転。ついでに自分は美しいと決めた。わたしは美しい、そして美しかろうが醜かろうがお前らにとやかく言われる筋合いはない。思春期にそのような自己処置を施してわたしは完成した。

 わたしは恋人を眺める。恋人はわたしの容姿を褒めそやしている。目のまわりの内出血程度では支障がないようだ。どこまでなら、ないのかな、とわたしは思う。この男はわたしの顔がどこまで崩れたら、わたしをきれいと言わなくなるだろう、と思う。そうなる瞬間を見てみたいものだ、と思う。

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安心を売る

 当日の注意事項は以上です。何か質問のある方はいますか。いませんか。それでは明日、現地で10時にお待ちしています。どうぞよろしくお願いいたします。

 わたしは口をつぐみ、終わり、という合図をする。わたしのそれは手を軽く前に掲げてから元に戻すというものである。課員がざわざわと持ち場に戻る。課長、と声がかかる。いつものことである。同じ部下が同じようすでやってくる。皆がわたしの話を聞いているときではなく、それが終わったあとに。

 はい、とわたしはこたえる。冷たくもあたたかくもない声である。いつも同じ声を出している自信がある。彼は言う。明日は10時に現地集合ですか。わたしはこたえる。10時に現地集合です。それから、「終わり」のしぐさをもう一度して、自席に戻る。

 その部下が配置されたとき、人事がやってきてあいまいなことを言った。研修中は、まじめであったということですが、つまり、なんと言いますか、実業務上ですね、不適応があればお知らせください。わたしはいくつか質問をした。人事の回答はいずれもあいまいなものだった。とりあえずやってみましょう、とわたしは言った。

 彼が配置されたのは定型業務が多いチームだ。久々の新卒ということで歓迎された彼は作業が早く、チェックするとほぼミスがなかった。いい人が来てくれたと、彼の指導役は言っていた。

 問題が起きたのはふた月後である。少しだけ判断基準のあいまいな作業を担当したところ、彼はすべてのプロセスで指導役に確認を求めた。自分で判断するように言うと、今度はその判断の基準の確認を求めた。指導役が苦言を呈すると、発言を順に「確認」したがった。「Aです。そしてBです」といえば、「AはAということですか」「BはBということですか」と繰りかえすのである。手元に完璧なメモを取り、それを復唱する。表情はまったくなく、非常に切羽詰まった雰囲気だけがある。おだやかに話を終えようとしても終えさせてもらえない。強引に終えるしかない。彼の指導役はすっかりまいってしまった。ディスコミュニケーションは人の精神を削る。

 わたしは自分自身のための業務日誌を書いている。その日の日誌をめくると、こう書いてある。

 世界は不確かなものである。目の前に見えるものが他の人にも見えていると、どうして判断できるのか。メモしたことを、ついさっき、目の前にいる上司がほんとうに言ったと、どうして判断できるのか。できない。わたしたちは単に「自分の記憶は正しい、自分のメモは正しい」と仮に決めて生きているだけである。そういう意味では、自分の記憶や自分のメモをうたがう彼は正しい。しかし、その確認を他人に求める段階で、彼は正しくない。なぜなら相手が確認に応じたとしても、それが正しいことを確認するすべはないからである。つまり、彼の行動は論理的に誤っている。論理ではなく感情による行動だと考えるべきであろう。彼はまったくの無表情だが、その行動は感情的なものなのだ。作業中に不安になって、誰かにその不安を解消してほしい気持ちが出てきて、それが彼の確認癖を呼び起こすのではないか。不安が少なければ確認も少なくて済むのではないか。そのための環境を整えることは可能ではないだろうか。

 わたしはその日誌を書いたあと、人事に提出するレポートを作成した。彼には指導をしなければならない。しかしながら、マイナスの感情を伝える叱責は彼にいっそうの不安を引き起こし、彼の内なるパニックを加速するだけではないかと推測する。したがって彼のためにできるかぎり明示的なルールを作り、それに基づいて感情をまじえない指導をおこなう。課長としてのわたしは彼の「想定外」をできるかぎり避ける。

 わたしは少しのあいだ彼を観察し、何度かやり方を変えて対応し、彼と直接接する課員にも説明をした。そうして彼は落ち着いた。落ち着いていつもの仕事をしているときの彼はまったくもって有能であり、確認は通常の成果物チェックだけで済む。企業としてこうした人材を「不適応」とすることもきっとできるのだろう。でもその代わりに彼より有能でない人が来るかもしれない。だからわたしは彼の特性に沿うことを選んだ。彼に安心を提供し、それをもって彼の成果物を買うことにしたのである。たとえば彼はいつもと違う場所で仕事をする前には不安になる。だから「確認」に来る。わたしは一度だけそれにこたえる。ある人が笑顔で少し雑談をしてほしいと感じるように、彼は「確認」によって不安を軽減してほしいと感じる。わたしは前者には世間話をもちかけ、後者には一度だけのオウム返しをする。

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蛮勇と退屈

 職場には男しかいないから、居心地はいいよ、えっと、要するに、ホモソーシャルなんだけどね。

 僕がそう言うと目の前の女が黒いマニキュアを塗った爪をひらひらさせてでかい声で笑った。そして宣言した。なんだ、自覚してるんじゃん、よっ、このホモソ野郎。

 すごいせりふである。完全に罵倒だ。そりゃ、僕が自分で言ったことの引き写しなんだけど、自覚がある人間ならののしってもいいというものではない。というか、自覚があることを示すのは非難を未然に防ぐためなのに、そういう自衛の作法がぜんぜん通用しないのだ。社会性に問題がある。

 いい年をして奇抜な髪型、垂れ目のちょっと変な顔、ひじきみたいなマスカラ、いつも踵のついた靴。とてもよく笑う。誰であっても女性に対しては少し格好つけてしまうところが僕にはあるんだけど、この人はそういう意味で楽な相手だ。女だけど、恋愛対象が女だけなのだ。色恋沙汰に陥る可能性がゼロだとわかっている友だちはラクで、きっとそれは僕が根本的に性差別を除去できていない人間だからだと思う。

 彼女はだいたいの場合ハイテンションで、でも僕らのカップにはお茶しか入っていない。この世には酒とか飲まなくても言いたいことが言える人間がいるんだなと思う。この人にいちばん縁のない単語はきっと「忖度」だ。何でも口に出して話したがるし、他人にもそうしてほしがる。そういうのって僕のまわりではなかなかない。暗黙の了解みたいなものがいっぱいある。同性ばかりの、年齢の幅も狭い集団にいるせいかな、と思う。なんとなく。

 僕は男子校の出身で、大学でも男ばかりのコミュニティにいた。女性の少ない職場に就職して、ふだん仕事でやりとりするのはみんな同性だ。そのうえ男友達と部屋を借りている。似たような人間と寄り集まっているのがラクなのだ。女の人と恋愛をしてもすぐに終わってしまう。

 あのさ、と僕は言う。僕はおっしゃるとおりホモソーシャルでぬくぬくしていて、それが変わることはたぶんない。それがわかっているのに、きみはどうして僕と話をするんだろう。僕は楽しんでるし、きみも楽しんでると思う。それはなんとなくわかる。でもどうしてきみが楽しいのかはわからない。なぜかっていうと、きみも僕と同じように同質性の中にひきこもればラクにちがいないと思うから。職場はまあしかたないかもしれないけど、女友だちがたくさんいて、女の人と恋愛して、ろくでもない男はいなくて、いいよね、きっと素敵だ、とても楽しいと思うよ。

 わたしをなめてはいけない。彼女は今度は笑わずに言う。世界の半分は女ではないとされる者だ。その中でいちばん多いのは男とされる者だ。そしてわたしはうっかりすると女としか口を利かずに生きてしまう。あなたの想像のとおりに。でもそれは素敵じゃない。ぜんぜん素敵なことじゃない。そんなふうに過ごしたらわたしの世界では男というものが個別の人間ではなくてカテゴリになってしまう。そしてそのカテゴリはニュースや文献や統計だけ見ていると「ろくでもない」と感じられやすい。そんなはずはない。いろんな人がいて、時間が経つと変化もするはずだ。

 「男」はいちばんわかりやすい例だけど、それにかぎらずわたしは、カテゴリを使用して個人との対話を捨てる人間になりたくない。人間は全員人間として認識したい。そのためにいろんな人と話す。わたしを殴らない人間で、わたしが話していて楽しい人間を、女とか同世代とか日本人とかに限らず、全人類から探す、そのための努力をちゃんとする。

 そうか、と僕は言う。そうだよ、と彼女は言う。ばかだなあと僕は思う。そんな蛮勇はどう考えてもコストパフォーマンスが悪いと思う。この人はいったい何回「殴られて」生きてきたんだろうと思う。好感を得にくそうな外見で、ゴリゴリのマイノリティで、それを隠す気がなくて、権力や財産を持っているわけでもなくて。それで勇敢だなんて、とても可哀想だ。

 あなただって完全な同質性の中になんかいないじゃない、そもそもわたしと話をしているのだし。彼女がそう言って、僕は我にかえる。そうだ、そういえば僕とこの人はちっとも同質ではない。人間だということくらいしか共通点が見当たらない。

 立派な心がけだね、と僕は言う。立派かどうかはどうでもいいや、と彼女は言う。同じような人間としか話さないでいると、わたし、心が暇になってしまう、そしたら、同質性の高い人々だって上手に愛せなくなるよ、わたしは、そんなのはいやなんだ、自分の世界を退屈な場所にしたくないんだ。

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首切り職人の顛末

 僕が行くのはつぶれかけた会社だ。人の首を切ったりすげ替えたりして企業を生き延びさせてカネをもらう。正確には僕の会社がそのような役割を標榜して僕を送り込み、僕は自分の役割を遂行する。送り込まれた会社は要するに先が長くないと宣告されたようなものだ。だから僕は誰にも歓迎されない。僕を呼んだ人間だってほんとうは僕に来てほしくなんかない。客先に行ってまともな席がなくても僕はうろたえない。椅子はありますかと尋ねる。つまり、椅子のような何かでかまわないのですが。

 たとえば会議室の隅が僕に割り当てられる。非公式に、対面した泥棒にホールドアップの小銭を与えるみたいに。僕はひとりで長机の脚を立て、パイプ椅子を引き、その上にからだをおさめ、ノートPCを起動する。このビルの中で、誰も僕を必要としていない。いつものことだ。白い目に囲まれて誰かの首を切り新しい図面を引いて組織を塗り替えるのが僕の仕事だった。崖っぷちの組織に呼ばれて世界の終わりみたいな会議室や倉庫で彼らの帳簿を見て、あれやこれやと託宣を述べる。

 新卒のときに国内が就職難だったから外資に行った。面接の終わりに外国人たちが「ようこそ」と手を差し出すから僕はそれを握ってにこにこ笑いながらこいつらとは永遠に友だちになれないなと思った。僕は彼らを好きじゃなかった。でも仕事はその都度燃えるような出会いで、僕はいちいち夢中になった。自分の部屋に来てくれたどの女の子より、つぶれかけのどこかの企業のために一生懸命だった。そして一つの仕事が終わるとその企業のことをきれいに忘れた。白い目、パイプ椅子、首切り、徹夜、首切り、徹夜、首切り、ときどきシャンパン。

 もうだめだと思うとありったけの連絡先を使って女の子たちに連絡して、そのうちのだれかとつきあった。何がだめなのか考えもしなかった(ほんとうにだめなときには何がだめなのかもわからないものだ)。長続きはしない。それはまあ、そうだと思う。夜中まで仕事ばかりしている人間への愛をどうやって継続したらいいのか。一緒に過ごす時間がなさすぎる。女の子たちは別れ際にけっこうひどい台詞を口にすることがあって、それはたぶん復讐なのだった。そのなかでいちばん的を射ていたのがこれだ。

 ねえ、きみってろくなものじゃないね。詐欺師というのが言い過ぎならせいぜいまじない師。あなたの断定していることに根拠なんて実はないでしょう。僕は疲れていたから寝そべって女の子の脹脛に頬をつけて女の子の顔だけ見ていた。女の子は笑ってきれいな脚を組んでいて僕のものじゃなかった。そのあとすぐ別の男と結婚したと聞いた。

 まじない師。結局のところ、僕の社会人生活はそういうものだった。最終的には根拠があいまいな内容を、自信たっぷりに断言する。そして他人の人生を左右してしまう。まじない師の首切り職人。白い目、古いオフィスチェア、首切り、徹夜、首切り、徹夜、首切り、ボーナス、首切り、ヴァカンス、文字通りの空白。

 楽しかったな、と思う。人の首を切って切って切りまくって自分の身体を壊しかけるほど働いて僕は楽しかった。休暇の名目で仕事を辞め、ひとりで海外に出てひたすら歩き回り、ばかみたいに大量の本を読んだ。よく眠れるようになって、腰痛とかが治って、すごく健康になった。これまでの人生を反省するみたいな展開は起きなかった。おかしいな、小説ならこういうとき、自分の新しい生き方を見いだしたりするんだけど。

 つまり僕は僕によく似合った人生を送っていたのだ。そう思った。僕が仕事を辞めたのは単にキャリアが二周くらい回って、飽きたからだ。久しぶりにいろんな人に連絡をとって、ねえちょっと聞きたいんだけど、と言った。仕事、飽きない?飽きるよとみんなが答えた。四十にもなればどんな仕事をしていてもたぶん飽きるよ。

 そんなわけで僕は僕の仕事に復帰した。相変わらず人の首を切っている。でも働きかたはだいぶ穏やかになった。それが可能な状況を作った自分を少し褒めたい。仕事に飽きない方法はまだ見つかっていない。でも自分を追い込んで退屈から目を逸らすのが利口な方法じゃないことは理解した。そして僕が目をそらしたかったものには、「人に恨まれるような仕事をするな」とか「家庭を持てば幸せになれる」とか、そういうことばも含まれていると、ようやく気づいた。他人の目なんか気にしないと、自分はすごく強気な人間なんだと、そう思っていたけれど、実は気にしていたみたいだった。いいんだよと僕は言ってやる。自分に言ってやる。おまえは立派なやつだよ、誰にも文句を言われる筋合いなんかない。

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最後の路上飲酒者

 私たちは最後の路上飲酒者である。私たちは桜が咲いているときにはどうしても外で酒を、それも華やかで上等の酒を、複数人で、楽しく飲みたい。それに同意する友人を新しく得ることはきっともうできない。昔はたくさんの人が同意してくれたのに、ひとり抜けふたり抜け、もはや二人だけになった。私たちは歩く。ピクニックのような装備を持って歩く。川沿いを歩く。そこには昔、春になるとたくさんの人が来て、花吹雪を浴びながら笑いさんざめき、そして飲酒していた。今は誰も笑っていない。河原によぶんな空間などなく、効率的に護岸されて作られた道路の上を、人々は足早に通り過ぎてゆく。

 むかし筒井康隆が「最後の喫煙者」という短編を書いていた。その世界では喫煙という愚行が激しく糾弾され、もうあいつら死刑でいいだろ、みたいな雰囲気になる。筒井先生はそのような世界を肯定できず、最後の喫煙者として断固として戦うのである。煙草が排斥されるきっかけは、これといって書かれていなかった。からだに悪い依存性の薬物だということは知られて長いので、排斥されるか否かは社会の気分なのである。そういう小説だった。

 実際に消滅しつつあるのは酒である。煙草は電子煙草の普及により、姿を変えて生き延びた。進化した電子煙草は健康被害が少ない。依存症の治療薬もある。だから排斥されるほどのものではない。そんなものより酒だ。文化だの何だのという言い訳はどの薬物にもつきものだが、酒のそれはしぶとかった。しかし今や、そのヴェールは完全に剥がされた。それは人々の寿命を縮め、人間関係の悪化を招き、のみならず死に至る依存症の原因となる。社会全体の生産性を著しく低下させるものだ。

 けれども良識ある人間は今が過渡期だと知っている。だから禁酒法はない。依存性の薬物はただ厳しく取り締まるだけではいけない。歴史がそれを示している。酒はただ「みっともないもの」「心の弱い人間が頼ってしまうもの」「不衛生なもの」なのだ。酒を飲む人間にも人権はある。それぞれに事情があるのだ。本人のせいばかりではない。古い社会の病理の犠牲者という側面もある。だから寛大な目で彼らを見てあげなければならない。そういう合意が形成されている。

 今年は開花が早い。桜の名所は軒並み人が減って、規制が解除された。千鳥ヶ淵あたりから始まった花見のルールは都市部のほとんどに普及し、花見といえば歩いてするものになった。他者に配慮し、いつもより遅く歩くのが作法である。景色を独占することなく、ゆったりと歩く。立ち止まって写真を撮るのは行儀が悪い上に、映り込む側の不快感に配慮していない。なんとも迷惑なことだから、フォトスポットになっている飲食店にお金を払って入店するよりほかに、カメラを起動する機会はない。教育を受けたまともな人間は人の迷惑にならない歩き方を知っている。そしてそのような人間しか、公の場で花見をするべきではない。

 春になると老いた牛の群れのような人々が桜の下を移動する。その光景を、私は嫌いだった。どいつもこいつも口を開けば迷惑迷惑迷惑、迷惑じゃない人間なんかいるか、と私は思う。だからそいつらの花見が終わってから、数少ない友人と、ゲリラ戦のようにここへ来たのだ。私たちの花見をするために。愚かで生産性のない路上の宴を催す、最後の者たちになるために。

 待って、と友人が言う。私は我にかえる。この道じゃないよ、こっちの岸には座れるところ、ない、川の反対側に行かなくちゃ、さっきの橋は渡っちゃいけなかったんだよ。そうか、と私は言う。あの橋を渡ろう、と友人が言う。そして飲もう、反対側の岸に行けば、みんな道ばたでお酒飲んでるからさ。そうかな、と私はつぶやく。そうに決まってるじゃん、と友人は笑う。あなた去年ここで花を見たんでしょ。私はこたえる。去年じゃないよ、ここでお花見をしたのは三年前、三年もあれば世界は変わるでしょう、そのあいだに世界が路上飲酒をやめても少しもおかしくなんかない。

 私が想像のしっぽを引きずっていることを、誰も気にしない。私たちは橋を渡る。私たちは親水公園のベンチに、あるいは持ち込んだシートに座るたくさんの人を発見する。見るからにほろ酔いで楽しそうだ。ただいま、と私は思う。ただいま、路上飲酒のある世界。私はそのようにしていくつもの世界を渡り歩く。私の頭の中にはたくさんの世界があって、目の前の「現実」はその中のもっとも長く手のこんだバージョンにすぎない。

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