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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

幸福に帰る

 重いでしょう、と彼女が言う。重いねと私はこたえる。ごめんねと彼女が言う。誰かに聞いてほしくて。ひとりじゃ受け止められなくて。
 こういう会話は何度目だろう、と私は思う。何十回もしたと思う。私は、人の話を聞くのが好きだ。何を聞いてもおもしろがっている。おもしろおかしい話じゃなくても、今日みたいに重苦しい話でも「おもしろい」。要するに他人をコンテンツだと思っているのだろう。不幸な話であっても、自分まで苦しくなることはない。その場では喉の奥からなんか上がってくるような感じがするけど、引きずらない。共感能力というものがあんまりないのかもしれない。
 けれども私はそのことを言わない。ちゃんと共感しているいい人みたいな顔をしている。善良で友情あふれるまともな人みたいな顔をしている。そのほうが得をする。友人だからといって自分の卑しいところまで見せる必要はない。そういう種類の嘘はほかにもいくつもついている。積極的な嘘ではなく、誤解を解かないという程度の、嘘。
 かまわないよと私は言う。私はあなたの配偶者と友だちになることはない。だからあなたの配偶者についてどういう話を聞いてもぜんぜん問題はない。受け止めきれない話を聞いたら私みたいに害のない相手に吐き出してすっきりするといいんだよ。あなただけじゃないよ。みんなそうやってバランスを取っているんだよ。
 そうねと彼女は言う。でもねえ、わたし、昔は、そうじゃなかった。好きな人が本人にはどうしようもない要因で過大な苦しみを負っているようなとき、わたしは、誰かに話してバランスを取ろうなんて思わなかった。バランスなんかどうでもよかった。一緒に苦しむことが愛だと思っていた。今でもそう思う。でもしない。夫の苦しみを一緒に苦しんで何もできなくなったりしない。仕事してごはんつくって食べて子どもの面倒みてお盆の帰省の手土産を買ってマンションの自治会の集会に出て、ねえ、わたしは、笑ったりもして、平気でいるの。
 彼女は平坦な声でそのように話して、それから、自分の発言に対する証拠のように、笑う。いつでも出力可能な、健全で歪みのないほほえみ。私たちはとうにそれを習得している。いいことですよと私はこたえる。私たちは自立した大人だから、必ず幸福な状態に帰ってくる。私は思うんだけど、不幸なままでいたら、自立はできない。地盤としての幸福をかためなければ私たちは自立することができなくて、その幸福は、誰かがいてくれるとか何かを持っているとか、そういうのではなくって、生きていることがだいたいいいことだという、確信みたいなものなんだ。
 私たちはもちろんいろんなものを手に入れるし、いろんなものを失う。昔は、すてきだと思った男の人に相手にされない程度のことでも世界が終わるような気がしたものだけれど、今はもちろん、そんなことはひとつの爪痕も残さない。世界は平常に運行される。些末なことだけじゃない。生きていれば思いもよらないことだって起きる。うつくしいことも、恐ろしいことも。人は病気になるし、死ぬこともある。私たちが誰かを愛したって、相手に何ができるわけでもない。愛したって病気になる。愛したって死ぬ。私たちは息がうまくできないような痛みを長く長く感じる。それでも、世界は終わらない。どれほど痛みを感じても、私たちは、幸福に戻るの。そこが私たちの帰るところなの。私たちの幸福は、もう、誰からもほんとうには奪われることがないの。
 私の長い宣言が終わると、彼女は息をついて、そうね、とつぶやいた。それはとても、いいことね。でもわたしは、そんなもの、投げ捨ててしまいたい。自治会役員なんて、手土産の調達なんて、部屋の掃除なんて、できなくなってしまいたい。娘を抱きしめて泣きわめいて過ごしたい。いつもどおり仕事をしているなんてばかみたいだと思う。動揺して仕事に支障をきたすのが愛情だと、どこかで思っている。こんな状況でもごはんがおいしいなんておかしいと思っている。幸福になんか帰りたくないと思っている。
 そうだね、と私は言う。自立した大人であることなんか、投げ捨ててしまいたいよね。私が無神経だったね。いいのよと彼女はこたえる。結局のところわたしは、何もかもうまくやりつづけるんだから。ちょっと拗ねてみたかっただけ。この人はやさしいなあと私は思う。大人になると、感情を吐き出すときにさえ、相手に気を遣う。そんなものこそ投げ捨ててくれたらいいのに、と思う。理解と共感に欠ける私を罵り、おまえはなにもわかっていないと言ってくれてかまわないのに。

「尊い犠牲」候補の反乱

 わたしはその映画、気が進まないな。評判がいいのは知ってるけどね、うん、できがいい悪いじゃなくて、おもしろいおもしろくないじゃなくて、わたし、なんていうか、パニックものの映画、観たくないの、あんまり。怖いんじゃなくて、えっと、怖いのかな、怖いのかもしれないな、映画そのものが、じゃなくって。

 パニック映画の登場人物って、危機に際して真実の愛に目覚めたり、家族を守るために力を発揮したり、するじゃない?わたし、あれがだめなんだよね。そりゃあ、危機的状況で愛は燃え上がるんだろうし、家族の大切さも輝くんでしょうよ。そして彼らは危機を乗り越える。

 そういうの観ると、愛して愛されている人間が生き残るべきだというメッセージを、わたしは感じ取っちゃうんだよね。ほら、わたし、家族とかいないし、作る気もないし、ひとりで生きてひとりで死ぬつもり満々でしょ。そういう人間はただでさえ風当たりが強いんだよ、この国の人は無宗教だっていうけど嘘だよ、「家族教」信者が多数を占めてるよ、ぜったい。家族がない、作る気もないっていうだけで迫害されるんだから。迫害っていうのは比喩だけど、比喩じゃないギリギリの感じだよ、実のところ。

 いい年して家を借りるのにも職場を移るのにも保証人を要求されて、それが親族じゃないととやかく言われて、カネで保証人を引っぱってくればいいところを探せば今度は緊急連絡先とやらを要求されて、それが親族じゃないとまたなんか言われる。めんどくせえ。女だとよけいに、日常生活でもとやかく言われる。父か夫か子に属していないとまともじゃないとでも思ってるんじゃないのか。あいつらの中で父も夫も子もないわたしの人権は目減りしてるんじゃないのか。冗談じゃねえや。

 生みの親を愛さなくてなにが悪い。わたしが十代のころ「あなたも大人になればわかる」って言ってた連中に見せてやりたいよ、二十年後も同じように、いや、ますます確信をもって、親なんか愛せないですねと断言しているわたしを。「自分が親になればわかる」とか言うんだけどねそういう連中は。いいかげんにしろ。

 わたしは愛を否定するつもりはない。わたしだって誰も愛していないのではないし、もちろん、愛してなくたってぜんぜんいいと思う。どちらにしても、家族とその候補である恋人を愛として、それを必須とするような連中を、わたしはぜったいに肯定しない。

 ねえ、フィクションの中の災厄でも人は死ぬでしょ、尊い犠牲とか出るでしょ。わたし、フィクションの多くが採用している価値観のなかでは、真っ先に尊い犠牲になっちゃう人だと思うんだ。だって、家族またはそれに準ずる者への愛の力で危機を乗り越える世界にあって、家族またはそれに準ずる者のない人間は危機を乗り越えられずに死ぬべき者でしょうよ。

 フィクションにあってわたしは、地震で逃げ遅れて最初に死ぬ人間、テロリストが見せしめに殺す人間、怪物の一撃目で潰される人間。どんなによくできたフィクションでも、自分がごみみたいに死ぬ「愛に目覚めない人間」として処理されるであろう世界を、娯楽としてわざわざ摂取する必要はないよ。わたしは彼らの世界では、テロリストの人質になった大勢の人々のあいだからてきとうに選ばれて頭に紙袋をかぶせられてカメラの前で頭を打ち抜かれる役回りの人間なんだから。

 たかが映画、たかが小説、でも、それが受けるのは、みんなの中にある価値観や願望を写しているからだとわたしは思う。多くの人が、危機にあっては愛に目覚めるべきだと思ってる。愛し愛されている者が生き残るべきだと思っている。家族のない人間は家族のある人間より価値が低いと思っている。おあいにくさま、わたしは、誰に愛されていなくても、生き残ってやる。

 わたしはわたしの命を誰にも格付けさせてやらない。他人がわたしを、愛し愛されていないから価値が低いと見積もっても、それを内面化してやるつもりはない。けれどもわたしは彼らの価値観に基づくせりふを大量に浴びてもまったく影響を受けないほどには強くはない。そういうものに接したらやっぱり気分が悪くなる。だから、主要な登場人物がにわかに愛に目覚めたり家族を思って危機を乗り越えたりするフィクションは、避けてるの。

 へえ、危機にあって愛に目覚めたり家族を守るために立ち上がったりしない映画?それなら、わたしも楽しめるかな。いいよ、観に行こう。

JR恵比寿駅23時36分の狼煙

 どうしてこんなところにいるんだろう。そう思う。自分も、向かいの人も。どうしてもこうしても、仕事上の必要がない相手を食事しようと言って呼び出したんだから、当たり前に適当なものを食ってるんだけど、お食事をしませんかという誘い文句の目的が食い物であるはずもない。その、食い物じゃない部分で思う。どうしてこんなところにいるんだろう。
 目の前の席を見る。女が座っている。楽しそうにふたことみこと話し、それから、目をそらす。そらしてもう一度、見る。ほんのすこしうつむく。ほほえむ。何かをかみ殺した口元。ひとつは食材だった動物。もうひとつは察してほしいせりふ。おそらく。
 楽しそうだな、と思う。楽しそうだし、なんだか不安定だ。そういう経験をしたことが、今までにないわけじゃないけど、思春期の病気みたいなもので、あとはだいたい相手をぼうっと見ていた。不思議だからだ。熱病の中にずっといるような人たちがこの世にはけっこういるのだ、と思う。熱病の記憶さえあいまいな中年になってもまだ、いちいちびっくりする。熱病の人をつぶさに見る機会がそれほど多くはないからかな。
 この人は若いから、と思う。でもそれは嘘だ。彼女は一回りも年下ではなくて、こちらはといえば、十年前どころか二十年前から「熱病」の覚えがない。だからたぶん人種がちがう。この人をどこかに連れていこうとすれば簡単なんだろうな、と思う。どうかすると彼女のほうから行きましょうと言うんじゃないだろうか。並んで歩きだすと距離が近い。身長差がちょうどいいな、と思う。極端に背丈があると、小さい人相手には何をするにもかがみこまなくてはならない。動作に邪魔が入るだけで目減りするくらいに衝動のエネルギー値が低いのか、と思う。情熱とかの持ち合わせがあんまりないんだ、年齢のせいだけではなくて。
 顔を離すと視界に彼女のかばんが入る。滑り落ちるのを途中で掴んで彼女の腕に戻す。ごめんなさいと彼女は言う。ごめんなさい、どきどきしちゃって全然だめ。せりふの途中で顔を上げたから語尾が掠れて消えた。耳があまりよくないと言ってあるから彼女はずっと、対面としては大きめの声に調整してくれていて、そういうところは好ましかった。でもそれは好ましいというだけのことだった。
 うらやましい、と思った。どきどきしたい。だめになりたい。まして全然だめになるってどんな感じがするんだろう。話し言葉なのにやけに文法の正確な、語彙の誤りのほとんどない(おそらくは声の調整と同じく、聞き取りが苦手なことに配慮してくれている結果としてよけいにその性質が強まっているのだと思う)この人が「全然だめ」と言う。その動揺が、うらやましかった。
 これは明確に年齢にともなうものだけれども、フィジカルな欲望はあまりない。だから女性に触れる動機は別にある。したいのではなくてできることを確認したいというたぐいの、たちの悪い欲望だ。ごめんなさい、と思う。ひどいことだ、と思う。学生の時分に、カントが「他者は手段ではなく目的でなければならない」と書いた本を読んで衝撃を受けたのに、二十何年経ってこのように接触している相手は明確に手段だ。つまり、自分はまだそこいらの女に好意を持たれることがある、ということを確認する、手段。ひどい話だ。相手に触れたいのではなく、どこまでも触れてかまわないと許可されることを確認したい。そのための手段が、彼女なのだった。
 「手段」が顔を上げる。意思をもった目がふたつ。顔は、きれいだ。多くの人がきれいだと言うような顔じゃなかったら「手段」として不十分だから、そういう相手じゃないとだめなんだ。でも強い意志は怖い。「手段」じゃない部分は怖い。怖いし便利じゃない。だから好きじゃない。
 まったく、ひどい話だ。というか、ひどいのは話じゃなくて、自分だ。改札の内側に押し込んだ女の後ろ姿をぼんやり見ながら、そう思う。女がくるりと振り返る。手を挙げる。手を振る。顔はもうわからない。顔がついているということくらいしかわからない距離が、彼女とのあいだに空いている。彼女は右の腕を垂直に上げ、手首から上だけを一度、ゆったりと回転させた。
 遠くの人に手を振るのはどうしてなんだろう。記号としてはものすごく下等だ。狼煙レベルに雑だ。見つけてほしいというならまだわかるけれども、これから別れる(しかも、なんならもう会わない)相手に手を振るのは、情報量としてゼロだ。ここにいます、という以上の情報がない。そう思う。でもやっぱり、自分でも手を挙げて、振る。狼煙。雑な信号。原初の記号。わたしはここにいます。

わたしたちの不合理な取っ手

 エスプレッソを考えたイタリア人は偉いですね。偉いですよね、こんなに美味しいんだものね。でもこのカップは最悪、あきらかに持ちにくい、とくに、取っ手の穴、圧倒的に、意味がない。たしかに、指は入らないですね。そう、指が入らないんだから、耳たぶみたいな形にしときゃいいじゃん、つまむしかないんだから。耳たぶ。そう、耳たぶ。ねえ、わたしたちふたりで耳たぶつまんでてばかみたいですよ。たしかに。わたしは少しイタリア人を擁護しようと思うんだけど、このカップの構造は、急いで飲むことをアフォードしているのではないですか。
 こうすると、重心が傾くから、こう?そう、取っ手をつまむでしょ、カップが取っ手の反対型に傾くでしょ、だから、さっと飲む。うん、飲んだ、事実として。ねえ、飲むでしょう、それを意図した形状なんじゃないの、深煎りの濃いコーヒーが酸化したら軽い地獄だし、少量で冷めやすいし。そうかなあ、あなたの説を採用するなら、エスプレッソカップはぐい飲みでいいことになる。ぐい飲み。そう、いらねえよ取っ手。どこまで取っ手が憎いんだよ。
 いや、憎んではいない、イタリア人は、ただ気づいていないだけなんだ、コーヒーのんで三百年とかだから、まだ気づいてないんだ、このカップに含まれる不合理さに。あと百年くらいで気づくわけか。そう、あと百年もすれば彼らは気づき、すべてのエスプレッソカップはぐい飲みになる、それを待とう。死ぬよ。死ぬね、あなたも死ぬ、不合理なエスプレッソカップを使い続けたままで死ぬ、でもいいんです、歴史とはそういうものなんだ、こんなものはなくなると思いながら見る視点が提供されたらそれでいいんです。
 コーヒーの歴史って三百年どころじゃないでしょ、もっと長いんじゃないの、昔アラブのえらいお坊さんが飲ませたんでしょ、恋を忘れたあわれな男に。その歌はまちがってて、坊さんが修行の眠気覚ましにしてたんだ、つまり、恋とか忘れる。年、とると、コーヒーなんかなくても、忘れるけど。そうだよ、忘れたらなんであわれなんだよ、そんなもん好きに忘れさせろ。
 思い出した?さあ、どうでしょう。もう一杯もらう?そうだね、あ、すみません、同じものください、彼女にも。ああ、アルコールというダウナー系ドラッグにカフェインというアッパー系を重ねるなんて、不良だ。そんなことはない、きわめてまじめです、あなた酔っぱらうと眠っちゃうみたいだから、コーヒーでも飲ませないと。わたしは、寝ちゃえばいいと思います。あのね、そういう年齢じゃないでしょう、おたがいに。年齢なんか関係ありません。じゃあ、性格、相手にちゃんと意識がないと困る、そういう性格だから、起きていてください。性格か、それじゃあしょうがないな、意識の清明を保ちましょう、あんまり自信ないけど。
 取っ手を貸してください、もう一度。はい、どうぞ、うふふ、人類にはいい取っ手がついていますね。全体に比して小さすぎるけどね。そうかな、じゅうぶんじゃないかな。この取っ手でかまわないのは、相手が協力的なときにかぎる。人類は協力的な相手の取っ手しかつかむべきではないよ。そうだけど、はじめはわからないから。確認すればいいじゃないですか、人類はそのために言語を獲得したのでしょう、意図せず生じる物理的な暴力を排除するために。政治や経済においてはね、でも個人には難しいこともある。そんなことありません、難しくなんかない、誰にでもできることです、言えばいいんです、何でも口に出して、確認すればいい、わたしは、します、もうお食事も終えたことですし、片手、空いてますよね、手をつないでも、いいですか。あなたには恥じらいというものがないのか。ありますよ、失礼な、いやではないのですね。どちらでもかまいません。えっ。手をつなぐことについては、ニュートラルです、あ、もちろん、相手による。
 わたしは、どちらでもよくないです、手をつないでいて、うれしいです。そうですか、何がそんなに可笑しいんですか。だって、手をつないでいいですかという質問に対して、ニュートラルって、ねえ。そうかな、手よりも、そのほかのほうが、いいと思うから、ああもう、何がそんなに可笑しいんですか。ねえ、コーヒー、冷めますよ。まったく、あなたのせいで、いろいろと困る。わたしのせいじゃ、ありません、わたしは、ちゃんと確認してるんだから、そこから先の問題は、あなたのせいです。じゃあ、アラブの坊さんが悪い。その歌の話は嘘じゃなかったの。嘘ですよ、もちろん。

僕の大嫌いなブス

 僕があの人を好きだったのはあの人がブスだったからだ。当の本人が、あっけなく、「きゅうりはみどりいろ」と言うみたいに、「わたしはブスだ」と言っていた。
 あの人は大学の先輩で、まわりにいつも誰かがいた。僕は馬鹿じゃない。趣味も悪くない。本だってけっこう読んでる。そして僕みたいな凡百の「馬鹿じゃない学生」が百人束になったって、あの人にはかなわなかった。
 僕の通っていたいけすかない大学では、馬鹿じゃないのはデフォルトで、そのうえでやたらと付加価値を示すのだった。その付加価値が容姿である者もたくさんいて、だから才色兼備系女子もごろごろしてたんだけど、あの人はそういう女子を取り巻きに従えた文化的女王さまみたいなものだった。僕はそのことがとても誇らしかった。僕はあの人のなんでもなかったけど。
 賢くてきれいな女の子たちがブスをとり囲んで話をしてもらいたがっていた。女の子の誰かがちょっと気の利いたことを言うと中央にいるブスがその女の子に何秒か笑いかける。すると女の子は嬉しそうに頬を染める。変な光景だ。
 あの人はただ頭がいいというのではなかった。もちろんいいんだけど、世の中には芸術を理解する才覚というものがあって、それは知能テストではかる能力とはまったく別のものだった。創作の能力ともちがう。文字で書かれたものであれビジュアルで示されたものであれ、そこから美しさの本質みたいなものをさっと取り上げてよどみなく言語化する能力だ。あの人には生まれつきそれが、髪の先から足の裏まで詰まっているように見えた。
 あの人はいつもへんな服を着ていた。正確には、服だけ見るとへんに見えるのにあの人が着ていると妙にしっくりくる服を着ていた。策を弄してすこしだけ仲良くなれたあと、そういう服ってどこで買うんですか、と訊いたら、たいそう軽蔑した顔になり(すべての表情が刺すような訴求力を持っている人で、わけても軽蔑の表情の威力はひとしおだった。その目で見られるともちろん腹立たしく、それから悪寒すれすれの、妙な気持ちよさがあった)、きみには似合わない、と言った。自分では着ませんけど、と僕は言った。見てて、すてきだなって。
 あの人は僕をはじめて見たみたいに上から下までさっと視線でスキャンし、それから、きみ、わたしが好きなの、と訊いた。はいと僕はこたえた。好きです。きみにその資格はないとあの人はあっけなく言った。きみみたいにきれいな男の子には。きみみたいにきれいで如才なくて何にも困ったことのない男の子には。
 きみはわたしの才能を好きだ。きみにはないものだから。そうしてわたしがブスだからそれをとっかかりにすればわたしのぜんぶが手に入ると思っている。わたしが美しかったらきみはわたしを好きにならない。きみは自分よりすぐれた者が好きなのに、どこもかしこも自分よりすぐれていては恋をすることができない。男だからかな。相手が自分より劣っていないと欲情できない男は多いよ、そういうフェチなんだろうね。趣味の問題だ。そしてわたしの趣味はそれに合わない。
 なにか反論はある、と訊かれて、いえ、と僕はこたえた。ありません。ぜんぶ合ってます、たぶん。自覚しなさいとあの人は言った。自分の欲望を自覚して、それを満たすような相手を探して、その人に合わせて取り繕いなさい。
 つまり僕は僕の浅ましい欲望の構造を丁寧に解説されたのだった。上品に見せている趣味が実は下手物食いだと暴かれたのだった。好きな人から。くやしいからあの人を取り巻いていたかわいい女の子のひとりとつきあった。僕が誰とつきあおうが、あの人にはどうでもいいことだけど。
 久しぶりにあの人のことを思い出したのは、つきあっている女の子が、先輩、結婚したんだって、と言ったからだ。結婚式の写真見る?先輩、きれいよ。
 僕はそれを見たくない。量産型の花嫁になるために厚塗りして「きれい」になったあの人なんか見たくない。どこかのくだらない男のために「取り繕った」顔なんか見たくない。僕があの人を好きだったのはあの人がブスのまま世界とわたりあっていたからだ。あの人は薄口のよくある顔を繕わないからブスなので、塗りたくってそこらへんのばかな男が好きなだせえ服を着たら別にブスじゃない。でもあの人は美意識過剰で、自分の顔が美しくないというだけで底なしの劣等感を持っていた。僕はそれを、自分が解消してあげられると思っていた。だから好きだった。すごく好きだった。もちろん今となってはむかつくだけの過去だ。僕はブスなんか嫌いだ。だから僕は、そんな写真は見ないし、それがこの世にあったこと自体、明日になったら忘れてやるんだ。

わたしの仕事

 夫の転勤にともなって会社員を辞めたあと、大学で専攻していた分野に関連するライターを始めた。独身のころに何度か書いたことがあって、運良く継続的な原稿の依頼をもらえたのだ。ありがたいことにその後、別の媒体からも同様のお話があったけれども、子どもが小さいうちは受注量を抑えていた。家のこともしなければならないし。
 わたしが書いている分野では、昼間に会える取材対象者が多く、文献調査の比率も高く、いつも外に出ていなければいけないのではなかった。そうして書くときは家にいたから、パートよりは自由度が高い。わたしは夫にそのように説明し、夫も了承していた。そういう内職ならやってもいいと。主婦にも道楽のひとつくらいあっていいし、それが小銭になるならきみの気も晴れるだろうからと。
 わたしも夫も子どもがほしかった。結婚してすぐ、たてつづけにふたりできて、とても運が良かった。よかったけれども、ひとりで年子を育てるのはきつかった。誰もがしていることなのに、わたしは能力が低いから、いっぱいいっぱになってしまう。夫の世話もほとんどできなくなってしまった。夫はしばしば不機嫌になり、家のことがおろそかになるなら内職は辞めなさいと言った。もともと趣味みたいなものなんだから。そうねとわたしはこたえた。そのとおりね、もうやめます。
 実際、わたしは独身のころからの延長として書いていた原稿の量をぐっと減らした。それまでのあいだに、わたしの文章は内職代として全額家計に入れるにはそぐわない価格になっていた。夫は一定額を家計の足しにするように告げ、残りは「小遣い」だといっていた。だからわたしはそれを、新しい分野で書くための準備に使った。下の子が小学校に入った年、長いことつきあいのある編集者が連絡をくれた。そろそろ書きましょうか、あなたに頼みたい文章があります。わたしはそれを断った。小学校に入ったあとのほうがたいへんな部分もあることを、上の子の経験で知っていた。
 わたしは自分の責任で書く話を断り、他人の手伝いというかたちで参加した。そのような立場を保っているうちに、子どもたちはあまり手がかからなくなった。今度は、と編集者は言った。今度はあなたの名前で書いてくれますね。署名原稿も書きたいと以前、おっしゃっていたじゃありませんか。準備も下仕事も、もうじゅうぶんでしょう。
 わたしはあいまいに笑う。向かい合っていれば表情でわかってもらえるけれど、電話越しだから、あいまいな笑いに相当する声を出す。そういうことばかりを、わたしは得意だった。そういうことを少しもしなさそうな、無愛想で厳しくて毎回原稿のありとあらゆるところにコメントをつけてくる同世代の女の編集者が、言った。あなたと仕事がしたい。
 仕事、とわたしはつぶやいた。仕事です、と編集者は言った。あなたの仕事を買っているんですよ。わかりませんか。
 相手が編集でなければわたしはまたあいまいに笑って済ませたと思う。けれども、その人は、なにかをつかんでことばにする作業をわたしに発注する人なのだった。それだから、わたしはつい、いつものくせで、ことばを探した。わかりません。書くことは、わたしにとって、とても大切で、お金をいただく責任をいつも感じていて、でも、それがわたしの仕事だと言ってくれた人は誰もいなかった。わたしは書きたかった。家のことと子どものことと夫のことをきちんとすれば書いてもいいんだと思って、がんばりました。家の中では、書くことはわたしの趣味で、道楽でした。家の外では、いただく対価に見合うよう必死でやらせてもらう、わたしの命綱でした。
 編集者はだまって聞いていた。わたしの発言が終わると、ちいさく息をついた。それから、言った。そんなだったら、きっと、さみしかったですよね。
 わたしは不意を突かれた。時間がすっと止まったようだった。そうだ、と思った。わたしはさみしかった。今まで知らなかったけれども、わたしはさみしかった。趣味です道楽です楽しいなあ楽しいなあ家族から趣味を認めてもらえるなんてありがたいことだわねえ。そういう態度を繕ってにこにこ笑ってわたしはいつもさみしかった。わたしはずっと「専業」主婦だった。書くことはわたしの仕事であるはずなのに、わたし自身ですらそう思うことができなかった。いつだって全力で、いただくお金に見合うよう必死に、身を削るように、書いてきたのに。
 仕事、します。わたしはそうこたえる。編集者がふふ、と笑う。この人の笑う声をはじめて聞いた。そう思って、わたしは繰りかえした。わたしの仕事を買ってくださってありがとうございます。一緒に仕事、してください。

愛のもたらす具体的な効用

 痛み止めを使えばすべての痛みが取れるのだと、ぼんやり思っていた。市販薬ならいざしらず、入院して病院で入れてもらうような痛み止めが効けば、苦しくないのだろうと。でもそうじゃないみたいだった。考えてみれば当たり前のことだ。解熱剤があれば熱が出ないのではない。安定剤を使えば安定するのではない。
 けがをして苦しそうな夫を見ながらそんなことを考えた。わたしの共感の能力はあまり高くない。目の前の親しい人が苦しそうだからといってずっと苦しい気持ちになったりはしない。最初の三十分を過ぎたらなんとなしに慣れて、わりと日常的な感覚になる。夫のけがは命に別状のないもので、応急措置も済んだのだから、よけいに平常心だ。
 わたしは驚くほど、親しい人と心をひとつにせず、親しい人の役に立つことがない。愛とかってあんまり役に立たない、というのがわたしの意見だ。愛はすてきだけど、地球を救わない。というか、たいていのものごとを救わない。わたしは夫がけがをしても、ただ手を握り、声をかけ、あたりさわりのないところをそっと撫でることしかできない。それはわたし自身のためにしている行為だ。役には立っていない。
 夫が目をひらく。わたしはちょっとほほえむ。夫もほほえもうとしたようだ。それからなにか言う。耳を近づけると、わたしの名を呼んで、言う。大好き。
 わたしは驚く。夫はふだんから臆面もなく愛情表現をするタイプだけれども、それにしたって交通事故で病院にかつぎこまれてもうろうとしながら口にするせりふではない。そのように驚いているのに、わたしの喉はいつもと同じ返答をいつもと同じように、する。わたしも、あなたが大好き。
 夫の顔色が明るくなった。呼吸が深くなった。わたしはまた、驚いた。その日、カーテンで仕切られた病室の、うす明るくあいまいに閉じた繭のような空間のなかで、同じやりとりが繰りかえされた。大好き。大好き。
 まるで治療薬のようでした。やりとりすると都度、痛みが減っているように見えるのです。わたしがそのように報告すると、姑は首をかしげ、両のてのひらをあわせた。そうすると指がやわらかに、羽のようにしなる。夫には遺伝しなかった、美しい関節だ。その指先をおとがいに当てて、姑が言う。あの子はその「治療薬」を、たしか三歳のときから知ってるの、大好きな人に大好きと言われると身体の苦痛が減るということを。
 子どもってよく熱を出すでしょう。熱が出て苦しい状態でがまんしなくちゃいけない時間がけっこうあるのよね。楽になりそうなことはだいたいやって、薬もそれ以上はのまないほうがいい状態。そんなときに枕元にいると、あの子は言うの、ママ大好き、って。最初は寝ぼけてるんだと思った。
 でもね、何度も言うの。断続的に言う。寝ぼけてるだけの発言じゃなかった。大好きって言われてママも大好きってこたえると、熱がすこし下がるんだもの。下がっているように見えるし、あきらかに楽になっている。あれはどういう現象なのかしらね、誰にでも起きることなのかしらね、誰にでも起こりうることだって気がするわねえ、程度の差はあるでしょうけれど。あの子はそれを経験的に知っていて、だからママ大好きって何度も言ったんだと思うのよ。熱を出すたびにね。なつかしいわ、いつから言わなくなったのかしら。中学生くらいから熱を出してもうるさがって看病させなくなったのよねえ。今でも言うなんてねえ。かわいいわねえ。面倒かもしれないけど、できたら相手してやってね。たまのことだから。
 知りませんでした、とわたしはこたえた。あの人が三歳のときから知っていることを、わたし、三十の今まで、知りませんでした。大好きって言われるだけじゃきっと片手落ちなんです。大好きな人に大好きと言って、そうして言われるのが、いいんだと思う。あの人はそんなむつかしいことを、たったの三歳で、よくも会得したものです。保育園で教えてもらったわけでもないでしょうに。わたし、ちっとも知らなかった。愛は最高だけど具体的にはあんまり役に立たないと思ってた。きれいな置物みたいなものだと思っていました。きらきら光る石みたいなものだと。
 姑は笑い、それからてのひらをほどいて、わたしの肩に触れた。役に立つわよ。愛はね、すごく具体的に、役に立つものなのよ。解熱剤みたいに。痛み止めみたいに。心配しなくても、あなただって今までにもきっと人の役に立てたり、人からもらったりしてきているはずよ。