傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたが憎くはないけれど

 この世には暗黙の了解とされることがたくさんある。彼女はそのルールをこまかく読むことのできる人間である。職においては短いスパンで客先に常駐し、大量の聞き取り調査を実施し、その場その場の暗黙のルールを察知する。暗黙のルールはだいたいの場合、職場を腐らせて生産効率を下げているものなの、と彼女は言う。

 彼女は柔和な印象を与える小柄な女性で、年相応の落ち着いた口調ながら声はややハイトーン、いつもにこやかだ。服装、化粧、表情、すべての要素にそつがない。全身から「自分は脅威を与えない」という空気を発している感じがする。私は彼女を企業忍者と呼んでいる。忍者は企業に雇われて現場に入る。忍者はわずかな期間で人々の不満を聞き取り、組織図にない上下関係や表沙汰にされていない軋轢を察知する。そうして「空気を読まない」業務フロー改善案を提出し、それに見合ったフィーを受け取って、去る。

 おっかねえ女、と私が言うと、怖いのは暗黙の了解に乗っかっている人間の意識のほう、と彼女は言う。人々は「それが普通だ」と言う、「当たり前だ」と言う、言うならまだましで、なんなら自分たちのローカルルールにすぎないものを空や大地のように受け取っている。そちらのほうがよほど恐ろしいことじゃないの、隣の会社に行ったらぜんぜん通用しないことをこの世の真理みたいに思っているなんて。

 彼女は子どものころから身体が小さく、声も小さく、性別は女で、家庭でも学校でも「普通」であれという教育を受けてきた。この場合の普通とは「その場の序列を察知せよ、控えめにしていろ、可愛くしていろ、しかし魅力をアピールしすぎてはいけない、そして補助的な目立たない仕事を進んで引き受け、それを美徳とせよ」という教育である。彼女はまず言われたとおりにした。それからその内実を考えた。その結果、ふざけるな、と思った。要するに弱そうな人間が面倒なことやって卑屈にしてろってことじゃん。そんなの身分制度じゃん。ふざけるな。

 そう、彼女は「普通」を読みこみながら、決してそれを内面化しなかった。それに適応したそぶりをしながら、ずっと怒っていたのだった。小学校五年生の運動会の組体操でクラスメイトにけが人が出るにおよんで、彼女は強く決意した。人間を積み上げてけがをさせるのが「普通」か。それならばわたしは「普通」を憎む。「普通」を手なずけたわたしが内部から「普通」を破壊してやる。

 そうして彼女は企業忍者になった。ここまでなら、めでたしめでたし、である。しかし彼女はなにしろ「普通」を手なずけているので、「普通」を好む人間に愛される。男性たちは彼女のことを、時代に応じた有能さを持ちながら自分をサポートしてくれる恋人候補だと思いこむ。女性たちは彼女のことを、自分の気持ちをわかってくれて一緒にがまんをしてくれる、自分の愚痴を聞いてくれる友人候補だと思いこむ。年にひとりずつくらい、そのようにして彼女を愛する者があらわれる。

 彼女は彼らの相手をする。たいていの場合、うまくいくように見える。しかしあるところで彼らは彼女に負荷をかける。典型的な例は、予定を一方的に変更しつづける、といったものである。彼女は一定期間、にこやかにそれを見のがす。忙しいのね、と言う。すると彼らはほとんど必ず増長する。彼女が自分に合わせることが「普通」と認識する。その瞬間、彼女は去る。失礼な人とはおつきあいできません、とだけ言って、相手の言い訳はひとことも聞いてやらない。相手はびっくりして混乱して傷つく。

 なるほど、たしかに相手は無礼をはたらいた。だからといってその切り捨て方はない。私はそう思う。まずは警告をしてやって、たがいの礼節をすりあわせる、それが人間関係のあるべき姿ではないか。私がそう言うと彼女は善良な笑顔で語る。

 わたしはねえ、運動会の指示をする教師だけじゃなく、組体操でいい目をみようとするやつらも全員憎かったの。見えないところで体重をかけてくる連中、当たり前みたいに踏みつけてくる連中。「それが普通だから」で生きている連中。ほんとうに憎かった。だから乗っかってくる人間を切って捨てて楽しむの。その人たちひとりひとりは、まあ、いい人なんでしょう。彼ら個々人を憎いと思ったことはない。でも増長した彼らを傷つけるのはとても気持ちがいいの。あの瞬間ほどの快感はほかにないの。え?そんなことをしてはいけない?どうして?彼らは「常識を知らなかった」、「空気を読めなかった」、それだけのことでしょう。

かわいいを作れない

 彼女は美容師である。都心の、美容室とギャラリーとファッションブランドが延々と並ぶ街で働いている。彼女のキャリアは結構なものだし、料金も高めなので、主なお客は二十代半ばから三十代の、美容に関心の高い女性だ。キュートなスタイルが得意で、美容室の口コミには「かわいくしてもらった」「大人かわいく」といった文言が並ぶ。

 かわいさは絶対、引き出せます、と彼女は言う。わたしは、とにかくその方のお話さえ伺えれば、かわいくできる自信あるんで、いや、綺麗とかでもいいですけど、ええ、言ってることわかりますよね、うん、かわいいは作れる。

 かわいくできなかった人はいないのかって?あっはっは、いー質問ですねー、うん、ゼロではないっすね。お話さえ伺えればって、さっき言ったでしょ、あのね、世の中には、聞いても聞いても「かわいい」の中身が出てこない方がいらっしゃいます。特定のお客さまの噂話はしない主義なんで、今からする話は、わたしの作り話だと思って聞いてください。

 かわいさというのはですね、まず最初からは誰も持ってないし、ヒャクパー満足ということもないです。直したいとこ絶対あるんで。でも、がんばればかわいくなるし、どんなに恵まれててもがんばらずにかわいい人はいない。自分の生まれ持った顔と身体と、作り上げてきた雰囲気と、美意識と、今の環境と、ぜんぶトータルでね、かわいいを作ってね、まずご自身が「いいな」と思う、自分がアガる。これがかわいいの初歩です。

 かわいいを作れなかったとわたしが思ってる方はですね、かわいさの中身が、なんっつうか、ない。いや、ないフリをしている人はいます、おしゃれに気後れしてるとか、自分はかわいくないと思ってるとか、そんな人はいっぱいいます、人はみなコンプレックスだらけです、むしろ、かわいいはコンプレックスから作れる。そういう話じゃないんです、まあ聞いてください。

 お任せで、という方はけっこういらっしゃいますけど、それってほんとはお任せじゃないんです。「今と違うようにしたいけれど、うまく伝えられない」という意味です。だからお任せでもわたしは話を聞くんです。そしたら、言葉じゃなくても、なんかしら出てくるんで。雰囲気とか表情とかね、わたし、すごい空気読むんで、見るだけでもかなりいろいろわかるんで。ところがね、その方については、やっと得られた情報がこれです。いいですか、言いますよ。びっくりして頭、動かさないでくださいよ。

 いつも相手のことをいちばんに考えて、人に合わせて、相手にかわいいと思ってもらえるやり方で表現したい。

 以上です。「相手にかわいいと思ってもらえるやり方で表現する自分」の中身は出てきませんでした。相手っていうのは、彼氏とか、親とか、友だちとか、いろいろあるんですけど、その想定もないみたいで、とにかくそれ以上は何も出てきませんでした。なんでかって?泣いちゃったんです。お話をはじめて早々に泣いちゃった。美容院で泣く方って実はけっこういるんで、おしゃれって、とっても繊細な問題なんで、泣くこと自体はぜんぜんアリなんですけど、その方は、涙がばーって出てるのに感情が見えないという、えっと、なんていうんですかね、ひとことで言うと「怖い」。感情の種類は見えないのにものすごい圧だけが来るんです、わかります?ばーって。ばーーーって。

 その方の求めている髪型って、わたしには作れないなって思いました。だって、その方じゃなくて、その方の相対する誰かにとっての正解を求めているわけですから。かわいさっていうのは、まず自分あってのものなんで、どんな人間であっても、まず、ご本人が何を好きとか嫌いとか、居心地いいとか悪いとか、どういう気分なのかとか、そういうのがないと、かわいさは作れない。まあ、そうはいっても、わたしもプロなんで、切りましたけど、でも、結果的にそのお客さまに提供できたのは、「青山の美容師がかわいいと言った髪型」だけです。その方のかわいさではないです。わたし的には屈辱です。敗北です。

 結果的に多くの人を納得させる「かわいさ」はあります。でもそれはね、特別にエネルギーがあるとか、時代に合っているとかで、結果的に生まれるものなんで。あのね、「とにかくあなたに合わせます」という人は、誰にも合わないんですよ。何か特別なやり方でその方の中身を探して探して、うまくすくいとってあげたら、その人自身が出てきたかもしれないけど、わたしにはできなかった。わたし、かわいくしてあげられなかった。

野蛮な風穴

 この世には私の知らない複雑なルールがあり、みんなはそれにしたがって事を運んでいる。法律や規約なら書いてあることを読めばよいのだが、そういうのではない。「空気を読む」みたいなやつである。私にはそれが見えない。だからルールを知らないまま、見よう見まねでそれらしくしようとして、よく他人とちがうことをしてしまう。

 人々はそっと私に教えてくれる。ねえ、マキノさん、今日みたいな場ではもちろんスーツがいいけど、そこまでリクルートスーツみたいなのじゃなくていいのよ。あのねマキノさん、この書類にはAと書いてあるけれど、実はAかつBじゃないと基本的に通らないの、明示的にBでもあってほしいと書けないのは、かくかくしかじかの背景によります、了解?

 了解。たいていの場合は。了解できないのはたとえば着座のパーティで年配の男性とそれより若い女性が交互に配置された席に案内され、隣席の男性の一方的なお世話係を陰に陽に強要されるようなときだ(そして陽にした段階で彼らは「気が利かない」と言う)。そういうのは即座に拒否する。完全に、明瞭に、一ミリの譲歩もなく。そういうのじゃなければ、言われたとおりにする。私には、ルールが見えないから。

 そんなわけで、社会に適応している洗練された女たちは、私を野蛮であると言う。洗練というのは明文化されていないルールを細やかに理解し、そのアップデートに追いつく者にだけ許された行為なのである。女たちは私の服装を直す。女たちは私の所作を直す。それは私のナルシシズムのための措置ではない。私をまともに見せるための措置である。

 たとえば私は顔をぶつけたら薬を塗るが、皮膚の変色を化粧品で覆うという発想は出てこない。そのまんま出歩く。そうすると、顔の派手な痣は化粧品で隠したほうがいいと、女たちが教えてくれる。隠したほうがいいよ、みんなびっくりしてしまうからね。そうかいと私は言う。私は顔に痣があっても気にならないけれど(生きていたら痣ができることもある。その箇所が顔であることもある。なんら驚くべきことではない)、みんなはそうじゃないんだな、と学習する。私には、ルールが見えない。

 私に助言を与える女たちは私のこのような鈍さや野蛮さを嫌いではない。彼女たちは賢いので、規範意識の根拠のなさもよく知っている。ある者は、利益を取っているだけよ、と言う。得をするからその場その場で空気を読んでいる、そこに含まれれば理不尽さが一定の範疇であるならば折り合いをつけている。自分の幸福を最大にするために。それは自分の価値観に基づく自分の選択ではあるけれど、でもほんとうに自由に選べたわけではないのよね。それにルールはあまりに複雑で、決して楽々と手に負えるものではない。ときどきすごく疲れて泣きたくなる。

 そんなだから、顔に痣ができても平気でほっつき歩く「非常識な」あなたのことは嫌いじゃない。自分とはぜんぜん違うし、ばかじゃないかと思うけど、ていうか、かなりばかだと思うけど、自分がルールに雁字搦めにされそうなときには、風穴みたいに見えるから。よく考えたら、あなたの顔はあなたものだもんね、あなたの態度はある意味ではまちがっていない。でも人は自分の外見を気にすることが多いし、外見はパブリックなものでもあるの。だから顔にでかい痣つけてのんきに歩いてると外界とコンフリクトを起こすの。痣は醜いとさえ思っていないのがばれないようにしなさいね。

 彼女の言うとおり、私は痣を醜いと思ったことがない。私は反射神経がいたく鈍いので、よくからだのあちこちに痣をこしらえる。紫色だなあと思っていると青くなり、黄色くなって、そのうち消える。人体の神秘である。醜くはないと思う。

 私にだって自意識はある。ナルシシズムもある。外見をアイデンティティに組み込んでもいる。だから朝起きてぜんぜんちがう容貌になっていたらパニックに陥ると思うが、生きていて起きうる程度の変化であればたいして気にならない。しかし人々がぎょっとするというならば配慮してあげましょう。そう思う。世の人はみんな精密にできていて、毎日むつかしいことを考えているのだなあ、と思う。私は彼らの能力を尊敬するけれど、彼らの言うことがいつも正しいとも思わない。

 私は頭の中のルールブックに追記する。顔はできるだけ同じ状態にしておくこと。※ ただし、それは私のやさしさである。私の顔について指図する権利は誰にもない。

羽鳥先生は静かに暮らしたい

 わからない、と同僚が言う。そう、と僕は言う。そして説明をはじめる。僕にとって、わからないのはぜんぜん悪いことではない。その理屈はわからない、というならより多くの説明があればいいのだし、その感覚はわからない、というなら双方が「そんなものか」ととらえておけばOKだと思う。他人と感覚が違うなんて当たり前のことだ。排除や蔑視はされたくないが、共感はとくになくてもよい。

 僕は自分が好ましいと思う環境を作り上げて静粛に暮らすことを人生の主たる目的としている。コンピュータ・プログラミングのゲーム性を好み、それを仕事の一部にしている。世間の人々が家族やお金や名誉や、そのほかのいろいろなものに駆動されていることは知識として知っている。でもその内実はわからない。そういう欲望があんまりないからだ。色恋もどうもよくわからない(正確に言うとわかる部分もあるのだけれど、大雑把に言うと、わからない)。生物との物理的接触はだいたい気持ち悪いし、他人と同じ空間にいるのが好きではない。だから何をどう考えても結婚とか絶対にしたくない。斜めにしても逆さにしても承諾しかねる。四十を過ぎたら他人から交際相手を薦められることがなくなったので、年を取るってほんとうに素晴らしいと思う。

 同僚はそのような僕の性質をもって「羽鳥先生は静かに暮らしたい」というあだ名を僕につけた。動詞の入ったあだ名なんかあるかと思うんだけれど、同僚は澄ました顔で、ある、と断定するのである。新人育成や関連企業でのレクチャーを担当しているから、先生というのはあながち間違いではないのだけれど。

 僕は教える仕事も嫌いではない。ぴかぴかした若者たちが入れ替わり立ち替わりやってきて、一人前になったり、ならなかったりする。彼らの八割がたは僕の感情を読み取ろうとし、そして少なくとも一度は気を悪くしたり萎縮したりする。僕は怒るということがまずないのだから、怯える必要はひとつもないのに。たいていの場合、件の仲の良い同僚がひょいと首をはさんで、こいつのことはぜんまい仕掛けの機械だと思っていればいいんだよ、などと言って、とりなしてくれる。

 でも今年の新人はそうではなかった。とにかく距離が近い。僕はパーソナルスペースが広めで、自動車の隣の席に長時間座っていて不快でない相手がこの世に十人もいない。話すときなどに近寄る人物がいるともちろん身を引く。そうするとたいていの人は物理的な距離を調整してくれる。しかし今年の新人はそうしない。後ずさるとそのぶん寄ってくる。近い。超近い。そしてなんだかくねくねしている。話す内容もよくわからない。個人的なことをよく話す。仕事の能力は高い。

 よくわからない新人はよくわからないまま巣立っていった。僕はいささか安堵して、あれは何だったんだ、とつぶやいた。すると同僚は両手を軽くかざし、羽鳥先生、と言った。あれは狙っている、というやつ。セクシャルな誘惑だよ。あんなにあからさまでわからないのは、なんというかさすが羽鳥だ。しかし俺はそれをとても良いことだと思う。なぜならあの子は恋をしていたのではないから。恋ならね、気づかれないのはかわいそうだけど、あれはそうじゃない、あれは、恋のふりをした、何か。

 何かって何、と僕は訊く。同僚はどう考えても正解を持っている。そういう顔をしている。案の定、笑って回答をくれた。

 あの子が欲しがっているのは保護者だよ。ああしろこうしろと言って、努力したら褒めてくれて、いつも正解か不正解かを判別してくれて、正解への道筋を示してくれて、間違ったことをしたら叱ってくれて、自分に手間暇かけてくれる相手。

 羽鳥はそんな相手、欲しくないだろう。俺も欲しくない。でもいくつになっても保護者を欲しがる人間はいる。そしてそのうちの一部は上司や指導役と恋愛のようなことをしたがる。なぜかというと恋愛は特別な関係だと社会が認めているし、強い感情が生まれやすいから。だから恋人がほしいというより、それをツールにして保護者を得たいということだね。そういう人格が形成されてしまうだけの何らかのできごとがあの子にはあったんだろう。でもそれはまちがっていると俺は思う。そのまちがった学習を否定したいと俺は思う。だからあの子が羽鳥を誘惑することに失敗してくれて嬉しい。あの子もそのうちわかってくれるんじゃないかな。いや、もうわかっているかもしれないな。

 僕にはわからない。だからそう言う。わかるまい、と同僚は言う。そういうものか、と僕は思う。

プリキュアになれなかった女の子

 世のため人のために働くんだと思っていた。わたしは無邪気な自信家だった。将来はずっと口を糊することができると信じていて、それ以外の余剰があって、それでもって人に尽くすんだと思っていたのだから。高校生になっても、大学生になっても、なんなら社会人になってもしらばらく、その夢想を保持してた。ばかみたいだと自分でも思うけど。

 ばかみたいでしょう。でもわたしの育った環境ではそれをばかにされることがなかった。外資系でがんがん稼ぐんだとか、すてきな異性にもてたいとか、そういう人もいたけれど、同じくらい、世のため人のため身を粉にするぞと思っている人もいた。その幼い夢をかかげて、わたしはある省庁に入職した。ばかみたいでしょう。ねえ。

 わたしには人生の足踏みが少なかった。浪人せず、留年もせず、最短ルートで就職した。努力は必要だった。その努力の目的はもちろん世のため人のためだった。わたしは子どもだったと思う。自分はがんばれば正義の味方になれると信じている、子どもだった。

 わたしは就職して一年でぼろ雑巾みたいになった。体力には自信があった。精神力にも。でも問題はそういうことじゃなかった。そもそも大きな組織には新人の精神をぼろ雑巾にするシステムがそなわっているのだ。そうでなければよい歯車にならないから。わたしはようやくそのことを知った。それでもわたしは「正義の味方」になりたいままだった。よい歯車のそぶりをして、内部からこの組織を変え、そうして世の中を良くするんだ、などと考えた。わたしの思い上がり、わたしの幼い夢は、だからけっこう長持ちしたほうだと思う。

 わたしの精神はしだいに平たくなった。継続的な多忙と強制される理不尽な慣習は人間を鈍くする。こんなことやっていても世の中は少しもよくならないし、なんなら自分たちは嫌われていると、わたしは遅まきながら気づいた。わたしは人を助けてありがとうと言われたかったのに、そのほかにはなにもいらなかったのに、人々はわたしのことを、不当に恵まれた、ずるいやつだと思っているみたいだった。わたしは大量の書類をめくる途中で不意にそれに気づいてしまった。A4のコピー紙が指にはりついたことを覚えている。書類を汚してはいけないから慌てて手を離し、反射的にハンドタオルで拭いたことも。あまりに疲れていて、ハンドタオルを毎日洗濯できていなかったことも。その布きれがものすごく汚く感じられて、衝動的にゴミ箱に捨ててしまったことも。

 職場を見渡す。同僚はたくさんいた。でも仲間は見つからなかった。優秀なあの人も、評判のあの人も、ヒーローになんかなりたくないみたいだった。天下りしていい目をみてやろうと思っていることさえ珍しくなかった。そんなのどう考えたって悪役じゃないか、とわたしは思った。それから、彼らのようにならないルートを具体的に想像できないことに気づいた。

 わたしは愛されたかった。子どものころから優秀だと言われて、その優秀さは世の中に貢献すべきためのものだと思って、すごくすごくがんばって、私欲のために道を曲げたりしないで、そうしたら世界から愛してもらえると思っていた。いっしょうけんめい働いて、ときどき誰かから「ありがとう」と言われたかった。でもそれは見果てぬ夢で、わたしはただの、いけすかない、エリート気取りのばかだった。

 そのようにしてわたしは職を辞した。わたしは堅実だから、もちろん民間企業に次のポジションを見つけてから辞めた。あとから聞いたところによると、非人間的な激務のさなかにある人間はかえって転職をしない傾向にあるのだそうだ。転職活動のためのエネルギーが残っていないから。だからわたしがどうやって時間と労力を捻出したのかと、幾人かに訊かれたけれど、自分でもどうやったのか覚えていない。疲労によってだらしなく広がった毛穴から生命力がどろどろ抜け落ちていくのを手ですくって舐めているような生活だった。その疲労を上回っていたのは失望だったと思う。わたしがヒーローじゃなかったこと、ヒーローへのコースが見えないことに対する失望だった。

 わたしは老婆のような心持ちになっていた。まだ三十にもならないのに、あとはもう余生なんだと感じた。転職してから毎晩、家に帰って昔のアニメを見た。小さいころに好きだった、女の子が戦うアニメを繰りかえし見た。それからようやく泣いた。在職中は一度も泣くことができなかったのだ。

バグ対応にストーリー

 何かから逃げている。何かはわからない。でも逃げている。そのような感覚をずっと持っている。物心ついてからずっとある気がするけれど、強くなったのは高校生のころだった。そのころから、「逃げている」という感覚にとらわれると生活できないとわかっていた。だって、何から逃げているのかわからないのだ。

 思春期だからな、とそのときは思っていた。世間でも思春期は不安定だということになっているし、ものを読むかぎり、ほぼ病気みたいな感じなので、自分の焦燥感も思春期のせいだろうと思っていた。授業を受けていても誰かといても楽しくしていても寝てもさめてもわたしはつらく、そこから目をそむけることが活動のエネルギーだった。授業に集中しないと、人との会話に集中しないと、「あれ」にとらわれてしまう。

 一度だけ母に言ってみたことがある。お母さん、お母さんが高校生のころってどうだった、すごく苦しい焦りみたいなのなかった。地獄のように迷って焦っていたわよ、と母は言った。それを聞いてわたしは安堵した。なんだ、思春期はみんな地獄なんだ。

 でも思春期のせいではなかった。大学生になっても就職しても、そのあと十年ちかく働いても、わたしの焦燥感はなくならなかった。それはちりちりと胸を焼き喉を焼いた。甘さみたいなものはかけらもなく、大切なものが呼吸ごとに口からちらちらと漏れているかのような感覚なのだった。わたしはその正体をどうしても突き止めることができなかった。わたしは格闘し、そしてあきらめた。だって、仕事があるし。

 だからわたしは仕事熱心だった。仕事はいい。仕事だからしかたないという言い訳は最強だ。もしもわたしが男ならずっと仕事をしていたと思う。でもわたしは女だったので、仕事だけしているとやいのやいの言われるのだった。そんなのは性差別だけど、わたしは現実的な人間だから、いい人を見繕ってプロポーズして結婚して基礎体温をはかってうまいこと妊娠して子どもを産んだ。夫はあまり手のかからない男だけれど、一緒にいればそれなりに気を張ったり気がまぎれたりするし、妊娠はものすごくしんどかったし、子どもはとにかく手がかかるものなので、わたしは例の焦燥感を忘れる手段をいっぱい手に入れた。

 もちろんそのあいだもブルドーザーみたいに仕事をつづけた。直属の上司から「雑で丈夫で長持ち」と言われ、しょっちゅう小言とともにパワーポイントを修正されながら(上司はものすごく細かい)、どかどか片づけてその一部で成果を出した。家庭でも同じようなもので、とにかく荒っぽくスピーディにタスクを消化した。わたしの干した洗濯物はしわしわで、夫の干した洗濯物はぴしっと美しいのだった(夫はものすごく細かい)。子どもが泣くとわたしは焦り、でもその焦りは回答のある焦りなので、苦しいものではないのだった。

 わたしはそのようにして目を逸らしつづけた。お風呂に入って歯をみがいているとき、子どもが感じのいい寝息をたてているとき、夫がわたしのスーツのほこりを取りながら家電の買い換えの話をしているとき、職場の繁忙期が終わってすべての書類を出し終えたとき、美容室で「おかゆいところはございませんか」と言われて「ありません」とこたえるとき。心が弛緩した瞬間、目をそらし続けていた毒の塊のような焦燥感がわたしの胸を塞ぎ、喉に詰まる。ああ、わたしは、ずっとずっと、逃げている、ほんとうはいけないことをしている。そう思う。鼓動がいやな感じで早まり、心臓に毒を仕込まれたように感じる。吐き気、まぶたの裏の不快感、喉の中に何かある感じ。

 わたしは友人にそのような話をする。友人はのんきにわたしを見て、あのさあ幸せ、と訊く。わたしはうなずく。幸せだよ。そうだろうね、と友人は言う。

 幸せっていうのはさあ、だいたい怖いもんだよ、気持ちの悪いもんだよ。どうしてって、まああれだ、生きてたら死ぬじゃん、だから怖いんだよ。幸せだったらよけいに死ぬの怖いでしょ、楽しい人生が過ぎていくのが怖いでしょ。うん、そういうストーリーはどうかしら。まあなんでもいいんだけど、なんか理由つけたほうがいいんだよ。人間にはさ、たまにバグがあってさ、理由のない恐怖が消えなかったりするんだよ。あなたのそれ、たぶん一生消えないよ。でも弱くできるから、だいじょうぶだよ。がまんできなかったら言いなね、その都度、てきとうなお話をつくってあげるから。