傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

プリキュアになれなかった女の子

 世のため人のために働くんだと思っていた。わたしは無邪気な自信家だった。将来はずっと口を糊することができると信じていて、それ以外の余剰があって、それでもって人に尽くすんだと思っていたのだから。高校生になっても、大学生になっても、なんなら社会人になってもしらばらく、その夢想を保持してた。ばかみたいだと自分でも思うけど。

 ばかみたいでしょう。でもわたしの育った環境ではそれをばかにされることがなかった。外資系でがんがん稼ぐんだとか、すてきな異性にもてたいとか、そういう人もいたけれど、同じくらい、世のため人のため身を粉にするぞと思っている人もいた。その幼い夢をかかげて、わたしはある省庁に入職した。ばかみたいでしょう。ねえ。

 わたしには人生の足踏みが少なかった。浪人せず、留年もせず、最短ルートで就職した。努力は必要だった。その努力の目的はもちろん世のため人のためだった。わたしは子どもだったと思う。自分はがんばれば正義の味方になれると信じている、子どもだった。

 わたしは就職して一年でぼろ雑巾みたいになった。体力には自信があった。精神力にも。でも問題はそういうことじゃなかった。そもそも大きな組織には新人の精神をぼろ雑巾にするシステムがそなわっているのだ。そうでなければよい歯車にならないから。わたしはようやくそのことを知った。それでもわたしは「正義の味方」になりたいままだった。よい歯車のそぶりをして、内部からこの組織を変え、そうして世の中を良くするんだ、などと考えた。わたしの思い上がり、わたしの幼い夢は、だからけっこう長持ちしたほうだと思う。

 わたしの精神はしだいに平たくなった。継続的な多忙と強制される理不尽な慣習は人間を鈍くする。こんなことやっていても世の中は少しもよくならないし、なんなら自分たちは嫌われていると、わたしは遅まきながら気づいた。わたしは人を助けてありがとうと言われたかったのに、そのほかにはなにもいらなかったのに、人々はわたしのことを、不当に恵まれた、ずるいやつだと思っているみたいだった。わたしは大量の書類をめくる途中で不意にそれに気づいてしまった。A4のコピー紙が指にはりついたことを覚えている。書類を汚してはいけないから慌てて手を離し、反射的にハンドタオルで拭いたことも。あまりに疲れていて、ハンドタオルを毎日洗濯できていなかったことも。その布きれがものすごく汚く感じられて、衝動的にゴミ箱に捨ててしまったことも。

 職場を見渡す。同僚はたくさんいた。でも仲間は見つからなかった。優秀なあの人も、評判のあの人も、ヒーローになんかなりたくないみたいだった。天下りしていい目をみてやろうと思っていることさえ珍しくなかった。そんなのどう考えたって悪役じゃないか、とわたしは思った。それから、彼らのようにならないルートを具体的に想像できないことに気づいた。

 わたしは愛されたかった。子どものころから優秀だと言われて、その優秀さは世の中に貢献すべきためのものだと思って、すごくすごくがんばって、私欲のために道を曲げたりしないで、そうしたら世界から愛してもらえると思っていた。いっしょうけんめい働いて、ときどき誰かから「ありがとう」と言われたかった。でもそれは見果てぬ夢で、わたしはただの、いけすかない、エリート気取りのばかだった。

 そのようにしてわたしは職を辞した。わたしは堅実だから、もちろん民間企業に次のポジションを見つけてから辞めた。あとから聞いたところによると、非人間的な激務のさなかにある人間はかえって転職をしない傾向にあるのだそうだ。転職活動のためのエネルギーが残っていないから。だからわたしがどうやって時間と労力を捻出したのかと、幾人かに訊かれたけれど、自分でもどうやったのか覚えていない。疲労によってだらしなく広がった毛穴から生命力がどろどろ抜け落ちていくのを手ですくって舐めているような生活だった。その疲労を上回っていたのは失望だったと思う。わたしがヒーローじゃなかったこと、ヒーローへのコースが見えないことに対する失望だった。

 わたしは老婆のような心持ちになっていた。まだ三十にもならないのに、あとはもう余生なんだと感じた。転職してから毎晩、家に帰って昔のアニメを見た。小さいころに好きだった、女の子が戦うアニメを繰りかえし見た。それからようやく泣いた。在職中は一度も泣くことができなかったのだ。

バグ対応にストーリー

 何かから逃げている。何かはわからない。でも逃げている。そのような感覚をずっと持っている。物心ついてからずっとある気がするけれど、強くなったのは高校生のころだった。そのころから、「逃げている」という感覚にとらわれると生活できないとわかっていた。だって、何から逃げているのかわからないのだ。

 思春期だからな、とそのときは思っていた。世間でも思春期は不安定だということになっているし、ものを読むかぎり、ほぼ病気みたいな感じなので、自分の焦燥感も思春期のせいだろうと思っていた。授業を受けていても誰かといても楽しくしていても寝てもさめてもわたしはつらく、そこから目をそむけることが活動のエネルギーだった。授業に集中しないと、人との会話に集中しないと、「あれ」にとらわれてしまう。

 一度だけ母に言ってみたことがある。お母さん、お母さんが高校生のころってどうだった、すごく苦しい焦りみたいなのなかった。地獄のように迷って焦っていたわよ、と母は言った。それを聞いてわたしは安堵した。なんだ、思春期はみんな地獄なんだ。

 でも思春期のせいではなかった。大学生になっても就職しても、そのあと十年ちかく働いても、わたしの焦燥感はなくならなかった。それはちりちりと胸を焼き喉を焼いた。甘さみたいなものはかけらもなく、大切なものが呼吸ごとに口からちらちらと漏れているかのような感覚なのだった。わたしはその正体をどうしても突き止めることができなかった。わたしは格闘し、そしてあきらめた。だって、仕事があるし。

 だからわたしは仕事熱心だった。仕事はいい。仕事だからしかたないという言い訳は最強だ。もしもわたしが男ならずっと仕事をしていたと思う。でもわたしは女だったので、仕事だけしているとやいのやいの言われるのだった。そんなのは性差別だけど、わたしは現実的な人間だから、いい人を見繕ってプロポーズして結婚して基礎体温をはかってうまいこと妊娠して子どもを産んだ。夫はあまり手のかからない男だけれど、一緒にいればそれなりに気を張ったり気がまぎれたりするし、妊娠はものすごくしんどかったし、子どもはとにかく手がかかるものなので、わたしは例の焦燥感を忘れる手段をいっぱい手に入れた。

 もちろんそのあいだもブルドーザーみたいに仕事をつづけた。直属の上司から「雑で丈夫で長持ち」と言われ、しょっちゅう小言とともにパワーポイントを修正されながら(上司はものすごく細かい)、どかどか片づけてその一部で成果を出した。家庭でも同じようなもので、とにかく荒っぽくスピーディにタスクを消化した。わたしの干した洗濯物はしわしわで、夫の干した洗濯物はぴしっと美しいのだった(夫はものすごく細かい)。子どもが泣くとわたしは焦り、でもその焦りは回答のある焦りなので、苦しいものではないのだった。

 わたしはそのようにして目を逸らしつづけた。お風呂に入って歯をみがいているとき、子どもが感じのいい寝息をたてているとき、夫がわたしのスーツのほこりを取りながら家電の買い換えの話をしているとき、職場の繁忙期が終わってすべての書類を出し終えたとき、美容室で「おかゆいところはございませんか」と言われて「ありません」とこたえるとき。心が弛緩した瞬間、目をそらし続けていた毒の塊のような焦燥感がわたしの胸を塞ぎ、喉に詰まる。ああ、わたしは、ずっとずっと、逃げている、ほんとうはいけなことをしている。そう思う。鼓動がいやな感じで早まり、心臓に毒を仕込まれたように感じる。吐き気、まぶたの裏の不快感、喉の中に何かある感じ。

 わたしは友人にそのような話をする。友人はのんきにわたしを見て、あのさあ幸せ、と訊く。わたしはうなずく。幸せだよ。そうだろうね、と友人は言う。

 幸せっていうのはさあ、だいたい怖いもんだよ、気持ちの悪いもんだよ。どうしてって、まああれだ、生きてたら死ぬじゃん、だから怖いんだよ。幸せだったらよけいに死ぬの怖いでしょ、楽しい人生が過ぎていくのが怖いでしょ。うん、そういうストーリーはどうかしら。まあなんでもいいんだけど、なんか理由つけたほうがいいんだよ。人間にはさ、たまにバグがあってさ、理由のない恐怖が消えなかったりするんだよ。あなたのそれ、たぶん一生消えないよ。でも弱くできるから、だいじょうぶだよ。がまんできなかったら言いなね、その都度、てきとうなお話をつくってあげるから。

劇場から出ない

 だって仲良くなって何度かおたがいの部屋に泊まった相手なら、部屋の中を下着でうろうろするものでしょ。

 私がそう言うと彼女は完全に沈黙し、それから、ほう、とつぶやいた。そのつるりとしたひたいに「保留」と書いてあるかのようだ。インテリジェントな人間によくあることだけれど、相手の意見を言下に否定することを下品だと考えているのだろう。

 それはちがうと思うの?私はそのように訊く。彼女は慎重に首をかたむけ、そう、うん、えっと、そう思う、とこたえる。私は考えて、言う。お行儀がよい人なら、恋人の部屋にいても、ちゃんと部屋着を着るんだろうね、あるいは子どもができて、教育上の理由で部屋着を着てすごすのでしょう。彼女はますます慎重なようすで、そうかもしれない、と言う。

 部屋着じゃないのだ。私はそう判断して確認する。つまり眠るまでは街着を着ているわけだ、お化粧も落とさない、おたがいにきちんとしている、それがどちらかのおうちであっても。彼女はあいまいにうなずき、でもまあ、わたしのささやかな経験にすぎないから、と言う。

 私の記憶によれば彼女の色恋の経験はそれほどささやかではない。でもそんなことはたいした問題ではない。一人だろうが十人だろうが統計的には超ささやかである。適切なサンプリングで適切なボリュームに対して調査をしなければ「恋人の自室ではだらしない格好をする者が多数派」みたいなことは言えない。

 言えないが、私はみんなそうだと思っていた。だって、家では、リラックスするものだからだ。私が親密になった相手はみな、流れるような動作で外出着を脱いでハンガーにかけていた。記憶にあるかぎり、そうしなかった人はいない。全員が当たり前に脱いでいた。フォークとナイフがたくさんあったら向かって外側から使う、くらいの感じで脱いでいた。

 ひとつ確認したい、と彼女が言う。さやかさんは彼氏とかの家に行ったら化粧を落とすんだね。そりゃあもう完全に落とすとも、と私はこたえる。それから思い出す。夏目漱石かなにかの小説で風呂上がりに薄化粧をする女が出てきた。主人公の男は寝間着に薄化粧の女を見て「おお」と思うのである。

 わたしは、と彼女が言う。わたしは薄化粧なんかしない。お風呂から上がったら、きちんとお化粧する。男の人がナチュラルだって言うようなやつを。髪だってセットする。自分ひとりのときみたいな格好はぜったいにしない。だってみっともないもの。生活感が出ちゃうもの。彼が来ているのに、プランクの格好でリルケを読むような真似はできない。

 私はたいそう感心した。体幹を鍛えながらリルケ。とても素敵だ。恋人に見せたらますます惚れるのではないかと思う。でも彼女は恋人の前では決してそうしないのだ。それは舞台裏だから。美しくあるための支度であって、仕上がった美ではないから。私は人と親密になったら生活の一部をともにするものだと思っているけれど、彼女はそうではないのだ。生活を排除し、美しい舞台を作り上げることこそが彼女にとっての恋なのだ。

 彼女は言う。そもそもわたしは彼の前で眠っていない。少しうとうとするだけ。そして早朝のうちに帰る、あるいは彼が帰るのを待つ。だって人間は熟睡したら口が開くし、へんな姿勢で寝返りを打つし、そしたら化粧が崩れるし、いびきだってかくかもしれないんだよ。

 私はますます感心した。人間が持っている当たり前のみっともなさを、彼女はぜったいに恋に持ち込まないのだ。カメラの前の女優さんみたいだ。よくしたもので、そういう人には同じタイプの恋人ができるものらしい。彼らが彼らの自宅にいるところを私は想像する。外にいるよりは気を抜いた姿勢の、しかしその崩し具合すら制御している二人が、決して取り乱すことなく、すてきな動作でくちづけをし、すてきな姿勢で眠っている(ふりをしている)ところを。描れない絵のモデルたち。撮影されない映画の主演。無人の劇場で演じられる恋。

 すてきだねえ、と私は言う。あなたたちは、きれいだねえ、と言う。どうもありがとう、と彼女は言う。おたがいに格好つけない関係、いいなって思うよ、でもわたしにはできない。わたしは、恋をもっと美しいものだと思ってしまう、美術館に置かれるようなものだと思ってしまう、夢のような恋人でありたいと思ってしまう、だから、ねえ、彼が結婚してほしいというんだけど、そんなの無理に決まってるじゃない、彼、どうしてそんなこと言うんだろう、どうしてわたしたちの恋を、生活といううすのろに売り渡そうとするんだろう。

夫が病気になったので

 朝はテレビのニュース番組をつけっぱなしにして、見ていたり見ていなかったりする。わたしの家の朝の日常的な光景だ。夫は決まってトーストとコーヒー、わたしはそれに加えてヨーグルトかチーズを食べる。トーストを焼くのは夫、コーヒーを淹れるのはわたしである。娘が生まれる前は朝食に火を使うこともあったが、今はそんな余裕はもちろんない。娘はパンをあまり好まないので、まとめて作って冷凍しておいたいくつかの味つけのおにぎりをレンジアップして食べさせる。食べないこともあるが、わたしも夫もあまりうるさくは言っていない。

 今朝は娘が自ら保育園に行く支度をしたので少々の余裕があり、ニュースを横目で見ながら感想を述べた。さる医科大学が女性受験生の得点を割り引いたというもので、非常に差別的かつ複合的な問題を感じさせる事件だ。それを見たわたしは当然怒った。ひどい事件だ、と言った。すると夫が言った。しかたないんじゃないの、女医さんばかりじゃ困るんだから、ちゃんとした医者がいないと。

 えっ、と思う。振り返ると夫はすでにいない。ドアが閉じる音がする。夫は通常の出勤時間、わたしは娘が小さいあいだは送り迎えの「送り」ができるよう職場で調整してもらっているのだ。娘が得意げに支度のできたところを見せにくる。娘に朝食をとらせる。娘は小さなおむすびをひとつだけ食べる。娘に靴を履かせる。自分の靴を履く。先ほどの記憶がよぎる。背筋が寒くなる。けれどそれも朝のあわただしさ、娘の登園と自分の出勤を時間内に終わらせる義務感の後ろにすっと下がってしまう。

 夫と喧嘩をしたことがないのではない。結婚直後、妊娠時、出産後、生活が変わるたびに激しく言い争った。家の中でどちらが何をするか、何をどこまで許容するかというのが、その主題だった。要するに生活のための喧嘩である。わたしばかりが損をしているとわたしは思いたくなかった。喧嘩をしてでも納得のいく家庭内の負担のわけあいをしたかった。夫は喧嘩から逃げたことはなかった。ちゃんと自己主張をし、折れたり折れない理由を述べたりした。だからわたしは夫をとても信頼していた。

 あの発言はいったいなんだったのか、とわたしは思った。あれは論外だろう。夫はわたしの仕事を認めて、娘の教育についてもちゃんと考えている人だ。少なくともわたしはそのように認識している。でもあんなことを言った。わたしは帰りの電車でネットスーパーの注文ボタンを押しながら決意する。夫をきちんと問いたださなければなるまい。

 しかしその夜、夫の帰りは遅かった。翌日はわたしが残業である。わたしと夫は保育園の送り迎えの割り振りをしながらたがいの仕事時間を調整しているのだ。週に一度は近くに住むわたしの母が全面的に育児と家事をサポートしてくれている。朝のニュースが流れる。わたしはそこから目をそらす。当たり障りのないニュースでありますように、と思う。そうして気づく。わたしのトーストがない。

 夫は当たり前の顔をしてコーヒーをのんでいる。パン食べないの、と訊くと、出てこないからね、と言う。わたしは彼を見る。彼はスマートフォンを見ている。娘がぐずぐずしている。おとうさあん、と言う。夫はスマートフォンを見ている。わたしは娘に声をかける。夫はため息をつく。そしてつぶやく。まったく、この家はジョセイサマの家だな。わたしは一瞬、漢字の変換ができなかった。じょせいさま?

 わたしは週末に夫と話をしようとした。しかし夫は応じなかった。わたしは泣きそうになった。夫は変な冷笑を浮かべて、ふだんしていた掃除もしないのだった。夫に任せているからすぐにどうこう言うことはない。しかし、ふだんより明らかに何もしない。わたしが作る料理にお礼も言わない。娘のお迎え当番だけは行っていたが、娘をかまう頻度はあきらかに減っていた。

 半年を目処に、きちんと話せないなら離婚の可能性も考えなきゃいけない。そう思った。住宅ローンは共有名義で半分ずつ返している。わたしは自分だけで返すことを考えてローンの計算をしなおした。洗面所に行くと鏡にものすごい顔の女が映っていた。

 

 彼女はここで話を切る。聞いていた私はごくりと喉を鳴らし、ことばを探し、それからまた黙った。聞くだに怖いでしょ、と彼女は言った。ところが、その後、夫は元に戻ったの。暇さえあれば娘の世話を焼いて、まめに掃除をして洗濯物をたたんで、わたしの料理を賞賛して、おかしくなった時のことを話しても「ごめん、覚えていない」と言うの。まるで一過性の悪い病気になっていたみたいにね。

夏の子ども

 巨大で清潔で管理された水たまりに行った。凶暴な日差しが濃い影を作る水辺、といったら楽しそうだが、なにしろ膝までしかない水たまりなので、それだけあっても楽しいものではない。幼児を解き放って水遊びさせるための設備だ。プールより手数をかけず安全に子どもを水につけておける。家庭用のビニールプールのものすごく大きいバージョンと思えばだいたい合っている。都市のマンションにはなかなか置けないから、代わりに公共のビニールプール的なものがあるのだろう。保護者たちがなぜそんなにも夏の子どもを水につけたいかといえば、彼らが自主的に良い運動をして疲れてすっと眠ってくれるからである。仕事で疲れきって週末も延々幼児の相手をするなんて保たない。

 息子は少し大きいお兄さんたちをちらちら見ながら遊んでいる。彼にとっての「お友だち」はまだ、そこいらにいる子たちである。選択的な友情を知るのはもう少し先だ。小学校あたりだろう。小学生にもなれば泳げる子もあるし、年齢二桁に達すれば子どもだけでプールに行ったりもできるだろう。そう思う。遠い、と思う。

 僕の息子はもうすぐ四歳になる。生まれて二年は妻ともども記憶が途切れ途切れだ。いちど大きな病気をしたこともあって、なんだかよくわからないほど大変だったのだ。子どもが生まれる前、仕事して子育てすることを当たり前だと僕は思っていた。自分はそれくらい当たり前にできると思っていた。ぜんぜん当たり前じゃなかった。正直なところ、ゼロ歳からのプロセスをもう一回やる気がしない。妻によると僕は「夜な夜ないかれたミッキーマウスみたいな声で」息子をあやしていたということである。小さい子どもは高い声によく反応するから自然とそうした発声にはなるのだが、そこまでだったろうか。半ばやけになっていたのかもしれない。

 息子はもうすぐ四歳になる。ある程度ことばが通じるから、楽になったと思う。思うが、まだまだ手はかかる。そのうち手がかからなくなることが信じられない。息子はまだ時間の概念があいまいだ。つられたように僕も妻もどこか刹那的に生きている。永遠の四歳弱とその両親。いくつと問えばいつまでも三本指が差し出される気がする。薬指を完全に上げることのできない、不完全な三のジェスチャ。季節は夏だ。水面が輝き、僕は疲れていて、いつでも睡眠不足で、甘ったるいめまいがする。

 子どもが生まれてからというもの、ときどき驚くほど感傷的になってしまう。自分の中の感情がキャパシティを越えている。僕はそんな経験をしたことがなかった。こんなにもいろいろな感情が始終行き来する心であったことはなかった。間欠的に湧く新鮮な驚き、慢性的な疎ましさと多幸感、衝動的な憎しみ、目の前にいないときの開放感と寄る辺なさ。

 思春期も、恋愛しているときも、僕はわりと静かな人間だった。子どもができたってそうだろうと思っていたけれど、なんだかぜんぜん違ってしまった。あなた、二倍くらいになった、と妻は言っていた。体重じゃなくってね、体重はもっと増えていいよ、そうじゃなくって、あなたという人が、わたしが思っていたよりもずっと、豊かだった、なんていうか、月の裏が見えたみたいに、地層の奥があったみたいに。

 息子が戻ってくる。息子は大人のそばで遊んでいるとときどき戻ってきてがばと抱きつき、何をするでもなくそのままぷいと遊びに戻る。その一瞬、息子は頭を僕に押しつけ、僕は息子の背を一度だけぽんとたたく。ぽん、というか、ぼん、というか、けっこう強めに刺激する。寝かしつけのときも強めに背をたたいてやるほうがよく寝る子である。

 子どもが好きだと思ったことはなかった。もうひとり欲しいとも思わなかった。僕はただ、理不尽にこの子だけが好きなのかもしれなかった。偶然に、特別に、排他的に。いいじゃない、と妻は言っていた。今いる息子が可愛いならそれでいいじゃない。よくない、と僕は言った。こんなに入れ替え不可能ではだめなのだ。病気で死ぬかもしれないのに。あした死ぬかもしれないのに。

 僕はそのときの記憶があまりない。妻もよく覚えていないというが、嘘だと思う。僕は大病をした息子のそばにいることに耐えられず、妻にすべてを押しつけて逃げたのだから。たとえそれが数日のことだとしても、覚えていないはずがない。「月の裏」は、「地層の奥」は、そのようにろくでもないものでもあった。

 僕は息子を呼ぶ。そろそろ水を飲ませて帰り支度をさせようと思う。息子が歩いてくる。僕の息子が水を蹴って歩いてくる。季節は夏だ。永遠のような夏だ。

折り返し地点の転倒

 寝苦しいのは冷房のせいだと思っていた。このところの気温の高さで、眠るときにも冷房をつけたままにしているからだ。でもそうではなかった。うとうとし、何度か目が覚め、そのたびに「悪い夢を見ているんだな」と思った。そうして何度目かに認めた。これは現実だ。

 胃のあたりに焼けるような痛み、吐き気、背中を主とする全身のみしみしとした痛み。息をするのも不快で、でもしないわけにはいかない。しかたなく呼吸をする。眉間の少し下、鼻の隆起がはじまるあたりに痺れるような不快感が通る。鼻も口も肺もふだん軽々とこなしている仕事を不承不承やってくれているという感じだ。

 一大決意をして立つ。歩く。「立って歩く」が重労働である。とにかく何もかもが痛いので、買い置きの痛み止めを服用する。この痛み止めを買ったのは十ヶ月ほど前、歯痛に悩まされたときだった。歯痛の原因は未だ不明である。歯科医に駆け込んだが、該当箇所に虫歯も歯周病も見られないまま治ってしまったのだ。その後、一ヶ月ほど前にも強い胃痛があったが、一晩で治った。このたびは一晩で済みそうにないと直感した。

 痛み止めが効いて朝まで眠ることができた。起きると立って歩くことができたので、ぬるま湯と、カップに梅干しを入れて番茶を注いだものをのんだ。胃はそれさえも不服のようだったが、水分と塩分がみるみるうちに身体にしみわたったように感じられた。いつもは朝からごはんをもりもり食べるというのに。

 慎重にシャワーを浴び、慎重に髪を洗い、慎重に乾かした。身体はだいぶ回復したが、ふちまで水の入った壺を運ぶようで、揺らしたら痛みがこぼれそうである。通勤はタクシーですることにした。職住近接最高だなと思った。今日までにどうにかしなければならない作業はなく、出なければならない会議などもなく、すべてを後回しにできるし、退勤も早めにできる。しかも金曜日だ。具合が悪くなるにはうってつけの日である。そんな日があると実感したくはなかったが。

 今晩食事をするはずだった友人に繰り延べをお願いする。すぐにメッセージが返ってきた。もちろんいつでもいいよ、無理しないでくれてありがとう。無理しないでくれてありがとうってすごくいいフレーズだなあと思う。今度使おう、と思う。

 職場の近くのクリニックに向かう。外は酷暑である。目の前は白っぽく現実感が薄いが、汗は流れ落ちてくる。汗が流れるという身体機能が動いていることに少し安堵する。医師の見立ては予想どおり「胃腸が荒れているようだが、詳しくは専門的な検査を受けるべき」というものであった。発熱も三十七度台、自宅静養の範疇である。まあそうだろうな、と思う。こういうのってだいたいすぱっと診断がおりたりはしないんだ。

 帰宅する。念のため二名の友人に「かくかくしかじかの症状が出ている。まんいち日曜日のうちに再度連絡がなかったらうちに来てほしい」と連絡する。独居者同士のネットワークである。

 それから三十時間ほどのあいだに考えたことは「痛みが強くなってきた」と「弱くなってきた」と「早く時間が経ちますように、今でなくなりますように」の三つしかない。およそ思考というものができなかった。頭の中には仕事で大きな、しかも自業自得の失敗をする、むかし死んだ誰かがそこにいてこちらを見ている、飼ってもいない生き物の世話ができず苦しませている、といった幻想が行き交っていた。幻想は過去にあったこととなかったこと、ありえたこととおよそ生じにくいことがないまぜになり、しかしその最中の現実感は同じなのだった。取れる姿勢は仰臥と横臥のみである。立って歩くことはふたたび重労働になった。痛みの少ないタイミングをみはからって立ち歩いた。

 日曜日になると、痛みと不快感が明瞭に小さくなった。痛みに芯がない。独居者ネットワークに回復を報告する。それから人間ドックを予約する。検査したところでわからないことのほうが多かろうが、やるだけやっておこう、と思う。検査のあとは専門医かなあと思う。生活習慣を見直す必要もあるだろう。心あたりはいろいろある。起き抜けのコーヒー、空腹時のアルコール、食事を摂る時間の不規則さ。

 一方で、改善はそれほど見込めない気もする。もとからけっこう健康的な生活をしているのだ。もう四十年も生きたからガタもくるさ、と思う。いい人生だったなあと思う。まだ死ぬ気はないが、平均寿命の半分くらいは過ぎたわけで、その半分に感謝してもいいだろうと思う。今まで生きていてよかった。とても楽しかった。そして少し疲れた。