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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

手札を並べよ

 なあ、焼豚。その場に集まっていた友人のひとりが言った。学生が「起業するから大学を辞めます、起業の内容はこれから考えます」って言ったら、どう回答する?つまり、教授として。教授じゃない、と焼豚は応えた。准教授。

 焼豚というのはもちろんあだ名だ。この場にいるのはみな中学校の友人で、全員がそのころから彼を焼豚と呼んでいる。やきぶたともチャーシューとも読む。彼は質問した友人を見て、きみの息子じゃないよな、まだ小学生だもんな、じゃあ親戚かなんかの子か、と確認し、それから、平坦な声で宣言した。

 そういう若者には、外野がとやかく言ったって意味はない。親戚でも親でも教師でもだめ。親はまあ、かじられるスネを提供している場合には経済力でもって若者の行動に影響できるかもしれないけど、内心を変えさせることはできない。十八を過ぎてそんな状態だったら、本人が自分で気づくのを待つしかないんだ。僕はそう思う。

 冷たい、と別の友人がつぶやいた。ちょっとは諭してあげて、焼豚先生。諭さない、と焼豚は繰りかえした。人間関係とかの悩みで大学に来るのが辛くてたまらないとか、自分で始めた商売にのめりこんで学籍を持っていたほうが有利なのに辞めようとしてるとか、そういう学生なら、たくさん話をして一緒にいろいろ考える。でもふわっとしたイメージで辞めるって言ってるなら、大学を出ることのメリットを簡単に告げて、それで終わり。

 逆じゃないの、と私も尋ねてみた。キラキラしたイメージに引っぱられて大学を辞めるなんて、どう考えても理路が通ってないんだから、説得できるでしょうに。そう言うと焼豚は私を見て、長いため息をついて、それから言った。理屈が正しければ相手を説得できるなんて幻想はいいかげんに捨てたほうがいいよ。理屈でも感情でも、相手側の受け入れ体制ができていないと浸透しないんだよ。正しさとかやさしさとかは、そのあとにはじめて意味を持つんだよ。

 僕らにはあらかじめカードが配られている。それでもって人生を戦うしかない、手持ちの札の一揃いが。カードの初期値がひどいと苦労する。ここにもいるだろ、屑みたいなカードを配られたやつ。保護者に経済力がなくて高校に行けない、みたいなカード。でも体力があるとか、情緒が安定してるとか、そういう別のカードを戦略的に使って、報われる方向に努力を重ねて幸福な人生を獲得している。僕の手札は極端に悪くはなかったけど、たとえば大学院に入ったのは二十八のとき、大卒後に働いて貯金ができてから。研究者になりたかったけど、まずは就職した。二十二歳以降にかじれるスネはなかったし、不安定な労働をこなしながら大学院に通うだけの胆力もなかった。

 そういうことが判断できるのは僕らが、それこそ中学生のころから、自分の手持ちの札を並べて、自分で考えて決めて、決めた結果を背負って生きてきたからだ。中には「おまえの手札、いきなりロイヤルストレートフラッシュじゃん」みたいなやつもいるけど、有利なカードもうまく使わないと身を持ち崩す。いずれにしても手札を並べて考えなきゃいけない。自分の持ち札を直視しなくちゃいけない。腹立たしいカードも。認めたくないカードも。めくるだけで手が震えて泣きたくなるようなカードも。

 僕は十五にもなったら、全員がそれをすべきだと思ってる。公立の中学校っておもしろいところで、家庭環境も学力もばらばらな生徒が集まってるんだけど、ちゃんと自分の手札を並べて考えてるやつって、環境やなにかが違っても、わかるんだ。僕はそういう連中と仲良くしたいと思ってた。つまり、ここにいるみんなのことだけど。自分を理解して生きる戦略を練るのが思春期の仕事のひとつで、その仕事をまじめにやってるやつが、僕は好きだった。

 十四や十五で早すぎるというなら、いいだろう、十八までは待とう。でもそれ以上はだめだ。十八を過ぎて自分についての理解を怠っている人間が他人の思惑に流されて不幸になろうが幸福になろうが、僕の知ったことじゃない。僕が人生の話をする対象じゃない。

 思春期のうちに手札を並べろ。少年少女として守られているうちに。ぜんぶ引っ張り出して並べて考えろ。自分に何ができて、何ができなくて、何ができるようになる見込みがあって、何が好きで何が嫌いで何が欲しくて何が要らないか考えろ。何にとらわれて何を愛して何が許せないか考えろ。周囲があれこれ言って効果があるのはそれをやりつづけている人間だけだ。

愛することなく愛されるということ

 連絡先を流し見る。しばらく連絡していない相手を選択し、定型文をコピー&ペーストする。さまざまなアプリケーションでそれを繰りかえす。一日程度のあいだに、ぽつりぽつりと返答がある。もちろん半分以上の連絡先は沈黙したままだ。
 誰かが僕の近況を訊く。僕はまたしても定型文をコピー&ペーストする。そうしながら相手がどういう人だったかを思い出す。二年前に僕のことを好きだと言っていた人だ。他の女性といろいろあった時期で、だから申し訳なくてつきあえないと言ったら、泣きそうな顔をしていた。可愛い顔だった。
 ある程度の年齢に達すると好意を押し殺して冷静に振る舞おうとする人も少なくない。けれども彼女はそうではなかった。大人げないほど感情豊かで、かわいそうなくらいに素直だった。まっすぐ走ってきてためらいなく自分の心をまるごとつかみ出して僕に差し出したような人。
 ちょうどいい、と僕は思う。僕がふだん使わないのに消していない連絡先はもちろんぜんぶ女性たちのものだ。多かれ少なかれ僕に好意的だった女性たち。なかでも振った相手であれば都合が良い。
 もちろん、女性たちがずっと僕のことを好きだなんて思っていない。そんなに自信に満ちた人間ではない。ただ、もしもその人が退屈していたり、今の生活に不満を持っていたら、以前好意を持っていた男からの連絡はいい娯楽になる。やりとりしている間に思い出すこともあろうというものだ。
 僕は女性たちに親切で誠実だ。一度に何人もの女性とつきあったりなんかしない。やさしく丁寧であることを心がけているし、女性たちにもそう言ってもらえる−−−いろんな意味で。
 やあゴミクズ。
 ロックのかかったスマートフォンの黒い画面に通知が浮かび上がる。指をスライドさせてロックを解除するあいだにもメッセージは一方的に流れつづける。
 相変わらず腐った生活してるんだね。わたしに連絡してくるということは自分を好きな女がいない状態なんでしょ。誰かに好かれていないと保たない依存体質だもんね。いい年してまだ変わらないの?いい年だから変わらないのか。
 あなたは、誰でもいいから自分を好きになってほしい。でも誰に好かれても満たされない。なぜなら自分のことを好きじゃないから。好きじゃなくて当たり前だよねえ、だってあなたってゴミクズみたいだもん。一見やさしいように見えるのは、相手と感情を交換していなくって、そのために冷静でいられるから。好かれたいだけで、好きという感情はあなたの中にない。
 あなたは自分の感情をちゃんと育ててこなかった。感情から逃げ回ってきた。その年齢では育て直すのももう無理だね。そのまま寿命だね。あなたは誰にも愛されずに死ぬ。さみしさをきちんと感じることもできないから、なんとなく辛く苦しいまま、孤独に生きて死ぬ。こうやっていろんな女に連絡しても返信が戻ってくる割合が減っていって、新しく誰かと知り合うことも徐々になくなる。そうして認めてやらなかったさみしさが真綿のようにゆっくりとあなたの首を絞める。さようなら。
 僕は彼女が送ってきた暴言の数々を衝動的に消し、それから、もう一度言ってみろと書いて送った。けれども彼女は僕の連絡を拒否する設定をしたようだった。僕は機種変更前のスマートフォンと古いノートPCを探した。僕は彼女の電話番号も知っていたはずなのだ。それなのに今のアドレス帳にはなぜだか入っていないのだ。電話番号なら着信拒否したって別の電話番号からかければつながるはずなのに。
 探しているうちに頭の中に霧がかかり、からだが勝手に動くような状態になった。僕はただ片端から抽斗を開き、中身を出し、舌打ちをして、次の抽斗に移った。僕は部屋中のあらゆる箱を開いた。ものをためこむほうではないから、たいした量ではなかった。それでも異様な光景だった。すべてが開き、すべてがぶちまけられ、それらはみなゴミクズに見えた。ゴミクズしかない、と思った。
 スマートフォンに新しいメッセージが届いた。久しぶり。元気だった?わたしは相変わらずです。
 僕はゆっくりとそれを読む。五年前に別れた元彼女だ。ほかの男に取られたんだけど、それでも「相変わらず」か。僕は定型文をコピーする。僕はそれをペーストする。それから思う。どうしてこんなに部屋が散らかっているんだろう。わけのわからないメッセージが来て苛ついたからか。そうだった。やれやれ。大きなゴミ袋が必要だ。どれもこれも要らないものばかりじゃないか。

ジェントルマンの憂鬱

 新しいパターンですね、と私は言った。彼は小首をかしげ、コーヒーをのみ、それから、どういうこと、と訊いた。間を置いたのは訊かなくても勝手に解説するのを待っていたのだろう。
 大量の同期がいるわけではないので、入社時期が近いと社内での距離感も近い。さして親しくなくても、半年や一年に一度はランチでもどうかと声がかかる。彼もそのひとりだ。それを見とがめられて、別の人から「つきあってるんですか」と訊かれたのは一度や二度ではない。彼はごく一部の女性職員にものすごく人気があるのだ。
 私は彼を見る。どうということはない男だと思う。私は彼に魅力を感じない。友だちでもない。だからひいき目もなにもなく、彼が少数の女たちから熱烈に好かれる理由を推測することができる。この男のふるまいには棘がない。他人への気遣いがとてもよくできる。私たちみんなにあるはずの、他人にとって不都合な部分がないみたいに見える。どこもかしこもやわらかな布で覆われているかのようだ。若いころからそうだった。ジェントルマン、と彼を好きな女性のひとりが言っていた。
 ジェントルマンは女性を口説かない。いつも女性のほうが彼に近づく。彼はそれにこたえる。彼は恋人にとてもやさしい—もちろん。彼とつきあう女性には共通点があった。情熱的で、感情豊かで、それをはっきりとおもてに出し、他者との関わりを強く求める。そういうタイプだ。
 関係の終わりかたも共通している。彼女たちに何らかの事情が判明し、その事情の難しさがゆえに、彼は彼女のためにさんざん苦労し、彼女に尽くし、そして刀折れ矢尽きて、やむなく別れるのだ。病気、精神の不安定、実は既婚者。そういった事情は毎回彼女の側にあり、彼は悲劇の主人公に見える。あまりに同じパターンが続くので、話を聞いている私はじゃっかん飽きて、数年前にこう尋ねた。もしかして、事情があってずっと一緒にいられないような相手をわざと選んでるんじゃないですか。そういうのが趣味なんじゃないですか。つまり、「外的困難を前に挫折する愛」フェチ、みたいな。
 彼がそれにどう応えたかは覚えていない。けれども今回の話はいつものパターンから外れていた。自分から振ったというのだ。ようやく明石さんが動いた、と私は言った。正直なところ私、明石さんは一生そうやって受け身な悲劇の王子さまをやってるんだろうなーって、ちょっと軽蔑してました。すみませんでした。謝罪します。それで、今回の彼女とはどうして別れることにしたんですか。
 前の彼女が、と彼は言った。どうしても僕に助けてほしいというから。電話番号は別れた時に削除したけど、Facebookで連絡が来て、入院中なのに旦那さんは相変わらずぜんぜん助けてくれないというんだ。僕が行くしかない。そうやって前の彼女が心に引っかかっているうちは新しい彼女なんか作るべきじゃなかったんだ。
 は?と私は言った。彼はわずかに眉をひそめた。取り消します、と私は言った。さっきの謝罪、取り消します。私の明石さんに対する軽蔑は昂進しました。
 ねえ明石さん、明石さんのことジェントルマンだって言う人がいるんですよ。私はそうは思わない。明石さんはただただ受け身で、自分の感情に責任をもって行動しないだけです。自分の欲望を把握して叶えるのをさぼって、相手の欲望を先回りして叶えて必要とされて、それでいい気分になっているだけです。
 私は思うんだけど、そういうのって、自分の感情がよくわかっていない人がやることなんですよ。自分の感情をほったらかしにしてるから、感情豊かな恋人を作ってなんとなくいい気分になる。相手に向かいあって感情をやりとりすることができないから、悲劇的な理由があると好都合。今回は彼女の側に悲劇的な事情がなかったから前カノの話に乗っかったんでしょ。前カノとはある意味お似合いだから好きにすりゃあいいですけど、新しい彼女はかわいそう。
 前の彼女とやましいことは何もない、でも前の彼女を放ってはおけない、そのために今の彼女を傷つけたくない、だから身を引く。このストーリー、ほんとひどいですね。明石さんは加害者なのに被害者みたいな顔して、しかもそれがやさしさによるものだという理屈をつけている。そんなのジェントルマンじゃない。ジェントルクズです。
 一方的にことばを並べたて、それから私は、彼を見る。さすがに苛ついているようだ。そうだよ、と私は思う。むかついたらむかついたって顔をしてむかつくって言え。そう思う。でも彼は言わない。腕時計を見る。そろそろ、と言う。昼休み終わりますね、と私も言う。立ち上がると彼はすでにいつもと同じく、穏やかなほほえみを浮かべている。

僕のために泣いてくれ

 ねえ、マキノさんは、唐突な恋って知っている?つまり、相手のことをよく知らないのに、風景から浮かび上がるように誰かを見つけてしまうようなこと。そうしてその人がわたしの手を取ってくれるようなこと。

 私もそれなりの年月を生きているから、うん、そういうことは、あると知っているよ。私たちはある日、シャワーを浴びようとして奈落に落ちる。台所の扉をあけて炎に焼かれる。人生には稀にそういうことが起きる。意思も状況も関係なしに。

 たとえが不吉だなあ。でも、わたしは、溺れているし、身を焦がしているから、合っているのかしら。そう、半月前に、わたしにはそのようなことが起きたの。そしてわたしたちはできるかぎりの時間を一緒に過ごしているところなの。それでね、彼についてのほとんどあらゆる話を、たったの半月で聞いてしまっているの。生まれ育った家庭の複雑な事情とか、少年時代からの恋愛のひとつひとつとか、今でも解釈しきれない理不尽な経験とか、誰にどのように大切にされ誰にどのように傷つけられたかとか、そういうこと。わたしはそれを聞いてしくしくと泣くの。もちろん、すてきなことも多いけど、辛いことのほうがずっと多いお話だから。

 二週間で?うーん、それはまたずいぶんと、展開が早い。早いけど、ありえないことじゃない。恋は相手との境界線をあいまいにしてしまいたいという欲望を含むものだから。ただ、大人同士としては依存的すぎる。あ、さては、あなたよりさらにずっと若い相手なんだね?二十代終わりの大人と大学生、とか、いいよね、刹那的で風情がある。

    まさか。わたしは年下を相手にしたことって、ない。彼は年上。今年で四十。

 しじゅう!?まじで!?その人、だいじょうぶ?だいぶ退行してないか?うーん、でも、恋はときどき人を退行させて、今まで不足していたものを補わせたりするものでもあるからなあ。

 マキノさん、これから三十分くらい、いい?そう、ありがとう。あのね、わたし、ふられたんだけど。例の彼に。そう、一ヶ月。出会ったその日につきあいましょうと言い交わして、それで一ヶ月。あのさあ、まだ、寝てもいないんですけど。なんなの。前につきあってた女の人のことが引っかかっているうちは「やっぱりつきあえない」んですってよ。あれだけ人生の物語をぶちまけておいて。なんだよ、わたしはゴミ箱かよ。

 そうか、それはたいへんだったね。うん、彼はあなたを、ゴミ箱として使用したんだね。他人を無断でゴミ箱にしやがる人間はたまにいるんだよ。そういう人間にとって、話を聞かせる相手はカウンセラーや腕のいい客商売の人ではだめなんだ。お金を払って聞いてもらうのではゴミ箱にならないんだ。もちろんインターネットの向こうにいる知らない人とかでもだめ。感情をくれないから。自分の話を聞いて泣いてくれる人でなくてはならないの。だから他人の恋愛感情をそれに利用するの。下衆野郎だよ。私は性的行為なんかより、そのような感情的消費をこそ、ヤリ逃げと呼びたい。

 そう、まさに、それ。ヤリ逃げ。わたしは彼の人生に心を痛めた、彼の不運を嘆いた、彼にひどいことをした人たちをひとりひとり呪った。わたしは彼を、好きだから。彼はそれを取れるだけ取って、誠実ないい人みたいな顔で「前につきあっていた女性のことが引っかかっているうちは」なんて言ったんだ。その彼女とつきあってたのって、十年前だよ?たしかに泥沼だったみたいだけど、十年前だよ。なんなの。もしかしてあいつ十年こういうこと繰り返してきたんじゃないの?

 鋭いねえ。私は、そうだと思うな。そして彼はあなたと別れたくなんか実はないと思うな。一方的に感情的奉仕をしてくれる存在は貴重だから、十年のあいだに何人もいたわけじゃないはずだよ。つきあうという体裁を取らなくても自分のために泣いてくれるなら最高だから、そのためにあなたを試しているんだと思うよ。

 うん、そうだね。きっとそうだね。でも、彼はどうして、そんなひどいことを、おそらくひどいと意識せずに、やってしまうんだろう。何が彼をそうさせているんだろう。

 それはたしかに興味深いテーマだね。でもあなたはそれを気にして彼をかまってはいけないよ。それは彼の思う壺というものだよ。そんな下衆野郎のことは、もう放っておくのがいいよ。もちろん気持ちが残るのはあたりまえだけどね。

幸福に帰る

 重いでしょう、と彼女が言う。重いねと私はこたえる。ごめんねと彼女が言う。誰かに聞いてほしくて。ひとりじゃ受け止められなくて。
 こういう会話は何度目だろう、と私は思う。何十回もしたと思う。私は、人の話を聞くのが好きだ。何を聞いてもおもしろがっている。おもしろおかしい話じゃなくても、今日みたいに重苦しい話でも「おもしろい」。要するに他人をコンテンツだと思っているのだろう。不幸な話であっても、自分まで苦しくなることはない。その場では喉の奥からなんか上がってくるような感じがするけど、引きずらない。共感能力というものがあんまりないのかもしれない。
 けれども私はそのことを言わない。ちゃんと共感しているいい人みたいな顔をしている。善良で友情あふれるまともな人みたいな顔をしている。そのほうが得をする。友人だからといって自分の卑しいところまで見せる必要はない。そういう種類の嘘はほかにもいくつもついている。積極的な嘘ではなく、誤解を解かないという程度の、嘘。
 かまわないよと私は言う。私はあなたの配偶者と友だちになることはない。だからあなたの配偶者についてどういう話を聞いてもぜんぜん問題はない。受け止めきれない話を聞いたら私みたいに害のない相手に吐き出してすっきりするといいんだよ。あなただけじゃないよ。みんなそうやってバランスを取っているんだよ。
 そうねと彼女は言う。でもねえ、わたし、昔は、そうじゃなかった。好きな人が本人にはどうしようもない要因で過大な苦しみを負っているようなとき、わたしは、誰かに話してバランスを取ろうなんて思わなかった。バランスなんかどうでもよかった。一緒に苦しむことが愛だと思っていた。今でもそう思う。でもしない。夫の苦しみを一緒に苦しんで何もできなくなったりしない。仕事してごはんつくって食べて子どもの面倒みてお盆の帰省の手土産を買ってマンションの自治会の集会に出て、ねえ、わたしは、笑ったりもして、平気でいるの。
 彼女は平坦な声でそのように話して、それから、自分の発言に対する証拠のように、笑う。いつでも出力可能な、健全で歪みのないほほえみ。私たちはとうにそれを習得している。いいことですよと私はこたえる。私たちは自立した大人だから、必ず幸福な状態に帰ってくる。私は思うんだけど、不幸なままでいたら、自立はできない。地盤としての幸福をかためなければ私たちは自立することができなくて、その幸福は、誰かがいてくれるとか何かを持っているとか、そういうのではなくって、生きていることがだいたいいいことだという、確信みたいなものなんだ。
 私たちはもちろんいろんなものを手に入れるし、いろんなものを失う。昔は、すてきだと思った男の人に相手にされない程度のことでも世界が終わるような気がしたものだけれど、今はもちろん、そんなことはひとつの爪痕も残さない。世界は平常に運行される。些末なことだけじゃない。生きていれば思いもよらないことだって起きる。うつくしいことも、恐ろしいことも。人は病気になるし、死ぬこともある。私たちが誰かを愛したって、相手に何ができるわけでもない。愛したって病気になる。愛したって死ぬ。私たちは息がうまくできないような痛みを長く長く感じる。それでも、世界は終わらない。どれほど痛みを感じても、私たちは、幸福に戻るの。そこが私たちの帰るところなの。私たちの幸福は、もう、誰からもほんとうには奪われることがないの。
 私の長い宣言が終わると、彼女は息をついて、そうね、とつぶやいた。それはとても、いいことね。でもわたしは、そんなもの、投げ捨ててしまいたい。自治会役員なんて、手土産の調達なんて、部屋の掃除なんて、できなくなってしまいたい。娘を抱きしめて泣きわめいて過ごしたい。いつもどおり仕事をしているなんてばかみたいだと思う。動揺して仕事に支障をきたすのが愛情だと、どこかで思っている。こんな状況でもごはんがおいしいなんておかしいと思っている。幸福になんか帰りたくないと思っている。
 そうだね、と私は言う。自立した大人であることなんか、投げ捨ててしまいたいよね。私が無神経だったね。いいのよと彼女はこたえる。結局のところわたしは、何もかもうまくやりつづけるんだから。ちょっと拗ねてみたかっただけ。この人はやさしいなあと私は思う。大人になると、感情を吐き出すときにさえ、相手に気を遣う。そんなものこそ投げ捨ててくれたらいいのに、と思う。理解と共感に欠ける私を罵り、おまえはなにもわかっていないと言ってくれてかまわないのに。

「尊い犠牲」候補の反乱

 わたしはその映画、気が進まないな。評判がいいのは知ってるけどね、うん、できがいい悪いじゃなくて、おもしろいおもしろくないじゃなくて、わたし、なんていうか、パニックものの映画、観たくないの、あんまり。怖いんじゃなくて、えっと、怖いのかな、怖いのかもしれないな、映画そのものが、じゃなくって。

 パニック映画の登場人物って、危機に際して真実の愛に目覚めたり、家族を守るために力を発揮したり、するじゃない?わたし、あれがだめなんだよね。そりゃあ、危機的状況で愛は燃え上がるんだろうし、家族の大切さも輝くんでしょうよ。そして彼らは危機を乗り越える。

 そういうの観ると、愛して愛されている人間が生き残るべきだというメッセージを、わたしは感じ取っちゃうんだよね。ほら、わたし、家族とかいないし、作る気もないし、ひとりで生きてひとりで死ぬつもり満々でしょ。そういう人間はただでさえ風当たりが強いんだよ、この国の人は無宗教だっていうけど嘘だよ、「家族教」信者が多数を占めてるよ、ぜったい。家族がない、作る気もないっていうだけで迫害されるんだから。迫害っていうのは比喩だけど、比喩じゃないギリギリの感じだよ、実のところ。

 いい年して家を借りるのにも職場を移るのにも保証人を要求されて、それが親族じゃないととやかく言われて、カネで保証人を引っぱってくればいいところを探せば今度は緊急連絡先とやらを要求されて、それが親族じゃないとまたなんか言われる。めんどくせえ。女だとよけいに、日常生活でもとやかく言われる。父か夫か子に属していないとまともじゃないとでも思ってるんじゃないのか。あいつらの中で父も夫も子もないわたしの人権は目減りしてるんじゃないのか。冗談じゃねえや。

 生みの親を愛さなくてなにが悪い。わたしが十代のころ「あなたも大人になればわかる」って言ってた連中に見せてやりたいよ、二十年後も同じように、いや、ますます確信をもって、親なんか愛せないですねと断言しているわたしを。「自分が親になればわかる」とか言うんだけどねそういう連中は。いいかげんにしろ。

 わたしは愛を否定するつもりはない。わたしだって誰も愛していないのではないし、もちろん、愛してなくたってぜんぜんいいと思う。どちらにしても、家族とその候補である恋人を愛として、それを必須とするような連中を、わたしはぜったいに肯定しない。

 ねえ、フィクションの中の災厄でも人は死ぬでしょ、尊い犠牲とか出るでしょ。わたし、フィクションの多くが採用している価値観のなかでは、真っ先に尊い犠牲になっちゃう人だと思うんだ。だって、家族またはそれに準ずる者への愛の力で危機を乗り越える世界にあって、家族またはそれに準ずる者のない人間は危機を乗り越えられずに死ぬべき者でしょうよ。

 フィクションにあってわたしは、地震で逃げ遅れて最初に死ぬ人間、テロリストが見せしめに殺す人間、怪物の一撃目で潰される人間。どんなによくできたフィクションでも、自分がごみみたいに死ぬ「愛に目覚めない人間」として処理されるであろう世界を、娯楽としてわざわざ摂取する必要はないよ。わたしは彼らの世界では、テロリストの人質になった大勢の人々のあいだからてきとうに選ばれて頭に紙袋をかぶせられてカメラの前で頭を打ち抜かれる役回りの人間なんだから。

 たかが映画、たかが小説、でも、それが受けるのは、みんなの中にある価値観や願望を写しているからだとわたしは思う。多くの人が、危機にあっては愛に目覚めるべきだと思ってる。愛し愛されている者が生き残るべきだと思っている。家族のない人間は家族のある人間より価値が低いと思っている。おあいにくさま、わたしは、誰に愛されていなくても、生き残ってやる。

 わたしはわたしの命を誰にも格付けさせてやらない。他人がわたしを、愛し愛されていないから価値が低いと見積もっても、それを内面化してやるつもりはない。けれどもわたしは彼らの価値観に基づくせりふを大量に浴びてもまったく影響を受けないほどには強くはない。そういうものに接したらやっぱり気分が悪くなる。だから、主要な登場人物がにわかに愛に目覚めたり家族を思って危機を乗り越えたりするフィクションは、避けてるの。

 へえ、危機にあって愛に目覚めたり家族を守るために立ち上がったりしない映画?それなら、わたしも楽しめるかな。いいよ、観に行こう。

JR恵比寿駅23時36分の狼煙

 どうしてこんなところにいるんだろう。そう思う。自分も、向かいの人も。どうしてもこうしても、仕事上の必要がない相手を食事しようと言って呼び出したんだから、当たり前に適当なものを食ってるんだけど、お食事をしませんかという誘い文句の目的が食い物であるはずもない。その、食い物じゃない部分で思う。どうしてこんなところにいるんだろう。
 目の前の席を見る。女が座っている。楽しそうにふたことみこと話し、それから、目をそらす。そらしてもう一度、見る。ほんのすこしうつむく。ほほえむ。何かをかみ殺した口元。ひとつは食材だった動物。もうひとつは察してほしいせりふ。おそらく。
 楽しそうだな、と思う。楽しそうだし、なんだか不安定だ。そういう経験をしたことが、今までにないわけじゃないけど、思春期の病気みたいなもので、あとはだいたい相手をぼうっと見ていた。不思議だからだ。熱病の中にずっといるような人たちがこの世にはけっこういるのだ、と思う。熱病の記憶さえあいまいな中年になってもまだ、いちいちびっくりする。熱病の人をつぶさに見る機会がそれほど多くはないからかな。
 この人は若いから、と思う。でもそれは嘘だ。彼女は一回りも年下ではなくて、こちらはといえば、十年前どころか二十年前から「熱病」の覚えがない。だからたぶん人種がちがう。この人をどこかに連れていこうとすれば簡単なんだろうな、と思う。どうかすると彼女のほうから行きましょうと言うんじゃないだろうか。並んで歩きだすと距離が近い。身長差がちょうどいいな、と思う。極端に背丈があると、小さい人相手には何をするにもかがみこまなくてはならない。動作に邪魔が入るだけで目減りするくらいに衝動のエネルギー値が低いのか、と思う。情熱とかの持ち合わせがあんまりないんだ、年齢のせいだけではなくて。
 顔を離すと視界に彼女のかばんが入る。滑り落ちるのを途中で掴んで彼女の腕に戻す。ごめんなさいと彼女は言う。ごめんなさい、どきどきしちゃって全然だめ。せりふの途中で顔を上げたから語尾が掠れて消えた。耳があまりよくないと言ってあるから彼女はずっと、対面としては大きめの声に調整してくれていて、そういうところは好ましかった。でもそれは好ましいというだけのことだった。
 うらやましい、と思った。どきどきしたい。だめになりたい。まして全然だめになるってどんな感じがするんだろう。話し言葉なのにやけに文法の正確な、語彙の誤りのほとんどない(おそらくは声の調整と同じく、聞き取りが苦手なことに配慮してくれている結果としてよけいにその性質が強まっているのだと思う)この人が「全然だめ」と言う。その動揺が、うらやましかった。
 これは明確に年齢にともなうものだけれども、フィジカルな欲望はあまりない。だから女性に触れる動機は別にある。したいのではなくてできることを確認したいというたぐいの、たちの悪い欲望だ。ごめんなさい、と思う。ひどいことだ、と思う。学生の時分に、カントが「他者は手段ではなく目的でなければならない」と書いた本を読んで衝撃を受けたのに、二十何年経ってこのように接触している相手は明確に手段だ。つまり、自分はまだそこいらの女に好意を持たれることがある、ということを確認する、手段。ひどい話だ。相手に触れたいのではなく、どこまでも触れてかまわないと許可されることを確認したい。そのための手段が、彼女なのだった。
 「手段」が顔を上げる。意思をもった目がふたつ。顔は、きれいだ。多くの人がきれいだと言うような顔じゃなかったら「手段」として不十分だから、そういう相手じゃないとだめなんだ。でも強い意志は怖い。「手段」じゃない部分は怖い。怖いし便利じゃない。だから好きじゃない。
 まったく、ひどい話だ。というか、ひどいのは話じゃなくて、自分だ。改札の内側に押し込んだ女の後ろ姿をぼんやり見ながら、そう思う。女がくるりと振り返る。手を挙げる。手を振る。顔はもうわからない。顔がついているということくらいしかわからない距離が、彼女とのあいだに空いている。彼女は右の腕を垂直に上げ、手首から上だけを一度、ゆったりと回転させた。
 遠くの人に手を振るのはどうしてなんだろう。記号としてはものすごく下等だ。狼煙レベルに雑だ。見つけてほしいというならまだわかるけれども、これから別れる(しかも、なんならもう会わない)相手に手を振るのは、情報量としてゼロだ。ここにいます、という以上の情報がない。そう思う。でもやっぱり、自分でも手を挙げて、振る。狼煙。雑な信号。原初の記号。わたしはここにいます。