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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

のらりくらりと逃げている

 今は毎日なにしてるのと訊くと掃除、と彼はこたえた。古いものって手をかけてやらないとあっというまに荒廃して人の気分を悪くさせるから。ボロ屋はボロ屋でも清潔であればそう悪くないものなんだ。僕は掃除に関してはけっこう有能で、一週間と一ヶ月と半年のローテーションを組んで作業を決めてる。だから抜け漏れはない。なかなかいい大家さんだろ。彼は中年の前半に似つかわしくない笑いかたをする。私も笑ってみせる。彼の笑いかたは子どもじみているようにも老人みたいにも見える。生活が老人ふうだからそう見えるので、予備知識がなかったら子どもめいた人間だと判断するかもしれない。口調はたいていほんのりと愉快そうで、振れ幅が非常に小さい。
 掃除が終わったら104号室の長峰さんの新聞受けを見る。外から見るだけだよ、それで生きてるってわかるから。保証人の息子さんに頼まれて三日に一回声かけてたら長峰さん参っちゃってさ、おい俺は都会人なんだよ、声かけとか勘弁してくれや、死んでない合図に毎朝新聞抜いとくから、って。まあそのほうがお互いの幸せのためだよね。
 全戸毎日じゃないけど共有部の掃除のついでにみんなの郵便受けを同じように見る、チラシって自分が受け取るぶんにはめんどくさいだけのものだけど、うちみたいに一部屋ずつの前に郵便受けがある古いアパートでは生存確認に便利だ。長峰さんは年が年だから毎日だけど、ほかの人にも何があるかわからないからね。
 何があるかわからない人が多いのと尋ねる。そうだねと彼はこたえる。少なくとも若者ばかりいる場所とはちがう。僕はもうひとつアパートを管理してて、そっちは若者たちのシェアハウスなんだ。彼らの健康状態はそれほど心配していない。家賃の支払いが滞る心配はけっこうしてるけど。住んでて毎日掃除してるほうの物件は戦略的に年金生活者と生活保護世帯を受け入れてるんだ、そうじゃないと古いアパートは値下げ競争に晒されるだけだから。
 そういう場所がある世の中はいいと思う。思って、彼を褒める。すると彼はまたすこし笑う。そういう場所がある世の中にするのは自分のためだよ。僕の跡継ぎもそのうち用意しておく。そうすれば僕は安らかに孤独死できる。ねえマキノ、安心して孤独死もできない世の中なんかまちがってると思わない?平均寿命が自分よりずっと長いはずの年下の女の人と結婚した長峰さんだって奥さんに先に死なれて僕のアパートにいるんだ。ずっとひとりでいる人間がやたらと不安になるのもおかしい。僕は僕のために僕が安らかに孤独死できて始末がたいへんになる前に見つけてもらえる世界をつくろうと思うよ。僕の物件ひとつふたつだけでも。
 掃除と管理と住民のようすを見る以外の時間はどうしてるのと訊く。本読んで好きなときに寝てる、と彼はこたえる。当たり前だろ、僕が何を目指していまの生活を築いたと思ってる。そうだねと私はこたえる。健康と無為をめざして、だっけ。そう、健康と無為。どう、健康と無為の調子は。もちろん最高だよ。いいなあ。いいだろ。
 彼と私は大学生の時分からの友人だけれど、会うのは数年に一度だ。学生時代にだってそんなに親しいほうじゃなかった。私たちはただ、ある種の感覚と願望だけが双子みたいに似ていた。生きてると基本、疲れる、と彼がつぶやいたとき合意したのは私だけだったし、あー、あした世界が終わればいいのになー、と私が言ったとき、うなずいたのは彼だけだった。
 マキノはどこかからエネルギーを調達することに成功した、と彼は言った。少なくとも昔よりは疲れないで毎日働いてる。自分に合う場を見つけたんだろう。でも僕はそうじゃなかった。いわゆる社会というところで、いわゆるいい会社というところで、いっそう気力をうしなった。親族でただひとり、「おまえ、会社が合わないんだろ」と見抜いた祖父がアパートを残してくれた。実にラッキィだった。僕は会社でせっせと働いて、夜中と休日にちまちま自習して大家さんをやるための資格をずらりと取りそろえた。すごい危機感で勉強して貯蓄してたよ、生きるか死ぬかの勝負時だと思って。
 勝って、よかった、と私は言った。数年前に会ったとき彼は会社を辞めた直後で、とても気配が薄くって、貯蓄があるうちはメシを食う、と言っていた。なくなることを想像すると怖いのでいくらあるのと訊けなかった。運が良いんだろうねと彼は言った。自分で買った二軒目も順調、のらりくらりと僕の嫌いなものたちから逃げつづけて生きている。ねえマキノ、誰も信じてくれないけど、これが僕の人生の大成功なんだ。わかるよと私こたえた。とてもよくわかるよ。ほんとうに、おめでとう。