傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

サイレント・モンスター

 まとわりついて話しかけた。立ちはだかって行く手をふさいだ。かっとなって怒鳴りつけた。泣きわめいた。腕をつかんで揺さぶった。相手の顔がすこしゆがんだ。アテンション、と彼女は思った。いまこの人は、私を見た。私に注意を向けた。それをひどく嬉しく感じるのはおかしいことだと、そう思わないこともなかった。けれどもそれはバックグラウンドに流れるだけの感覚だったし、より大切なことのために早急に処理された。彼女は夫の目を見て言った。話をして。夫はため息をつき、彼女の腕を振り払って寝室に入った。しがみついて噛みついて殴りつける映像が彼女の脳裏に行き交った。
 彼女は息を吸い、息を吐いた。からだが震えていた。てのひらを見た。彼女は自分の衝動や欲望を見逃す人間ではなかった。それは確実に彼女のなかにあり、今しがた急激に育って、天井ちかくから彼女を見下ろしていた。夫を殴りたかった。そうではない。殴りたい。過去形ではない。今、彼を殴打したい。大きい硬い粗雑ななにかを振りかぶって叩きつけてやりたい。
 彼女は自分の爪で自分の腕に傷をつけた。爪のあいだに剥がれた皮膚が詰まるのがわかった。息を吸った。電話を一本かけた。子を抱きあげると子は半ば眠ったままでもごもごと口をきいた。彼女は子を背中に乗せた。かかってきた携帯電話が着信音を鳴らす前に取った。電話で呼んだタクシーのドライバーからだった。旅行鞄と子どもを抱えて車に乗りこみ、どこへ行こうかなと彼女は思った。
 とりあえず助かったと彼女は言った。今夜だけ彼女は、私の家に泊まる。彼女のLINEが何度かメッセージを受信していた。明日の宿を提供する誰かからかもしれなかった。「夫に暴力をふるいそうだから」という奇妙な言い分にもかかわらず、とりあえずうちに来なよと言わせるだけの人徳が彼女にはあった。まして彼女の夫は、私たちの元同級生は、ほとんど軽薄といっていいくらい愉快な人で、長年の片思いを実らせて彼女と結婚した幸福な人なのだ。何があったらそういう夫婦のあいだで殴るの殴らないのという話が出るんだろう。
 何があったのかって訊かないのと彼女は言った。私は思案してから口をひらいた。なんか、怖い。私が、みんなのこと、学生時代とおんなじなんだと思って、うかうかと寝たり起きたりしているうちに、世界が変わっちゃったみたいな気持ちする、だから、うまく言えないけど、殴るの殴らないのって話、聞きたくて聞きたくない。まあ聞きなよと彼女は言って、うっそりと笑った。怖い顔だった。
 彼はよく話す人だった。けれどもある条件を満たすと夫の話が別の方向に逸れることに彼女は気づいた。彼自身のこまやかな感情について、彼は話さない。話題自体はそのまま、巧妙に主語をすりかえ、彼は自分の気持ちを言うことがなかった。彼女はそのことに気をつけて話をするようになった。それから彼女が彼を殴りそうになる夜まで、彼は感情の語彙を口にしたことが、ただの一度もなかった。
 気持ちを言わなくてはものごとが進まない場面はどうしても出てくる。たがいの義理の両親との関係でまず、彼は躓いた。「あなたの気持ちは」と迫られる場面を避けることができなくなった。さらに、彼女は妊娠した。いろいろのことを、彼にしてやれなくなった。仕事を辞めたほうがいいと彼は言った。嫌だと彼女はこたえた。家事の手が回らないから不満なの?でもそれはあなたもすべきことじゃないの?彼は黙った。彼女は話し、彼は黙る。それが繰り返された。やがて彼は口を訊かなくなった。そうして彼女は衝動的に家を出た。彼を殴打する前に。
 彼女は話を終える。私は尋ねる。あのさ、娘さん、もう三歳だよね。そう、と彼女はこたえた。あの人が口を利かなくなってもう三年になる。子どもは彼と口を利いたことがない。私はあまりに驚いて、それから猛烈に腹を立てた。学生時代、私たちは彼の話を聞く準備があった。私たちは私たちの話をして、彼に水を向けた。彼の気持ち、彼の感情についての話を待っていた。でも彼は言わなかった。彼は饒舌だったけれども、話題はいつも彼自身でないことだった。でもそれがそんなに重大な問題になると思ったことはなかった。
 私は言った。なにか深い事情があるのかもしれない。でも私は彼のしたことを絶対に肯定できない。あなたが殴りたくなって当然のことだと思う。生まれた子を無視しつづけたまま三年も過ごすなんて恐ろしいことだよ。自分の気持ちを話すことを覚えなかったのは、彼の罪だと思う。過失ということにしてもいい。でも無罪じゃない。彼には責任がある。暴力的なのは、彼のほうだと私は思う。