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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

他人の偽善の遇しかた

 私はちいさく手を振る。彼女はタブレットに目を落としてほほえんでいる。私に気づかない。私はそっと彼女の横にまわる。突然目の前に顔を出して驚かせようとすると彼女は片眉を上げて私を見、子どもか、と冷たく言う。それからにっこりと笑う。くっきりと刻まれるきれいな笑い皺、骨のかたちの透けて見える長い指、そこにつけられたいくつもの派手な色の石、よくデザインされたいかにも高価な衣類。私も笑う。そうして尋ねる。なに見てたの、うれしそうだった。講演の感想だよと彼女はこたえる。
 彼女はいわゆる社会起業家だ。この数年で少し有名になったようで、そうしたことに関心のある企業や学校で講演などもしているということだった。感想は良い、と彼女は言う。学校行事を切り抜けたい子どもが通り一遍のせりふで講演者を褒めそやしている文章。講演から連想された自分の体験を綴り、もはや感想ではない文章。ときに激烈な批判。そういうものをひっくるめて、彼女はじっくり読んでいるらしい。いやなものはないのと私は訊く。たとえばさ、事業に対する批判はOKでも、理屈の通らない非難はあんまり気分のいいものじゃないでしょう。
 そうでもないよと彼女はこたえる。理屈の通らない非難には彼らの感情がある。私は他人の感情に興味があるから、そういうのもおもしろく読む。たとえば偽善者という非難がしばしば寄せられる。彼らは私のしていることを、善を模した非・善だととらえている、偽善というのはそういう意味のことばだ、けれども私は自分の事業が善行だと思ったことはない。なにしろ善とはなにかがわからない。私の動機はもっと身勝手で、生きていると目に入るだけでむかつくものがいっぱいあるから、むかつきを減らすために世界を変えてやるぜ、とか思って、それで、できることをやってるんだよね、でもまあいいや、仮にそれを偽善としたとき、なぜ彼らは私を放っておけないんだろう?わざわざ時間を使って講演まで聴いたりして非難するんだろう?
 偽善に対する非難にはいくつかのパターンがある。ひとつは、おまえに善意がないことを知っているぞという指摘。これについてはあんまり多いから、最近は自分の動機は善ではないし、そもそも善とはなにかを知らないって講演中に言っちゃうんだけれど、そうすると今度は心がないというせりふが出てくるわけ。これもまあ、「善意がない」の変奏なんだけどね。心がもっとも大切で、そして、ありうべき心の形状だか色彩だか定められていて、私にはそれがないからだめなんだという非難。心が清くなければ社会問題を解決するための事業をやっちゃいかんというのはなんの理屈にもなってないんだけど、そもそも理屈じゃなくて感情の領域の話だからね。清くあってほしいという願望がある、これだけ押さえておく。ありうべき心を余所から規定するなんて非常に恐ろしいことだとは思うけれども、それは置いておこう。
 どうして「清くあってほしい」のかは、もうひとつのパターンの非難を見るとわかる。それはね、「贅沢してるくせに」「大企業の後ろ盾があるくせに」というやつ。同類で論外のものに「お嬢さんの道楽」「マダムの趣味」っていうのがあるんだけど、これは「男の金で生きてるくせに」だね、事実じゃないけど。さて、これらはなにかといえばですね、要するに「たまたま恵まれているだけのくせに」です。同じことをするのでも襤褸を纏って食うや食わずの人がやるなら偽善じゃない、という感覚が広く共有されているようなんだ。なぜだと思う?
 私はね、身を守るための反射だと思う。まず、この世の善のベクトルがひとつであると仮定する。そして、もしも私が善行をしていて、そうして特別に恵まれているのでなければ、同じような立場にあって善行をしていない人間が相対的に「悪いもの」になってしまう。そう感じる人間たちにとって、私は心ない偽善者でなければならない。そうでないなら、特別に清らかで常人とはかけ離れた存在でなくてはならない。それなら彼らと同じ人種ではないから彼らは「悪い」者にならない。そういう心の動きじゃないかなと私は想像している。
 もしもそうだとしたら、と私は言う。彼らはそれこそとてもいい人たちなんだね。だっていいものでなければならないという規範をそんなにも強く内面化しているんだものね。そうだねえと彼女はこたえる。彼ら「いい人たち」に対する私の答えは簡潔なものだよ。善はひとつではない、私の善や私の偽善はあなたに影響しない、私が仮に善をなしても偽善をなしてもあなたの価値には影響しない、だから放っておいてください。