傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

歴史をあけわたす

 そうそう、このあいだフジモリさんからFacebookの申請が来てねえ、びっくりしたよ。私がそう言うと彼女はちょっと眉をあげて首をかしげた。フジモリさん、と私はゆっくり繰りかえし、発音しながら首の後ろのある部分がちりりと痺れたことを自覚する。そこは私にとって、どうしても許せないものごとに反応する感覚器で、怒りや嫌悪の感情が動くより先に、そこがノイズを生むのだった。だから私はその部分を「私の倫理」と呼んでいた。
 フジモリさんは彼女の学生時代の恋人で、ふたりはとても仲が良かった。フジモリさんは少しばかり内向的で、伏した目の睫の長い、きれいな顔をして、まだ大人じゃないみたいに見えた。少年と少女、と私は彼らを見ると思った。はたちを超えたのにこの人たちは少年と少女で、そこから出るつもりなんかきっとないんだろう。
 けれどもそんなことは誰にもできないので、彼女は少女ではなくなり、彼と別れた。それがどうしてなのか、そこまで深いつきあいではない私に彼女が話すことはなかった。けれども誰かの口からその名が出ると彼女の身体にはあきらかな影響があらわれた。背中から頭のてっぺんにかけての筋肉のあちこちが微動しすぐに収縮しやけによい姿勢になって、表情は変わらず、けれどもプラスティックの皮膜を一枚はさんだみたいに見えた。彼らが別れて十年が過ぎても、それは変わらなかった。
 だから私ははじめて、彼女がその名に特別な反応を示さないのを見た。もう十年が過ぎたのだからと私は自分に言い聞かせる。なんの反応もしなくなるのはむしろ自然なことだ。それはただの学生時代の恋の思い出になったのだ。きっとそうだ。彼女は口をひらく。誰だっけ、そのひと。
 私はぞっとする。それからつとめて丁寧に、彼の素性と過去を話す。私たちの学生時代について軽くおさらいをする。どうしてか怖くて、でも言わないわけにいかなかった。二年生のときからつきあってたでしょう、あなたたち。
 彼女はきょとんとしてそれから笑った。どうしたのよ、若いころ誰かとちょっとつきあってたの、忘れちゃうくらい、当たり前のことでしょう。何年前のことだと思ってるのよ、いやだ、マキノったら。私は言いつのることができない。怖くてとうとう口にすることができない。そんなのじゃない、そんな手軽なものじゃなかった、あなたたちは何年も自分の半身として相手をあつかっていた。つい最近まであなたはそのことをしっかり覚えていたし、そのことを血肉にして生きていたんだ。
 ほとんど逃げるように私はその場を辞し、共通の友人にかたっぱしからメッセージを送る。ほどなくひとりがつかまる。私はテキストではなく音声通話を起動し、今日起きたできごとについて、訴えるように話した。まだ自宅に着いていなかった。駅前で、立ったままで、まだ夜はいくらか深まる余地を残して、誰もがこれからおうちではないどこかへ行こうとしているように見えた。通話の相手はやはりどこかの街路のノイズを響かせたあと、話しだした。
 あの子ね、最近彼氏できたんだ。ああ、うん、ちょっと前のみたいな軽いのじゃなくってね、もう、夢中、全力。その人のためにいろんなことをしている。いろんなことを要求する人でもあるから。フジモリの件はそのせいだと思う。
 私は少し口が利けなくなり、それから訊ねる。今までの誰よりその人が好き、っていうのはわかるよ、大好きなのはいいことだよ、過去より今が大切、それ自体はとってもいいことだと思う。それで思い出の重みが薄れるのもわかる、でもそういうのじゃないの。彼の意味、彼女にとっての彼の意味がまるきり変わってしまっていたの。つきあっていたという事実だけは認めてるんだけど、彼と彼女のあいだにあったいろいろなお話は、きれいに消されてしまったようなの。フジモリさんは、ちょっとした、軽い一時的な彼氏だった人、そんな感じなの。
 彼女いまその新しい彼氏の所有物になってるからさあ。スマートフォンの向こうの声が教えてくれる。所有する男が、彼女の過去を書き換えたんだろうね。時の政権が歴史書を新しく作るように、彼女の過去を彼は書き換えた。証拠のある事実じゃなくって、その意味するところ、事実が配置される文脈、それを支えるディティール、そんなものを書き換えた。あるいは彼の要望に添って、彼女自身が書き換え作業をしたのかもしれない。かくして彼女の歴史は変わり、フジモリの名は史書から消えた。所有というのはね、つまりそういうことだよ。