傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

架空の拳

 彼は彼女がソファにごく浅く腰掛けていること、その脚はすぐにでも立ち上がる準備ができていることを見て取った。彼は苦笑し、それから少しかなしくなり、それらを冗談でくるんでしまうために両手を広げ、軽く挙げてみせた。何もしない。彼がそう言うと、それは困ると彼女はこたえた。そりゃそうだと彼は思った。そうしてより正確なことばを探した。危害を加えない。今度は彼女が、さみしそうに笑った。知っている、と言った。
 果穂はそこまで話して、おそらく意図的に止めた。意味がわからないと美知子が言った。怜子がうなずいた。私だけが、わかるよと言った。私たちは学生時代からの友だちで、年に一度こうして小旅行に出る。怜子が子どもを産んでからは彼女の家の近くを選び、今年はそこからほどほどの距離にある温泉宿に集まっていた。温泉は子連れにとって悪くない選択肢だ。子どもへのサービスにはならないけれども、親はのんびりできるし、子どもは親のそばにいることができて、そんなに疲れない。
 じゃあサヤカの回答を聞きましょうかと果穂は言う。私は確信をもってこたえる。いつ殴られそうになってもいいように、逃げる、あるいは殴り返す準備を怠らなかったんだよね。果穂が満足げにうなずくのと、あとのふたりが声を上げるのが同時だった。果穂あなたそんなわけのわからない男とつきあってるの、やめなさい、今すぐ。そう言われて果穂はひっそりと笑い、そんな人じゃないと言う。
 暴力なんか振るったことない、会社の先輩で、何年も知ってる人で、だいいちつきあってもう三ヶ月になるのよ。それならどうしてって、訊くんでしょう?でも私と、それからたぶんサヤカは、どうして身構えないでいられるのかって、訊きたい。
 私はうなずき、ふたりぶんの視線にこたえて話を引き取る。相手の人格とか、知っているとか知らないとか、あんまり関係ないの。密室では反射的に殴られることを仮定するの。子どもを除いて、そうしない相手はいないの。女ならごく薄い、男なら濃い、なぜならたいていは私より腕力があるから。ほかにも理由はあるかもしれないけど、とにかく、誰かと密室でふたりきりになるということは、相手が自分を殴る想像とセットになってる。
 信じられない、と怜子が言う。そんなだったら、うかうかデートもできないじゃない。しますよと私はこたえる。うかうかとデートをしますよ。そうして薄く薄く怯えているのです。
 視線で話の主導権を返すと、果穂はゆったりと笑い、いいことじゃないけど、と言う。確実に不幸なことだけど、そういうふうに私たちは育ってしまったんだから、しかたない。殴られてたわけじゃなくても、そうなる人間はいるの。そしてそれを察してもうまく対処してくれる人で、まずはよかったと思うよ、今回の彼については。
 それはすごくいいねと私は言い、そのよさが私たちにはわからない、と怜子が言う。私は美知子を見る。美知子は黙って私たちを等分に眺めていた。もう十年も前から、彼女はいろいろな場面でそうしていた。公平ということばを、若いころの私はそんなに好きではなかったけれども、この人の目のようなものを公平と呼ぶのなら、それを好きになれると思った。
 美知子は口をひらく。いま二対二だけど、これ敷衍してもだいじょうぶかな。もう少し果穂・サヤカ組が少ない気がするんだけど、どう。少ないでしょうと果穂がこたえる。たまたま半分いただけじゃない?実際の割合は知らないし、はかりようがない、無視できる数じゃないような気はする。
 おばあさんたち、と美知子は言う。私のおばあさんたちが、そう思っている確率も、けっこうあるということだね。美知子は介護士だ。私は彼女のおばあさんたちを想像する。体格も顔つきも不具合もさまざまの、けれども世話を必要としていることだけは共通しているおばあさんたち。
 ああ、と言うと、美知子はうなずく。あの人たちは物理的に私たちに身体をあずけなくちゃならない。走って逃げるのに充分な、果穂やサヤカのみたいな丈夫な足だってない。
 私は、果穂の言うことがわからなかったけど、将来はわかるかもしれない、と美知子は続ける。わからないようにしたいと思う、そう思える生活をさせてやりたいと思う、自分に。それに果穂もサヤカも自分にそういう生活をさせてあげてほしい。どこの馬の骨ともわからない介護士を頭から信じてうかうか過ごすおばあさんになってほしい。
 ありがとうと私は言う。そのとき怜子が部屋の隅に目を遣って、子どもは、と言う。あの子はどう思ってるのかしら。衝立で作った暗闇の中にその子は眠っていて、私たちはいっせいに、見えもしないその子を見る。

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