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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

周回遅れの証拠

 現代の厄年なんじゃないと誰かが言った。その場に集まった人々の外見は無軌道に異なっていた。ふだんは接点のない者同士で、ただみんな本が好きなので、本の話をしようとして来たのだった。それぞれが初対面であったり、そうでなかったりした。
 そうして誰かが言ったのだ。二十八って現代の厄年なんじゃないの。カトウくんそう思って乗り越えなよ、俺も二十八のとき仕事で大失敗して死んでやろうかと思ったもんね死ななかったけど、それでマキノさんは、ほら前に言ってた、一年間で三回交通事故に遭ったってやつ、あれ二十八くらいだよね、ほかの人も、なんか、ない。
 どうやら二十八歳のカトウくんが今現在ひどく辛い目に遭っているために、二十八歳厄年説を裏づける話が募集されているらしかった。二十八からひとまわりが過ぎたというシライシさんがそのころの大失恋の話を披露してみんながそれに頷き、シライシさんは次の人を指名する。ケイタもあるでしょ、なんか。その情緒の安定は異常だよ、ずっとそうだったっていうんなら私ちょっと許せない。
 ケイタと呼ばれた男性は植物の蔓を思わせる細長い人物で、髪に占める白さの割合と顔の皺の少なさが不均衡に見えた。彼の受けこたえは落ち着いているようにも鈍いようにも思われた。
 二十八、と彼は言う。そうだね、人生でいちばんどうしようもない経験をしたのはたしかに二十八のときだ。でもそれができごとと言えるのか僕にはわからない。失恋とか事故とか仕事の失敗とかそういうんじゃない。僕はただ、
 彼はそこでことばを切り、人々の顔を見渡して、しかたなさそうに言う。僕はただ手遅れだったんだ。

 そのとき彼はもちろん二十八歳で、時は土曜の午後だった。仕事の都合で英語の試験を受けた帰り道を、彼は歩いていた。試験はどうということはなかった。英語というのはそういうものだと彼は思った。勉強したらしただけ点数が上がる。しなかったら目減りする。
 駅へ向かう道はその試験を受けた人たちで少しばかり混んでいた。学生らしいのもいるけどサラリーマンらしいのもいる、と彼は思った。僕と同じで仕事の都合で受けさせられたのかな、みんな何点くらい取ったんだろう。
 そのとき彼は唐突に彼らが自分と同じでないことに気づいた。彼らは人生を順調に遂行している人々だった。彼は自分と彼らとのあいだに奈落のような差異があることに気づいた。それは彼の中に絶対の確信として誕生した。いや、確信は以前から彼の中にいたのだ。ただ彼が目を背けていただけなのだ。
 彼は大学を出て新卒で入社した企業で働いていた。おもしろいわけではないけれど、がまんできないほどでもない仕事だった。彼には少し前までガールフレンドがいた。これからもきっとできると彼は思っていた。彼には何人かの友だちがいた。社会人になってからは疎遠で、それは当たり前のことのように思われた。彼には故郷があり両親と兄がいた。さほど仲良くはないけれど、何かあったら助けあうはずだった。
 彼はだから他の人々と並走していたはずだった。彼は人生のトップのグループにはいなかったけれども、最後尾にもいないはずだった。
 でもそうではない、と彼は思った。僕は周回遅れだ。周回遅れのランナーはそのときだけを見たら周りと同じだ。僕は手遅れだ。
 彼はその確信を内臓におさめたまま歩いた。電車に乗り駅を降り住み慣れた町を歩いた。そこは物静かな地獄のようだった。そこはいつものとおりだった。彼は生まれてはじめて意図的な死について具体的に想像した。彼はそれによってしかその状態から解放されないかのように思われた。
 それで、と誰かが聞くと、そのあとのことはよく覚えていない、と彼は言った。一ヶ月くらいで元に戻ったような気がする。あの帰り道のことを強烈に覚えていて、あとのことはなんとなく霞んでる。
 それって一瞬心の病気になったとか、そういうんじゃないの。誰かが言う。そうかもね、と彼はこたえる。でもそうじゃないかもしれない。僕はときどき思う。僕はあのとき僕の周回遅れの証拠をつかんだ。それは必要な認識だった。でも僕はあまりの苦しさにそれを投げ捨てた。だから覚えてない。それが真実なんじゃないかって。
 だとしたら、とシライシさんが言う。だとしたらどうすんの。死ぬまでごまかす、と彼はこたえた。あれが真実だとしたら、きっとあれが最後のチャンスだったんだ、周回遅れをどうにか取り戻す苦しいけど最後の。でももうそれはとうに失われた。僕はこのまま死ぬまでそれをごまかすしかないんだ。

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