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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私のおかあさん

 かがんで目の高さを合わせ、おかあさんと呼びかけるとその人は振りかえり、やがて、彼女の名を呼んだ。彼女は首まで赤くして、でも泣くのはどうにか回避して、その人の手を取った。すげえなと彼は、小さくもない声で口にする。もう俺のことだってよくわかんないのに。相変わらず無神経なやつだと、彼女は思う。おかあさんが、ここで、聞いているじゃないか。
 若くして彼を生んだのかしらと、初対面で彼女は思った。恋人の母はなんだかつやつやとしてきれいだった。大きい声で笑い、愉快そうに話して、ねえ私あなた大好きと、遠慮のない感情表現をしてみせるのだった。おかあさん怒ったら怖いんじゃないのと、彼女が彼に尋ねると、怖い怖いと彼はこたえた。そりゃもう、箒もって追いかけ回すからね、もう完全に本気、だからこっちも必死で逃げた。おかあさんは機嫌よく笑って彼女に地元のお酒をすすめ、自分もくいくいと飲みながら、だってあんた、ろくなことしないんだもの、と言って、その内容をいくつか披露した。彼はストップストップと叫び、彼女は苦しいくらい笑った。父親はその場にいなかったけれど、彼女はごく自然に、ここ、私のうちだ、と思った。私、おかあさんの子になる、と思った。
 ミカコさんへの不満って、ろくに飲めないことだけよ。おかあさんはそう言って、彼女にひどく親切にした。おかあさんの対になる男、恋人の父である男は、ときどき顔を見せたけれども、そのあとは一定期間、必ず姿を消すのだった。だから彼女はなにかというとその家を訪ねた。自分が行けばおかあさんはさみしくないのだと、どうしてかわかっていた。その息子と正式に結婚したのでもないのに。
 おかあさんがいつバランスを崩したのか、彼女は覚えていない。気がつかなかったなんて自分はほんとうにだめだと思う。気づいたらおかあさんの酒量はずいぶんと増えていて、ある日家の中で転んで足を折り、それきりずいぶん気落ちして、夜になるのを待ちきれず、ひっそりと飲むようになった。なんか、今、プロポーズしにくい、とその息子は言った。母親、押しつけることになるし。彼女は彼を見た。もうそんなに好きじゃないかもしれないなと思った。おかあさんがほとんど自分だけの力で育てたたったひとりの子だから、もうちょっとつきあってやらないこともないけど。
 おかあさん、私が行くまで待ってなきゃだめだよ。そんなふうに彼女はおかあさんの飲酒をとがめた。仕事の都合をできるかぎり調整した。おかあさんがいい子で待っていると彼女はおおいに喜んで、すぐできるからねえ、今つくるからねえと、ひっきりなしに話しながら、滋養のあるおつまみをたくさん並べ、おかあさんにたくさんの質問を投げかけて、かつておかあさんの正しい味方であった、もはや完全な敵のようにもなってしまったそれが、できるかぎりゆっくりと消費されることを願った。
 ねえ私はアルコール依存症に荷担してしまったのかなあ。彼女はいったん話を切って尋ねる。そういう側面もないとはいえない、と私は注意深くこたえる。けれども止める方向への力のほうがだいぶ強かったと思うよ、断酒を強制できる立場じゃなかったのだし。彼女は私のなぐさめを目の動きでするりと流して、また口をひらく。
 おかあさんはいつも言うことを聞いてくれるのでなかった。おかあさんはすごくいやなことを口にするようにもなった。混乱することもあった。持ち上げて運んでやらなくてはいけないこともあった。もうきれいじゃなくって、触ると紙みたいだった。でも彼女がおかあさんのそばを離れたのはそんなことが理由なのではなかった。おかあさんの息子が彼女に、自分のきょうだいの子の世話なんかを頼んでくるようになったせいだ。なんで私がそんな赤の他人のごはんつくってやらなきゃいけないのよと彼女は尋ねた。彼は絶句した。この人はなんにもわかっていないと彼女は思った。私は、おかあさんだから、いろんなことをしたのに。
 おかあさんと彼女は言った。私もう行くね。ごめんね、おかあさん。おかあさんはすっかり拗ねて彼女を見ないのだった。おかあさん、お酒やめてね。飲むんなら私としたみたく、楽しくゆっくり、ごはん食べながらだよ。おかあさん。
 長い時間を経ていろんなことがすっかりわからなくなったというその女性の目を見て、ありがとうと彼女は言う。お酒、やめてたんだってね。お願い、聞いてくれたんだね。だってミカコさんろくに飲めないんだからしょうがないじゃないか。女性は大きい声で言い、彼女はやっぱりうんと笑った。十八年と少し前、この人はたしかに、私のおかあさんだった。

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