傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

名札がないほうの世界

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。私の勤務先ではひところ、すべての会議がオンラインになり、そして、感染者数が減ったという理由で、一部が対面に戻った。そのせいで私は今、会議室で冷や汗をかいている。誰が誰やらわからない。わからないが、わかるふりをしなければならない。もう一年半も毎月会議をやっているメンバーなのだから。

 そもそも私の昇格のタイミングが悪かったのだ。疫病流行とほぼ同時である。自分が管理する人員が大幅に増えた上、他部署との連携をしなければならない。その役割をやることになった途端の疫病だ。さらに「なんかインターネットとか強いんでしょ?」という理由であれこれやらされた。なんだよ、「なんかインターネットとか」って。
 そうしたわけで疫病流行当初から現在まで、知らない人とたくさん話すことになった。ほぼオンラインだった。私は知らない人の顔を覚えるのが極端に苦手なので、オンライン会議システムで名前が表示されることにおおいに助けられた。というより、それで会議を乗り切ってきたのだ。

 人の顔を覚えられないと言うと、しばしば「その人に興味がないんでしょう」と言われる。誤解である。私は誰の顔も覚えられないのだ。声と話し方は比較的早く覚えるし、体格やしぐさを総合すれば個人を特定できるから、社会生活に大きな支障はない。ないが、顔の造作はだいたいのところしか覚えていない。少しようすが変わればもうわからない。「Aさんかもしれないな」くらいだ。そして「Bですよ」と強く言われればすぐ信じる。
 目が悪いのはたしかだが、それ以前に見えていない。友人の子に「あんぱんまん、かいて」と言われて描いたら、友人から「パーツが足りていない」と指摘を受けたことがある。見本があるのにパーツが足りていなかった。絵が下手だとかそういう以前の問題だ。あんなに簡潔に作られたキャラクターの顔のパーツを把握する能力さえ私にはないのである。
 美術は好きだが、造形じたいはおそらくよくわかっていない。それで絵はでかけりゃでかいほどかっこいいと思っている(自分にもわかるから)。小さくて細密なのを出されるとしょんぼりする。いっとう好きなのは仕掛けと文脈のおもしろさで攻めるタイプの現代美術である。あれはいいものだ。私にもいっぱつで楽しめる。
 認知機能の一部が平均から強く逸脱している、平たく言えば知能の一部がすごく低いのだと思う。

 そんなだから人々が容姿をそれほどまでに重要視する理由が頭でしかわかっていない。みんなは人間の容貌の美がこまやかにわかるから、容姿の美しいのが好きで、容姿のすぐれている者が有利で、けっこうな数の人が自分を美しくないと思って悩む、なんなら病気になる人までいる、そういうことが頭でしかわかっていない。実感としてはいつまでたっても「たかが容姿」としか感じられない。ルッキズムに批判的である以前に、ルッキズムをやるために必要な能力がないのだ。
 自分の容貌に不満がないのだって、「なんとなし快く見えるから」「親しい人もよいと言ってくれるから」という程度でしかない。見慣れているから見分けはつくが、似たのを持ってこられたら間違えるかもわからない。集合写真の中にいる自分を見つけられなかったことさえ私にはあるのだ。

 そんな人間が仕事の都合でたくさんの新しい人と知り合うことになれば、たいていは軽いパニックに陥る。強く集中して声と話し方とシルエットを覚え、細心の注意をはらって失礼のないようにつとめるーー対面なら。
 でも私が昇格してから一年半、対面の会議がなかった。ほぼオンラインだったのだ。オンラインだとみんな四角いスペースにおさまってその上部に名前が書いてあるのだ。それが当たり前じゃなかったことを、私はすっかり忘れていた。

 冷や汗をかいている私の前で偉い人が会議の開催を宣言した。そして言った。年のせいでだいぶ目がかすみます。一年半も顔を合わせていなかったからだいぶようすが変わった人もあるんじゃないか。次回から座席表を配るから、そこに座ってください。どうも年寄りはいけないね。

 いけなくない。いけなくなんかない。最高だ。世の中には高齢でなくても高齢者より認知機能(の一部)が低い人もいるのである。たぶん私以外にもどこかしらの機能が低い人が社内に居ると思う。いたらぜひ知り合いたいと思う。みんなできることでつながろうとするけど、できないことでつながるにはどうしたらいいのかしらねえ。