傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

アバターの中からの手紙

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。僕の職場でもできるかぎり会食などを避けるようにと言われたので、避けた。避けていたら一年半、プライベートで人と対面しなかった。

 疫病のために人に会えなくなることがつらいとみんなは言うけれど、僕にはかかわりのないことだ。平素からろくに人と会わない。コミュニケーション全般がないとうらぶれた気持ちになるが、疫病以降には通話や映像でのおしゃべりが増えたから、コミュニケーションの総量は変わらない。
 先日一年半ぶりに友人と物理的に会った。そうしたら彼女は僕が姿をあらわすなり爆笑して(もともとわりと失礼な人である)、「Zoomとなんも変わらない! すごい、アバターみたい」と言うのだった。
 友人が言うには、人間の身体には多くの情報が付随しており、それは人格の一部でありつつ、動物としての存在を示すものでもあるのだそうである。だから人と物理的に対面することは彼女にとって必須で、Zoomでしゃべったからといって「会った」ことにはならないのだという。妙なことを言う人である。もともと変わっているのだ(彼女に言わせれば僕のほうが変わっているそうだが)。
 わたしは、友だちと対面したいけど、と彼女は言う。羽鳥さんだけは対面じゃなくていいわ。Zoomと同じだもん。びっくりするほど同じ。インターネットで「会える」人だわ。

 僕はもちろん物理的に存在しているし、生物として機能している。ちゃんと年をとって老けたりもしている。それでも僕の身体が他者にとってアバターのようであるなら、それは僕自身が他者の身体を必要としていないせいだと思う。僕は他人の身体の発する情報が理解できないのだ。それに魅力を感じることもない。
 僕は空気が読めない。読む能力がないし、読むことの価値も感じない。だからコミュニケーションをとる相手には「僕は伝達事項をすべて口に出して言います。できればあなたもそうしてください。空気は読めません。理屈はわかります」と言う。空気を読まなくてよい仕事に就き、空気を読まなくてもかまわない相手とだけときどき話をして、それで白髪が出るまで生きてきた。楽しい人生である。
 一度も悩まなかったのではない。とくに若いころは「恋愛をしろ」「結婚をしろ」という圧力がけっこう強くて、僕も「そうなのかな」と思って努力した。言い寄ってくれた女性と交際してもみた。やってできないことはないが、ものすごく疲れたし、なんだか気が塞いでしまうのだった。向いてない。そう思った。
 恋愛や性行為をしないことを異常だとか病気だとか言う人もいたけれど、その人にとって僕が異常でも、僕はまったくかまわなかった。その人が僕に対する何らかの強制力を持っているのではないからだ。
 よく考えたら恋愛だの性行為だの結婚だのを強制されるいわれはまったくないのだ。ぜんぜん理屈に合わない。昔の自分はどうして悩んでいたのだろう。今となってはわからない。三十くらいのときにそう思ったことをよく覚えている。
 両親はとうに僕が「普通」になることをあきらめていたし、親戚には会わなければよいのだし、職場の人間関係は職能を磨いて実績を出せば問題なかった。というか、そういう職場を選ぶために三回転職した。
 それでも、四十までは見合いの話が来た。僕の断りかたはだんだんストレートになった。僕は結婚しません。試しに会うこともしません。端的にそう言うようになった。年をとるごとにどんどん息をするのがラクになった。

 そうしたところでこの疫病である。病気はよくない。人が苦しむのはよくない。僕も苦しんだり死んだりしたくない。経済活動が停滞するのもよくない。できるだけ早く収束してほしい。
 それとは別に、疫病を奇貨として「自分はほんとうに物理的存在としての他人が必要なのか」を検討する人がいたらいいなと思う。なかには若いころの僕みたいに、無理にまわりに合わせようとして苦労している人がいるかもわからない。
 僕らは(僕のような人がいると僕は信じているので複数形を使う)ロボットみたいだと言われることがある。でもそうじゃない。感情があるし、薄情でもない。僕の若い頃の死に物狂いの努力の源は僕みたいな人間を罵る連中への憎しみと怒りである。何がロボットか。めちゃくちゃ人間じゃないか。
 年を取ったので若い人が気にかかる。僕のような若い人が罵られたりせず、幸福になってくれたらいいと思う。