傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

オマエ ヨクハタラク オレ シッテル

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それで僕の職場でも重い腰を上げて部分的にリモートワークを導入し、紙とはんこの文化を一部刷新した。というか、せざるを得なかったのだと思う。だって取引先はみんなとうにやってるんだから、最低限は合わせないと先方のワークフローに影響する。「この業務では電話の使用を差し控えていただきたい」とか、その程度のレベルの要求でも僕の会社では一大事なのである。
 この会社には年長者が多く、ITに対する関心の低い社員が多い。能力はそこそこあるので、PCくらいは使える。しかし、仕組みをがらりと変えることにはきわめて消極的だ。新しいシステムを覚えるのは面倒だからなるべくしたくない、という雰囲気に充ち満ちている。Zoom導入で一騒動、Slack導入でまた一騒動、僕は担当してないけど給与明細の電子化あたりも相当大変だったらしい。
 疫病前は紙の明細を出していたのかって? そりゃもう出してましたよ。なんなら経費精算の一部が現金でしたよ。経理が茶封筒に入れてくれるんだよ、小銭まで計算して入れて封筒の入り口をステープラーでぱっちんと止めてくれるんだ。世の中にはそういう会社がまだまだあるんだ、まじで。ちなみに給与明細はステープラーではなくのり付けで、そのへんもおおいに謎だった。たぶん「昔からそうだったから」というだけの理由でそうしていたんだ。

 そんな中、僕は(比較的)「若いから」という理由になっていない理由で諸々のツール導入を主導する立場になり、当然元の業務もしなければならず、疫病流行から半年は死ぬかと思った。半年後に手伝い要員が配置されて一息つき、一年後に業務調整がおこなわれて過労ではなくなった。遅い。何もかもが遅い。
 そんなわけだから長きにわたる(本来担当でない)IT化業務の報酬はゼロだった。ふだんならぜったい文句言ったと思うんだけど、もともと以前の評価で昇進したばかりだった。それも結構な昇格だった。そこまで行かないで定年を迎える人もいるような立場になったばかりだった。
 だからなんていうか「そうはいっても昇進のあとだしな……」みたいな恩義でずるずるやっちゃって、一年後くらいにようやく腹がたった。

 疫病下で突然いろんなことを変える必要が生じた。だからみんな大変だった。それは事実。僕は前年度までの業績で評価してもらってかなりの待遇アップがあった。それも事実。
 でもさあ、昇進は昇進、イレギュラー対応はイレギュラー対応でしょうよ。なんで「やって当然」みたいな流れになってるんだよ。けど今更何をどこに要求すればいいのか。

 そう思いながら数ヶ月、給与明細を開いたら(例のようやく電子化した明細である)、特別手当が二万円ついていた。人事に問い合わせたら「電子化関連を兼務されるかぎり毎月この手当がつきます」ということだった。
 やっとか。一年半たって、やっとか。遅い。うちの会社はなにもかもが遅い。

 遅いが、でもちゃんと見ててくれたんだな、そしたらまあいいかな。僕はそう思った。
 二万円でごまかされるなんて、ちょろい、とは思う。今までやってきたことを考えると安すぎるとも思う。さかのぼって報酬をくれてもいいと思う。でもそれはそれとして、誰かが、たぶん直属の上司が僕の仕事を見ていて、経営陣がそれを認めたということはたしかだ。そしてそれが弊社の亀のような人事評価プロセスを経てようやく給与明細に反映された、それもたしかだ。

 オマエ ヨクハタラク オレ シッテル

 直接しゃべったことのない渡辺さん(社長)の幻がなぜか片言でそう言う。僕の想像のなかで言う。そして僕は思う。じゃあまあ、いいかな。苦労したけど、わかってくれたみたいだから。

 僕は思うんだけど、組織の中で特定の個人に負担がかかったとき、いちばんしんどいのは誰にも見てもらえないことだ。報酬はもっともらっていいと思うけど、たとえちょびっとでも「忘れられてはいないんだ」「感謝されているんだ」と思えることがだいじなんだ。気持ちの問題だけじゃなくて、人事評価の積み重ねの一部としても使える。
 だからたかが特別手当二万円で僕は今後もこの会社にいることにした。

 とはいえ、弊社は遅いだけじゃなく、無口にすぎる。これがイケイケのベンチャーとかだったら、まずは「上層部はきちんと評価している」「少しでも報酬を上乗せするつもりだ」というメッセージがあると思うんだ。給与明細にだけ語らせるってなんなんだ。照れ屋か。