傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

要求コミュニケーションのゆくえ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでリモートワークが定着してしばらく経ち、出社時のコミュニケーションもだいぶ電子化された。そのためにわたしはものすごくほっとしている。渡邉さんからの働きかけが激減したからである。
 渡邉さんはわたしの部下である。以前の上司から「うまくやるのはたいへんだと思う」と聞いてはいた。高圧的なのか仕事ができないのか、そんなところだろうと思っていたら、そうではないのだった。渡邉さんはある意味でとても正しいのである。そして正しさで管理職のリソースを取れるだけ取ろうとする人なのだった。

 渡邉さんは管理職のミスを指摘する。渡邉さんは高圧的な話し方はしない。ただし話が長い。自分がなぜそれを指摘するのか、本来はどうあるべきなのか、そこから外れることが部下や会社にどういったダメージを与えかねないか、延々と話す。遮ると管理職が部下の指摘を遮ることの問題点について話す。自分の話をぜったいに止めることなく、相手が黙るまで二重音声のように自分の声をかぶせつづける。
 渡邉さんが指摘するミスは重大なものではない。些末なものである。なんならミスでさえない。せいぜい不統一だとか、わかりにくいと解釈されないこともないとか、その程度である。「重大なことではない」と言おうものなら「重大でない問題点をすべて放置しろという命令か? その命令はどのような権限で発令しているのか? あなたにその権限があるのか?」といった追求が繰りかえされる。

 そんなだから以前の上司は渡邉さんの面談要請を断ったり制限したりしたのだそうだ。そうしたら「面談できる者とそうでない者の違いを明示的に示すべきではないか」という要求が、長々とおこなわれた。
 それはある意味で正しい。表層だけ見れば渡邉さんは正しい人なのである。自身の利益のための面談を要求しているのではない。会社全体の利益を考えて問題をただそうというのである。
 以前の上司はそれですっかり疲弊し、部下全員の面談時間を極端に制限して残りのコミュニケーションはメールにするように伝えた。渡邉さんの要求は(なぜか)ずいぶん減ったが、それでも多くはあった。それで渡邉さんのメールの内容は人事部も把握するところとなった。とはいえ人事としても、それとなく話す以外は何もできない、とのことだった。

 そんなだから、渡邉さんが部下になって以降、わたしもだいぶ疲弊した。不統一やわかりにくさを減らすことはできても、すべてをなくすことはできない。誤字脱字などにも非常に神経を使う。理屈に合わない退け方をすることもできない。
 わたしは疲弊しつつ、考えた。なぜ渡邉さんはこのように上司に執着するのか。仕事をした上で(仕事はしているのだ)延々と「問題」を指摘するのは疲れるはずである。さっさと帰って親しい人と過ごすなり、ひとりの時間を楽しむなり、したくならないのか。わたしならマンガ読んで寝たいと思う。
 渡邉さんの前の上司にそうした疑問を投げかけると、彼は、これはひとりごとですけどね、と言い添え、目を逸らしたまま言った。

 あんなに労力をかけるのだから、ああした行為は渡邉さんにとって利益があるのです。僕にはそうとしか思われないのです。そもそもコミュニケーションはすべて要求なのです。その要求がすべて正義のためだなんてありえないのです。
 僕は渡邉さんと同性、あなたは異性、年代もタイプもちがいます。しかし渡邉さんは双方に同じ行動をとる。だから僕らが目的なのではないと思う。なんなら誰でもいいんだと思う。
 もしかして、上司にものを言って会話をすること自体が、渡邉さんの利益なのではないか。「そのとおりです」「それは改善しなければ」といった台詞を得ること、生身の人間が、渡邉さんの目を見て話すこと、それ自体が、渡邉さんの利益なのではないか。渡邉さんはそれが欲しいことを、もしかしたら自覚していないのかもしれない。自覚していなければその行為は渡邉さんの中ではただ正しいばかりです。それで「正しい指摘」を繰りかえすことがくせになってしまったのではないでしょうか。

 そのときは、まさか、と思った。でも対面コミュニケーションが激減した現在、渡邉さんからの「指摘」はなりをひそめている。以前はメールでも送ってきていたのだから、電子媒体を使うことがいやなのではないはずだ。
 そんなだから、渡邉さんの前の上司の意見が正しかったような気がしてくる。すなわち、疫病下で彼の利益はうしなわれたのだ。目を見て話を聞いて声を出して自分の発言を肯定してくれる生身の人間が。