傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼の人工的な盲点

 トオルが十歳になったので、トオル一家および「トオル会」のメンバー五名でお祝いをした。内実はただのホームパーティである。トオルは私の学生時代のゼミの先輩の息子で、障害がある。トオルの障害があきらかになった段階で先輩は何人かの学生時代の友人を選んで、こんな話をした。

 トオルは高い確率で、ひとりでいわゆる社会生活を送って寿命をまっとうするってことができないんだ。基本は俺ら夫婦と公的支援だけでいける、でも祖父母は遠くてあてにならない、緊急時とかは厳しい、あと俺ら夫婦の精神がだいぶ削れる。ケアリソースが長期的に不足することは目に見えてあきらかだ。上の子にも影響があると思う。そういうわけでみんなにひとつよろしくお願いしたい。

 せりふだけ書くとしおらしいけど、先輩のようすはぜんぜんそんなではなかった。「雨が降ったら洗濯物を取り込んでおいて」くらいの感じだった。

 先輩は学生時代から変な人だった。たいていのものに執着がなく、必要そうな人がいたらあげてしまう。先輩もまだ使うかもしれないでしょうと言われれば、「そしたらまた買えばいいじゃん」と言う。かといってお金持ちなのかといえば、ぜんぜんそんなことはなく、貧乏だった。大学生の時分には寮生活をしていて、寮生の中でも筋金入りにお金がないということだった。そして先輩は、貧乏なわりに、自分に金銭がなくて困るということをあんまり想像したことがないみたいだった。

 誰かがあきれて質問したことがある。先輩、そんなに人にあげちゃって、それで、自分の腹が減ったときに食い物がなかったら、どうするんすか。先輩は「こいつ何言ってるんだ」みたいな顔して、「誰かメシが余ってる人にもらう」と言った。「一足す一は二だろ」くらいの雰囲気で言った。

 ものだけでなく、時間や手間暇に関しても先輩はそうで、底抜けの親切さと、信じられないほどのずうずうしさを同居させていた。誰かに何かをしてあげること、誰かから何かをしてもらうことを、いずれも当然だと思っているみたいだった。「恵んでもらう」とか「同情してもらう」とか「免除してもらう」とか、そういうことに何の抵抗もなく、「やったあ」「ありがとう」と言うのだった。そして自分が誰かに与えた時間や手間暇や物品の見返りを求めたことは一度もなかった。

 誰かが尋ねた。もし先輩が困ってるときに、誰も何もしてくれなかったら、どうするんですか。先輩はやっぱり「こいつ何言ってるんだ」みたいな顔して、こたえた。誰かは何かしてくれるだろ。相手がいなけりゃ探せばいいだろ。

 あらゆる誰もが、どんな頼み方をしても、どんな手続きを踏んでも、俺に何もしてくれなかったら? そんなわけ、ないけどなあ。ないけど、そうだったら、俺、死ぬよ。しょうがないじゃん。

 そのような先輩がもうけた愛息であるところのトオルについて、私たちは私的な支援組織をもうけることにした。私たちはトオルの障害について勉強し、トオルが受けている公的支援を把握し、ある者はトオルの遊び友だちになり、別の者は時々訪れる家庭教師になった。先輩の上の子どもにも同じようにゆるやかな役割分担をもって接した。こうして関係を作っておけば緊急時に誰かがトオルや上の子を預かることもできる。先輩一家四人に対してトオル会の男女五名(うち二名は独身)、合計九名。全員揃うことは稀だが、大雑把に言って「家族ぐるみ」である。

 街中でトオルに心ないことばをかける人がある。私たちトオル会はそうした人々を憎む。先輩の妻も憎む。しかし先輩は憎まない。だって、そいつが、意味ないんだ、と言う。トオルは人間で、十歳の子どもで、その子どもに何を言っていいかもわからないやつは、いる意味、ないんだ。暴言や暴力は、訴えられる範囲なら、訴える、けど、その対象にならない加害については、憎む必要もない。

 私はさみしかった。私は、人を憎むのが良いことと思うのではなかった。でもできれば私は先輩にも、トオルに心ないことを言う連中を憎んでほしかった。配偶者やトオル会のメンバーと一緒に、腹を立てて罵って呪ってほしかった。

 トオルの十歳の誕生日、みんなで楽しく過ごしながら、私は先輩が怖かった。昔から、ほんとうは少し、先輩のことが怖かった。先輩は底抜けに親切で信じられないほどずうずうしくて、そして、世界のある部分を、決して見ようとしない人だった。「それは自分の世界には存在しない」とかたく決意して、人工的な盲点のように、それを見ずにいる人だった。