傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

犠牲者は誰だ?

 彼と組むくらいなら辞めます。女性医師がそう言う。「彼」が何をしたのかといえば、彼女には何もしていない。ただ酒の席で不用意な発言をしたらしいという、それだけのことが明らかになっている。それでもわたしは、何度検討しても彼に辞めてほしくって、彼女にはこの病院に残ってほしいのだった。

 わたしの仕事は医院の院長だ。院長としては少々若い部類かもしれない。職場は祖父母の代からある、どうということのない医院である。小規模で、医師の数もすくない。くだんの女性医師は何ごともよくできて勉強熱心、患者さんの評判も上々の、いわばエースである。

 「彼」は若手の男性医師であり、それまで大きな問題を起こしたことはなかった。なかったが、少し空気が読めないというか、無神経な発言をすることがあるという話を何度か聞いてはいた。わたしと同世代で忌憚ない物言いをしてくれる古参の看護師にこっそり水を向けると、あのセンセーはねえ、空気読めないんじゃないのよ、と教えてくれた。院長先生の言うことは聞くんだから、ありゃ空気が読めないんじゃなくて、自分が見下してる相手に対してだけ、空気を読まないのよ。これって大きな違いですよ。

 そのような不穏をはらみつつ、しかし当院は問題なく回っていた。つい半月前までは。

 わたしのいなかった酒の席で、どうやらその男性医師は(口に出すのも憚られることだが)、「女性というものは、無理矢理にでも性行為をすれば、その相手のものになるのだ」という意味のことを言ったらしい。「今の妻もそうやって手に入れた」とも。

 それがどれだけ強いニュアンスで発言されたのかはわからない。個別に事情を聞いたところ、本人は「強引に交際を迫る」という程度の言い方だったと主張している。居合わせた他のスタッフはそうではないと言っているが、彼らの言うことが完全に一致しているのでもない。全員が彼の発言に注意してしっかり聞いていたのではないのだ。

 この場合、彼を処分するほどの根拠はない。ないと思う。エースである女性医師も同じ見解を示した。その上で、言うのだった。もう彼とは一緒に仕事ができません。だから自分が辞めるしかないと思っています。

 少人数の医院で特定の二名の接触を避けることはできない。医療の現場はフィジカルな距離が近い。その距離の近さを許容させるのは職業意識と職業人同士の信頼感である。無理なんです、と女性医師は言った。生理的に、無理になってしまいました。

 わたしは男性である。そして、職場の誰も知らないことだが、男女双方に性的な魅力を感じることがある。数としては男性のほうが多い。そうしたことには淡泊で、惚れっぽくもないから、年齢のわりに交際した相手は少ないのだけれど、そんなことはどうでもいい。わたしは、「無理矢理にでも」という信念を持つ男と、ふたりきりになったことがある。恐ろしかった。

 幸い実害には至らなかった。でもわたしは、そのできごとからいっそう、色恋沙汰に慎重になった。相手が女性なら怖くないということはない。性別にかかわらず、自分をモノのように思っている人間に対して、それこそ生理的な恐怖感を覚えるようになった。そしてすべての相手にその可能性を見いだすようになった。その可能性が払拭されるまでふたりきりで密室に入ることができなくなった。結婚や永続的なパートナーシップなしに今に至るのは、あるいはそのせいかもしれなかった。

 わたしがそういう人間だから彼の発言を過敏に受け止めて彼を辞めさせたいのだろうか。女性医師は女性だから彼の発言を過敏に受け止めて彼と働けないと主張しているのだろうか。もしも彼を辞めさせたなら、彼はわたしと女性医師の犠牲になったも同然ではないのか。だって、彼が実際には何と言ったのか、正確にはわからないのだから。

 彼を辞めさせなければ、女性医師は理不尽な理由で転職を余儀なくされる。わたしは医院のエースをうしなう。そして何より、わたし自身が彼とともに働きつづけなければならない。わたしは跡継ぎ院長で、出て行くことができないのだから。彼が異性愛者で、わたしが男性で、彼より権力を持っていたって、そんなことは関係がない。おぞましい。

 わたしは誰を犠牲にするのだろうか? わたしに相談相手はいない。仕事の相談をする相手は職場の中にも外にもいる。プライベートについて話せば聞いてくれる人もいる。でもその両方を兼ねる相手はいない。わたしはひとりで、早々に決めなければならない。犠牲者は、誰だ?