傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

生徒会長から雲をもらった話

 西脇くんは生徒会長でわたしは書記だった。中学生のころのことだ。わたしたちは素直ないい子で、クラスで推薦されて先生からもやってほしいと言われて全校生徒の前で選挙に出て生徒会をやっていた。わたしはピアノが得意で芸高の受験準備をしていた。西脇くんは進学校に行くつもりであるらしかった。わたしたちの中学校はどちらかといえばガラの悪い下町の公立校で、わたしたちはだから、相対的に優等生だった。

 西脇くんは背の高いがっしりした男の子で、もじゃもじゃの髪を中学校の校則ぎりぎりまでのばしていた。黒縁のめがねをかけていて、そのめがねは上等のものだった。わたしは工芸に詳しくなかったけれど、それでもわかった。

 そのめがね、いいね。わたしが言うと西脇くんはそれを外し、制服の裾でていねいに拭いて、見る、と言った。わたしはありがとうと言ってそれを見た。一見ふつうの黒いフレームのめがねだったけれど、流麗なフォルムをしていた。わたしがそれをほめると、西脇くんはうつむき、ほしくてほしくて親に頼み込んだ、と言った。

 わたしが芸高を受験すると話すと、西脇くんは細く長いため息をつき、選ばれた人だ、と言った。まだ選ばれていないと言ってわたしが笑うと、西脇くんは首をうしろに向けて、だって、目指せるじゃないか、と言った。芸術をやりますって、宣言できるじゃないか。もう選ばれてる。

 西脇くんは絵が少し描けた。でも絵を描くための教育を受けているのではなかった。そしてそれでもわかるような飛び抜けた絵の才覚があるのでもなかった。成績は学年でいちばん優秀で、実直な生徒会長だった。西脇くんは自分のことをよくわかっていた。美しいものを好きで、でも進学校に行くのが妥当であることを。

 わたしのお母さんは西脇くんをわたしの最初の彼氏だと思っているけれど、そんなのではなかった。西脇くんもわたしのことを恋愛とかそういう感じで好きなのではなかった。好きという感情が未分化な中学生でも「これはちがうよな」と思ったし、その後も折に触れて「やっぱりそういう感じではない」と思った。西脇くんのほうはもっと露骨で、高校で好きになった女の子がいかにすてきかという話をわたしにしていた。西脇くんは奥手でなかなか女の子に手を出せず、わたしにせっつかれて話をするときにも真っ赤になって広い肩やら大きな足やらをじたばたさせるのだった。そんなだから二十歳過ぎまで女の子とつきあったことがなかった。

 わたしは芸高から美大に進んだ。山の中にある敷地の広い学校だった。西脇くんとはときどき連絡をとっていた。美大の文化祭に行ってみたいというので、当時の彼氏と駅まで迎えに行った。どうして彼女を連れてこなかったのと訊くと耳たぶまで真っ赤にして、あの、あの人は、あの、そんなのじゃないから、とこたえるのだった。わたしと彼氏はすごく楽しくなって西脇くんを両側からつつきまわした。

 わたしたちは文化祭を回った。わたしが仲間たちと大学の敷地内に作った小屋を見せると(全員音楽をやっていたのに文化祭では学校のお金で木材を発注して敷地の中にクレイジーな小屋を建てた)、西脇くんはひどく笑い、それから、いいなあ、と言った。いいなあ。うらやましいなあ。

 これ、あげる。西脇くんが唐突にそう言ってわたしにこぶしをつきだした。包み紙をあけるとごく小さなつや消しの不規則な楕円を細い細い鎖でつないだピアスが出てきた。先端にはうす青いガラスがついていた。何もかもが小さくて、全長は三センチもなかった。

 わたしと彼氏は西脇くんを見た。金の楕円は雲で、と西脇くんは言った。雲が雨を降らせているんだ。わたしたちは感心してその精緻な細工を鑑賞した。好きな女の子にあげたらいいじゃんとわたしが言うと、あの子はピアスあけてないからと西脇くんは言った。自分でつけたくないの、と彼氏が言った。耳に穴あけるなんて簡単なことだよ。あけてやろうか。

 つけたくないことは、ないけど、と西脇くんは言った。僕は男で、こんなだから、つけられない。そういう、つまらない人間なんだ。でもどうしても買いたかった。イスラエルの作家が作ったんだって。

 いつかイスラエルに行きなよ、とわたしは言った。そうする、と西脇くんは言った。大学を出たあと、西脇くんはほんとうに海外出張の多い商社に就職した。たまにSNSで見る。わたしのピアスホールはとうにふさがっているけれど、金の雲は捨てずにとってある。とても美しいから。