傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

関係のない人

 業務用のソフトウェアを企業に売る仕事をしている。わたしの所属する会社がそのソフトウェアを開発しており、わたしは営業である。ソフトウェアの使用を検討している会社に出向き、彼らの話を聞き、マッチしているようなら導入のための計画を立て、導入に障害がある場合にはその相談にも乗る。費用をじゅうぶんに出せないなど、導入がそぐわない場合には、ご縁がなかったということで引き上げる。導入が成れば先方はわたしの会社の長期的な顧客になるが、わたし自身の仕事はおおむねそこまでである。ソフトウェアの使用時に何かあった場合にはサポートのチームが対応する。わたしが導入後の企業と直接つきあうことはほぼない。

 ほぼ、とつけたのは、今日、導入後の企業から連絡があったためである。通常はゼロだ。先方の人事異動で新しい担当者がついて、引き継ぎがされていないままわたしの名刺を使ったというようなことかもしれない、と思った。なにしろ先方がわたしの会社のソフトウェアを導入してくれたのはもう八年も前のことなのだ。わたしは当時のメールを検索し、古い名刺を確認した。けれどもメールの送り元も、その署名も、わたしの記憶と手元の名刺にあるとおりなのだった。わたしはいささか不思議に思いながら、サポートチームの連絡先を再度送った。

 そのクライアントから返信が返ってきた。しかしながら、何を書いているのかどうもよくわからない。ものすごくあいまいな文面を三度、読んだ。クライアントが三度目のメールでようよう書いた名前は、僕の聞き覚えのないものだった。メールにはこう書いてあった。弊社のカワラブキが何かいたしましたでしょうか。

 知らない名前である。否、半年前、そうだ、半年前に、駅で唐突にその名前を名乗られたことがあった。半年前、外で昼食を食べて自社に戻っていたところ、知らない人に話しかけられた。その人はこう言った。あの、カワラブキです、ご無沙汰しております。

 わたしはその名前を知らなかったから、お人違いではないでしょうか、というようなことを述べて、立ち去ったのだと思う。たしかそうだったと思う。こまかいところは覚えていない。人間は意味のないことからどんどん忘れる。正確には、記憶されてはいるが想起されない、と本で読んだ。

 しかたがないのでクライアントに電話をした。メールに残したくないと先方は感じていて、しかもわたしが聞いておいたほうが良さそうな雰囲気だと感じたからだ。根拠はない。勘である。

 はたして、先方はカワラブキさんとわたしの間に何か深刻なことがあったと捉えていたようだった。わたしがカワラブキさんを誰とも知らず、半年前に話しかけられたことをようよう思い出した程度だとこたえたら、絶句していた。カワラブキさんは八年前、わたしが営業でその企業を訪れたときに同席した女性だそうである。当時はアルバイトの学生で、その後就職したということだった。クライアントの話とわたしのおぼろげな記憶を照合するに、わたしはカワラブキさんと何度か顔を合わせたようだった。短い世間話くらいはしたかもしれない。なにぶん八年前のことだ。直接のクライアントはともかく、同席しただけの人のことなど霧の向こうのようである。

 そうしてそのカワラブキさんは、「詳しいことは話したくないが、八年前に営業で来ていた男性にとてもひどいことをされ、深く傷ついた」と話して、会社を休んでいるとのことだった。わたしは仰天した。わたしはたしかに八年前にその会社に営業に行った男だが、カワラブキさんの存在さえ認識していなかった。関係がないのだから、傷つけることはできないのではないか。

 その後、クライアントから再度電話があった。とてもとても恐縮していた。カワラブキさんがわたしにされた「ひどいこと」というのは、「自分の名前を覚えていなかったこと」だそうだ。何やら思い立ってわたしの名前をSNSで検索し、わたしが営業先に出ていないときは決まった時間に外で昼食を摂ることを察知して、それで近辺にいたのだそうである。

 カワラブキさんが何をもってわたしに執心したのかはわからない。何らかの思いがあって、それで八年も連絡しないというのも、わからない。SNSの実名アカウントの投稿内容をつぶさに見るくらいならメッセージを送ってくればよいと思う(それが可能な設定である)。何から何までわからず、なんだかとても気味が悪くなって、わたしは反射的に、お気にならさらず、とクライアントに言った。ぜんぶ忘れますので、どうぞお気になさらないでください、わたしにはかかわりのない方なのですから。