傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ミイラ取りの田中さん

 彼に対して田中さんという呼称を使用する人はいない。田中さんは複数いて、彼はもっとも新しく来た人だからだ。下の名前と同じ読みの人もすでにいる。そんなだから、座席表は「田中(浩)」、近しい同僚からの呼び名は「ミーさん」で落ち着いた。ミはミイラのミである。

 田中さんは中途採用、今年度で三年目に入った。というのは表向きのことで、ほんとうは中途ではない。田中さんは採用時二十八歳で、学校を出たばかりだった。履歴書を読むと大学院博士課程満期退学、と書いてある。新卒じゃん、と私の上長は言い、そうですね、と私はこたえた。けれども、私たちの会社では新卒というのはどうやら二十代前半までで、だから田中さんは新卒扱いにしたくないらしいのだった。そんなのどこにも書いてないじゃん、と上長は言い、書いてないですねと私はこたえた。

 採用チームは人事担当ならびに採用対象の所属する予定の部署で組む。私は採用チームで年齢がいちばん下だったから、前例や内規を調べるというような、下っ端らしい仕事をした。田中さんのような新人の前例はなく、内規にも書いていない。だから田中さんは新卒だと私も思う。でもそうはいかないだろうなと思ったとおり、私の上長以外はもごもごとよくわからないことを言い、田中さんは中途採用の扱いになった。そもそも田中さんは年齢を理由に採用ルートから外れるところだった。年齢差別するなら内規にそう書いとけばいいじゃん、と私の上長は言い、まったくですねと私はこたえた。

 田中さんの採用面接はちょっとした見物だった。今まで何をされていたのですか。私の嫌いな役員が侮蔑を隠そうともせず、田中さんに尋ねた。はい、と田中さんは元気にこたえた。ミイラの研究をしていました。ミイラ、と私の上長が言った。ミイラ、と私も言った。ミイラです、と田中さんはこたえた。すごくいい笑顔だった。

 田中さんは外国でミイラを発掘していたから語学ができる。ミイラの分析には数学を使うのだそうで、数字に強い。外国の僻地に行って生きて帰ってくるのが専門だったからいろいろとタフである。たとえば嫌みを言われると「異文化ですね」で済ませる。身体もすこぶる丈夫だが、椎間板ヘルニアだけが悩みだという。発掘なんかするからですよと誰かが言い、まったくですと田中さんはこたえた。

 田中さんはいつも同じような服装をしている。就職するからとはりきってスーツをいくつか買って、そればかり着ているのだという。着るものについて考えるのが面倒であるらしく、私服も制服みたいに数パターンとりそろえて済ませているのだという。ある日の仕事中、田中さんのめがねのレンズがフレームから落ちた。田中さんは落ち着き払ってレンズをフレームにあて、ばんそうこうで止めた。そのまま週末まで仕事をしていた。視界にばんそうこうが入って邪魔でしょう、と訊いてみたら、鼻もずっと視界に入っていて邪魔ですと言った。

 田中さんはあっというまに人気者になった。能力が高い人間が職場で人気になるのはあたりまえだけれども、田中さんの場合は人を否定する雰囲気のないことも人気の要因だと思う。いつもなんとなし愉快そうであって、よく人を褒める。それだけのことだけれど、選んでつきあっているのでもない相手ばかりの会社という場所でそれだけのことができる人はあまりいない。機嫌が悪そうに振る舞うことで相手をコントロールしようとする人もけっこういる。

 田中さんの採用に否定的だった人々のうち、一部はいまだ田中さんを無視している。田中さんは彼らにも元気にあいさつしている。あいさつを無視されて腹が立たないのかと訊いてみたら、あいさつはタダだから腹は立たない、ということだった。田中さんはやたらとコスト意識が高い。精神や感情を使うことはコストだと思っていないのかと訊くと、相手の反応を気にしなければコストにならない、と説明するのだった。反応を気にするのは自分が愛する人間やミイラだけでよいのだという。なんだろう、ミイラの反応って。

 田中さんの入社から二年半、社内には田中さん的な雰囲気が伝染したような人も幾人か出てきた。そのなかには田中さんの採用に不満を述べていた人も含まれている。「ミーさん化」と誰かが言った。ミイラ取りがミイラになる、の反対ですかねえ。私がそうつぶやくと、あなたも人の好き嫌いが激しいねえ、と上長が言った。考え方が合わないからって、同僚に向かってミイラはないでしょう、ミイラは。