傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

“ 傷害雲雀、殺人ちゆりっぷ ”

 ご足労いただきましてと目の前の男は言った。彼の訪れた小さな会社の社長だということだった。紙のような、と彼は思った。スーツも皮膚もどこか乾いた、今朝出してきて夜には捨てるもののような感じがした。お時間いただきましてと彼は返した。下げた頭から視線を上げると目が合った。ふだんはわずかに逸らして疲れないようにするのに彼はそれを何秒かまともに見てしまった。
 彼は焦点だけをずらして愛想良く話す。どうしてかとっさにそうした。ある専門的なソフトウェアのカスタマイズと導入が彼の仕事だから、顧客や顧客になりうる人間に話をするのはいつものことだった。いつものことでない部分がどこかにあったのだと彼は思った。いま見たもののなかに。
 まっしぐらに笑いかけてくる男は五十がらみの中背痩躯、白髪まじりの髪を短く刈りこみ、間延びした顔立ちをしている。おかしなところはない。けれども、機嫌良く受け答えするその表情はほとんど無邪気といっていいもので、それが企業人としてはおかしいと、そう言えないこともない。それから目がひどく、美しい。
 彼はそれまで同性の目を見て美しいだなんて思ったことがなかった。人の目を見て思ったこと自体がなかったかもしれない。美人の目は美しく感じられるけれども、それは要するに相手が女で若くて外見が好みだからそう思うのだ。けれども、目の前の男は彼がその種の関心を寄せない相手だ。光彩の色がやや薄く、瞳孔がくっきりと見える。ひどく澄んだ印象があった。
 僕はね、と男が言う。以前はもっとずっと大きな会社にいたんです。そのときだったら今の会社で払うような小銭じゃなかったろうに、残念ながら前の会社をやめて自分でどうにかする羽目になっちゃったので、なんだか申し訳ないな。いえいえと彼は笑う。感じよく笑う。御社への導入だけでじゅうぶんありがたいですよ。それにご自身で会社を立ち上げるなんてすばらしいことじゃないですか。
 僕はねえ、と男が言う。悪いことをしたんですよ。彼はほほえむ。その小さい会社の小さい会議室には男と彼のほかに誰もいない。明るく白い部屋で外はよく晴れている。悪いこと。返答に困ったら鸚鵡返しにするのが定石だ。男は衒いなく笑う。そう、悪いことです。会計をちょっといじってね、まあ組織ぐるみではあったんですけど、僕がやったということで、ええ、名前で検索すれば出ますよ、逮捕されたから。
 彼は男の顔を見ている状態を保ったまま膝の上のスマートフォンを操作する。たとえ男が検索すると察していても目の前でおこなうわけにいかない。た。彼の視界の端にスマートフォン上の文字がうつる。た い ほ。事実だ。どうして自分で言うのだろうと彼は思う。そういう相手と仕事をする気にはたいていの人がなれないだろうに。
 男はゆったりと話題を商談に戻す。彼はうなずく。男とは折り合わないであろう条件を提示する。視界の下の端でスマートフォンのブラウザをスクロールさせる。再。暴。彼は指を止める。軽く目を伏せる。名刺にあった男のフルネームが見える。知人男性に対する監禁暴行により再逮捕。彼は目を上げる。小部屋の扉は男の向こうにある。男は年のいった造作で表情だけ子どもみたいに単純だ。思惑とか計略とか隠し事とかそういうものからはるか遠くにある顔だ。彼は笑う。感じよく笑う。突然殴られるところを想像する。ありありと想像する。男は凶暴に豹変するのではなくて、こんな感じのままで、きっと。
 それでそれでと訊ねると、殴られてたらのんきに連絡しないって、と彼は言った。条件が合わないことを穏やかに確認してお時間いただいたお礼を述べて静かに帰ってきたよ。そのあとひとりで平気な顔してられないから片っ端からメッセージ送ったわけ。彼女とか親とか友だちとか昔の知りあいとか、前日につきあいで連れて行かれたキャバクラの姉ちゃんとかに。
 みんな返してくれたと訊くと彼はうれしそうに肯う。いやあ、みんなやさしいよね、まあ意味の分からないシチュエーションだから説明しろっていうのもあるんだろうけど、一回会っただけのキャバ嬢でさえ一応返事くれたもんな。でも電話するのはそのうちほんの少しにした。どうしてと訊ねると彼は笑う。ちょっと歪んだ声で笑う。彼女に話したらちょっと気分悪くしちゃったみたいだから。俺はさ、悪いことあると、飲まないで吐いちゃうみたいに話すんだけど、要するにそれって精神的なげろだからさ。げろOKな相手を選ばないとなーって思って。私の扱いがひどいと言うと彼は、先ほどより歪みの少ない声で笑う。
 
【in the room 3】