傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

女優と地蔵と冷蔵庫の中

 また地蔵になってしまったと彼女は思い、そういうときに特有の、自分の中身がごっそり抜け落ちたような快さと後ろめたさを感じながら自宅の扉をひらいた。二日ぶりだ。まずは浴槽にお湯をため、待ちきれずそこに入り、半端な半身浴みたいなことをしながら全身を泡だらけにした。
 いささか人間的な気分になって居室に行くと、案の定そこからは彼の持ち物が消えていた。雑誌だとか、何着かの着替えだとか、そんなものだ。彼らはしばしば互いの部屋で過ごす。
 過ごしていた、かなあ、と彼女は思う。ビールのみたいなと思う。泡の出るお酒はいいものだと思う。それからソファに寝そべって天井を見る。テレビはつけなかった。なにかを入力したい状態ではなかった。天井の情報量でじゅうぶんだと彼女は思う。
 彼女はグラフィックデザイナで、フリーランスの集団のような小さい事務所に所属している。お得意さまはテレビ番組の製作会社だ。彼女は彼らの動画を預かり、それを構成する画像の一枚一枚を修正する。
 地蔵というあだ名は美大にいたころにつけられた。ふだんはぼんやりした学生で、年に二度ばかり制作に没頭し、そのあいだはほかのことを一切しなくなるからだ。同期の学生が彼女の観察日記をつけた。「六月二十日十五時、マウスを持つ右手と眼球しか動かず。十八時、同左。二十時、同左。地蔵のようだ。水の入ったペットボトルをお供えする。反応はない」。
 彼女の職場では彼女の地蔵化が許容されている。地蔵になった彼女はスケジュールに無理のある仕事だってきれいに片付ける。請け仕事ではなく彼女自身の希望で制作したコンテンツが高く評価されたこともある。だからOKだと彼女の仲間たちは言う。そういう極端な状態にならなくても同じアウトプットが得られるならもちろんそのほうがいいけど、それはきっと無理なんだよね、尋常じゃない成果は尋常じゃない状態を必要とするんだろう、だからかまわないよ。
 でも職場の外ではそういうわけにいかない。地蔵は人間関係の価値を理解しない。食事の約束はぜんぶキャンセル、恋人が部屋で待っていても帰らない。だから友だちが少ないし男の人に振られる、と彼女は思う。年末に米俵背負って恩返しに行ったってもう遅いんだ、みんないなくなってしまう。
 自分の価値が感じられないと彼女の恋人は書いた。ぜんぜん必要ない人間に思える、いても意味なんかない、そういうのはとてもつらい、だからちょっと考えさせてほしい。彼女はそのメールを見る。二十四時間ばかり前にもらったものだ。彼女はまた天井を見て、めんどくさいなと思う。まだ返信していないから何か書いて送らなくっちゃいけない。
 必要としていないはずがないのにと彼女は思う。私は脆弱な人間で誰かがOKだって言ってくれなくちゃ自分をOKだと思えないのに、彼氏いないと自己評価が暴落して生活に支障をきたすのに、そして彼のほかにいま仲良くしたい男の人はいないのに、だからいてくれないと絶対に困るのに、そのことをどうして理解してくれない。彼がいなくなって次の人を探しに行くなんて想像するだけでめんどくさすぎる。あんまり面倒で死んでしまうかもしれない。
 地蔵にならなければいいのか、と彼女は思う。そんなに極端に仕事ができる人になりたいわけじゃない、自分の作るものに対する執着もない、テレビに映る人の顔の皺を一瞬ぶんずつ消してそれを毎日毎日繰りかえして満足している、きれいな女優さんがもっときれいになってよかったなあと思う、自分が作ったごはんを食べて彼氏や家族や少しの友だちとおしゃべりして夜はすやすや眠って幸せに暮らしている、だから、地蔵になんか、ならなければいい。
 彼女がそこまで話したところで私は右のてのひらを立てて彼女の語りを止める。それはまずいよと私は言う。地蔵は大切なものだよ、うまく言えないけど、あなたほど極端じゃなくっても、いろんな人の中に地蔵はあるんだと思う、だからそれを存分に開放できるあなたはそれを捨てるべきではないんだと思う。
 彼女はにやりと笑う。私は首をかしげる。冷蔵庫にねと彼女は言う。天井を見飽きたからなんとなく冷蔵庫を開けたの、おなかすいてたから。そしたら中にラタトゥイユと鶏をハーブで焼いたのと、あとスパークリングワインのハーフボトルが入ってた。あの人、私が地蔵になって戻ってきたあとはごはんあっためるのもめんどくさいって知ってるんだよね、だからなんにもしなくても野菜が取れるように作っておいて、私の好きなお酒を冷やしておいてくれたの。