傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

大丈夫って言いたくなかった

ゆうべも揺れたねと彼女は言った。ねー、怖かったあ、と私はこたえた。眠ってても揺れた気がして起きちゃうし、ほんと、つらい。
彼女は一瞬の、ずいぶんと重量のある沈黙ののち、表情のない声を出した。サヤカあなたなんでそんな簡単につらいって言えるの。私はいささか仰天してとりあえず謝った。彼女はひゅっと音をたてて息を吸い、無表情のままそれを少しずつ吐き、ううん、謝ることないの、と言った。
大丈夫ってみんな訊くでしょう。彼女は言う。地震直後は、それがうれしかった。会社から歩いて家に着いて、家族もけがしてなくて、とてもほっとして、よろこんで返事した。でも地震が続いて、電気が止まって、仕事にも少しずつ支障が出てきて、買いにくいものがあって、みんな、また訊いてくれるの。心配して声かけて、メールをくれる。大丈夫って私、言う、メールを書く、大丈夫平気大丈夫です大丈夫です大丈夫です、
私はおろおろしてカフェの椅子をひきずり、彼女の隣に陣どった。誰かがやけに平板な声と顔をしているとき、そばにいる人間はもっとそばに行くべきだ。ほかにもっとふさわしい人がいるんだろうけど、いま彼女のいちばん近くにいて彼女に話しかけられているのは私だ。
だから私はそのようにした。彼女はまた強く息を吸い、にっこりと笑った。大丈夫そうな笑顔。これはだめだ、と私は思う。こんな上手に顔にアイムオーケーって書いちゃうのはだめだ。みんな安心したくて、否定してもらうために何度も質問してしまう。大丈夫?
こんなに何度も揺れて、大丈夫なはずがない。みんな疲れているし、不安だし、いらいらしている。でもそう言わない。みんな大人だからだ。大人は自分のつらい気持ちを一方的に他人に投げることができない。私たちはおたがいのマイナスの感情を許容できる関係においてのみそれを引き渡すことができる。そしてそんな関係はそこらへんにごろごろ転がっているものではない。
だから私もつらさを全面的に表現できることは少ない。でも私は不真面目なので大丈夫ですかと問われて大丈夫じゃないですとこたえることができる。もうだめっす、すべてを放棄して南の島で猿とたわむれて過ごしたい。彼らは笑ってだめだめとこたえる。
友だちにねお芝居の好きな人がいるんだけど、と私は言った。彼女はほほえんでいるような顔で私を見た。飲み会に呼ばれて行ったら、その友だちの知りあいの俳優さんが来てたのね。俳優っていっても映画とかのじゃなくって、市民劇場とかワークショップとかの指導をしてるんだって言ってた。つまりそこらへんのふつうの人を舞台に乗せる仕事ね。彼女は首をかしげる。私は何度かうなずく。最後まで聞いてほしいというメッセージだ。
ふつうの人は感情を表現する訓練ができていないって俳優さんは言ってた。感情をあらわすのは生まれつきできる当たり前のおこないではなくて、訓練して身につける技能らしいよ。そしてそれは舞台に乗らない人にも必要なのものだって。
悲惨な場面でへらへら笑ってるように見える人とかいるでしょう、それは悲しんでいないんじゃなくて、悲しみを表現する訓練ができていないってことみたい。そして表現された感情を自分で認識すると、その感情は強く感じられて、その人の中で意味づけされるの。そうしないと感情はその人の人生にうまく着地できないの。だから訓練が必要なの。
私は訓練されていないのかしらと彼女は問う。おそらく、部分的に、と私はこたえる。たいていの人は部分的にしか訓練されていないと思うよ、たとえば、よろこびはすごく上手に表現できるけど泣くという機能が停止してしまっている、とかね。
サヤカはと彼女は問う。私は少し迷って、でも正直に言おうと思う。私は泣けるよ、毎週泣いてる、泣くのが趣味なんだと思う。じゃあいいわねと彼女は言う。ほかの感情はそうでもない、と私はこたえる。
彼女の胸がまた音をたてる。彼女はもう一度長い長い息を吐く。私ね子どものときからときどき息のしかた忘れちゃうの、と彼女は言った。小さい声だった。そういうときはいつもこうやって息をね、全部だすの。そのやり方は正しいよと私はこたえる。息を吸いすぎてるから苦しくなるんだよね。訓練ができていないからかしらと彼女は問う。だから息のしかたを忘れるのかしら。そうかもしれないねと私は言う。大丈夫じゃない感じ、うまく出してあげられると、忘れないかもしれないね。