傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

怖くて安心

空港で保安検査の列に並んでいるとき、あるいはイミグレーションでパスポートを検分されているとき、私はいつも怖い。
私は飛行機に乗れないような、あるいはその国に入れないような欠陥を持っている。彼らはそれを発見する。私にはひとこともわからないことばで、彼らは私を難詰する。私の謝罪を、彼らは理解しない。それでも私は一生懸命に謝る。彼らが少しも解さないことばで、彼らには誤解の他になにももたらさないしぐさで。だってそのほかに、私にできることはない。ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるしてください。そして私は横目で彼らの油断を探る。空港の清潔な床を見ているふりをして視界の端で探る。彼らが気を逸らしたら逃げてやろうと思う。裸足のままだってかまうもんか。
それは特定の条件下で半ば自動的に再生される空想にすぎない(もちろん)。それはただ軽い吐き気と、それが去ったあとの強い眠気をもたらすにすぎない(眠気と吐き気の境目はつねに曖昧だ)。私には空を飛ぶ上での問題はとくになく、しかるべき手続きをおこなえばたいていの国に入国することができる。
わかっていても、オブセッションは私を解放しない。私はそれを追い出すことができない。私はそれを飼いならすしかない。
ちかごろはだから、それがやってくると、ほとんど安心する。ああ、予定通りに来た、と思う。たとえ対象が恐怖であっても、何度も経験すれば慣れる。それが肉体的な痛みや致命的な思考の停止をもたらさない程度に飼いならされているとわかっているからこそ、だけれども。
そうして私は、いささか手つきがあやうくはなりながらも、それほど問題を起こさずに長距離を移動することができる。なにしろ私は、たいていは脱ぐ必要のない靴を脱げと言われたときのために、するりと脱げるやわらかい靴を履いて出るくらいなのだ。オブセッションの効果、空港の業務のごくささやかな省力化。
それにしても私の恐怖がじゅうぶんに抽象化され、飼いならされ、多少もたついても問題が起こらない状況に結びつけられていてよかった、と思う。ほかにも類似する感覚をもたらす状況はあるけれども、いずれも人に結びつけられてはいない。人に結びついたオブセッションは、持っている人と持たれた人の双方を深くそこなう。それは単なる古い欠落の影ではない。そのたびに新しく人を削りとる粗雑な、そのくせひどく大きなナイフだ。
私がいま持っているオブセッションはそうではない。だから私は安心して怖がる。からだから入念に金属をはずし、期限が切れていないことを何度も確認したパスポートを持ち、効力があることをしつこいくらいに見直した航空券をかばんに入れて。