傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

「いつも正しい」は怖い

久しぶりに会った知りあいに、やせたね、と言うと、彼女はにっこりと笑い、まあね、でもやせたことより健康になったことのほうがうれしい、私いまマクロビやってるの、と言った。そして玄米なんて食べる?と訊くので、食べるよと私はこたえた。すると彼女はいきおいよく、玄米食について語った。
私が、玄米も食べるけれど白米ももちろん食べるし、肉も好きでお酒ものむ、というと、彼女は眉間に皺を寄せ、そんなだからアレルギーが治らないのよ、と言った。アレルギーというのは「正しい生活」をすれば治るものなのだそうだ。
ごめんねと私は言った。ごめんね、私そういうのできない。
彼女は玄米菜食を信じているのではない。いや、信じているんだけれども、もっと根本のところで信じているのは「この世には絶対的な正しさがあり、自分にはそれをみつけて遂行することができる」ということなのだ。
私はそれがわからない。一律に適用される絶対的な正しさがなんてものは「絶対に」ないと思う。たとえば正しい食生活は人によってちがうし、体調や加齢や気分によっても変わるものだと思う。だから毎日「今の私にはなにが必要なんだろう」と思いながらごはんを作る(そしてときどき「いま私は野菜を欲しているみたいだな、でもめんどくさいからポテチでおなかいっぱいにしちゃえ。ポテチおいしい」とか堕落する)のが正しい、と思う。
と思う、ばかりが続くのは、そんなに自信がないからだ。こういうことは自信がないままにやっていくしかない、ということには自信をもっているけれども。
そういう意味のことをもそもそと話すと、彼女は天井を見て窓の外を見てそれからまた私の顔を見て、まあしょうがないよね、お肉もおいしいもんね、と言った。私はにこにこしてうなずいた。少しほっとした。彼女が自分の思う「正しい食生活」に同意しない私を非難しなかったことと、肉を食べると血が汚れるとか、そういうことを言い出さなかったことに。
なにがなんでも正しい食生活でなければならない、それ以外は毒だ、と思っている状態でなければ、彼女のからだが油や動物性たんぱく質を欲したときには「なんかすごい食べたくなって焼き肉食べちゃった」ってことになるだろう。それくらいが私が個人的に納得できる「正しさ」の遂行の上限のように思う。一律の正しさに敬虔に帰依するなんて、おそろしいことだ。