傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたはなにひとつ持っていない

隣のテーブルの声を聞いて、私と友だちは顔を見あわせた。私たちにも話すべきことはもちろんあったけれども、さしあたりそれは保留にし、隣の会話を聴いた。
あなたといると私はとても苛立つの、と、隣のテーブルのひとりは言った。おそらく二十代後半の、ちょっと目立つくらい目鼻立ちの整った、モスグリーンのワンピースを着た女性だった。声の出し方がよくコントロールされているし、なにより声質がいい、と私は思った。大げさな抑揚なしにいろいろな表現ができる、艶のあるアルト。
彼女は言う。私はいろんなものを手に入れようと思ってがんばってきた、その大半は手に入った、私は、私の手に入れたものを誇っているし、まだ手に入れていないものについてはきちんと計画を立てて手に入れるつもりでいる。
私たちは耳を澄ませる。隣のテーブルのもうひとりがこたえる。そうね、あなたはそう、なにしろ果敢で優秀で、私はとてもあなたが好き。
やはりやや低音の、でもこちらは少し軽めの、涼やかな声だった。視界の端に映る姿はやはり二十代後半、連れの女性ほど強い印象を与える外見ではなく、でもじゅうぶんに魅力的だ。オフホワイトの、ノーカラーのジャケットを着ている。
私は好きじゃないの、とワンピースの女性が言う。ねえ品が良さそうに見える振るまいを一生懸命探しているなんて下品でしょう、それなりに好きだけどなにより条件を勘案した男と結婚するなんていやな話でしょう、子どもが生まれたときに「これで誰にも文句を言わせない」と思った、そんなの子どもがかわいそうよ、私は、キャリアパスもぜんぶ見栄えで決めてきて、やりたいことなんて今までひとつもなかった、だから私はあなたといると苛々する、あなたはなんにも持っていないのにそんなに楽しそうにして、私はまるで、ステイタスだけが大好きな、うすっぺらい人間じゃないの。
私と友だちが固唾をのみながら何気ないそぶりで食事を続けていると、白いジャケットの女性はのんびりと言う。
いやだ、私だってあなたとおんなじくらい俗物なのに。ただあなたみたいになんでも手に入れる能力がなかっただけなのに。それに、私は、欲しいものが手に入らないことより、いやなことをすることを避けたい性質なの。私はただ、したくないことをしないことを追求してきただけ。なにも持っていないことに、満足しているわけじゃないの。私だって、あなたみたいな格好良い肩書きがほしいな。すてきな旦那さまがほしいな、かわいい赤ちゃんがほしいな、ほんとうはね。
ふたりはそのあと、だれかのうわさ話や、共通の趣味らしい欧州サッカーの話をして、愉快そうに食事を終えた。
私は友だちに訊いた。ねえねえ、私もなにも持ってないんだけど、なんか、言うことない?
友だちはあきれた顔でこたえた。あのさ、私だってたいしたものは持ってないよ、あと、あなたのことはべつにうらやましくないよ、だって私も、欲しいものを手に入れるより、したくないことをしないほうに力を入れてきた類の人間だもの。